AM 6:45




「着いたぞ、お疲れさん」

「ありがとうございます、気持ち良かった!…けど、お尻がまだ震えてる気がする…」

「ははっ、そうかよ」



長く続いたカーブを抜けて広く開けた視界の先に見えたのは、拳西の告げた言葉通り、確かに濃紺の水をたっぷりと湛えた一面の海と薄灰の砂浜だった。
夏の海水浴場の名残を呈す砂浜の入口にバイクを停めた二人は、人一人居ない広い砂浜を波打ち際に向かってゆっくりと歩いて行く。
一直線に続いている水平線はどこまで行っても果てが無い様で、微かな波音をさざめかせながら深い藍色で静かにそこにある海原を見ていると吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。
修兵は無意識に一歩先を歩く拳西の左手に己の右手を絡ませた。
寒さとは違う感覚で背筋が震えている様な気がする。
だけれど、怖いと感じるのとは少し違うのだ。
目の前の景色はどこかとても綺麗で飲み込まれそうになる、と言うよりは、還る…上手くは言えないけれどそんな感覚になる。
あちらでどんな景色を見ても感じる事の無かった感覚が胸の内をざわつかせて、修兵はそんな掴み所のない自分の感情を持て余しながらも目にした光景を印象のまま口にした。

「綺麗…」

「そうだな。でも、こんなもんじゃねぇぞ?」

呆けた表情のまま自分を見上げる修兵に拳西は唇の端を吊り上げて悪戯っぽい笑みを浮かべながら、もう少しだと言って修兵の手を引いて歩みを速めた。
ぼうっとしていて一瞬遅れたせいでつんのめって砂浜に足を取られた修兵は、拳西の手をぐんと掴んだままその背中に思い切りぶつかってしまう。

「おわっ!」

「うぉ!?…っぶね!」

手を引かれたせいでバランスを崩したものの、拳西は悪い足場でなんとか受け身を取り倒れ込んで来た修兵の体を受け止めながら仰向けに転がった。
柔らかな砂浜が拳西の背中と二人分の体重を受け止め、修兵が顔面から転ぶのを拳西の胸板が防いだもののなかなかの衝撃だ。
鼻先をぶっと拳西の胸に衝突させた修兵は慌てて上半身を起こし、両腕を突っ張りながら下敷きになってしまった拳西を見下ろす。

「け、拳西さん!ごめ…!」

「大丈夫だ、んなヤワじゃねぇ。それよりそろそろ時間だ」

そう言って半身を起こした修兵を再び引き寄せてしまうと、拳西は腕時計をチラリと確認してから水平線の向こうを見る様に促す。
砂浜に寝転がった体勢のまま遠くに視線を投げる拳西に倣って、修兵も拳西の胸に頬を乗せたまま同じ方向をじっと眺めた。
見ればいつの間にか辺りは白み始めていて、点々と浮かぶ雲が影になりその存在感を顕にし始めている。
濃い藍色だったさざ波が暁の色を残し淡い白灰を折り混ぜて打ち寄せては引きながら、少しずつ明るさを増していく空の色を反射してキラキラと輝いていた。
暫く静かなその景色を言葉も交わさずに眺めていれば、水平線のある一点に鮮やかな橙色が輪郭を現し始めて、修兵は強烈に惹き付けられる色彩に目を奪われる。
無意識に息を潜めて眺めていれば、少しずつ少しずつ、まるで生れ出る様に海と空との境界を越えて昇り始めた。
暖かな胸に横たわり水平線とほぼ同じ目線で橙色の光の塊を視界に捉えながら、修兵は息を飲んで見入る。

「凄い…」

手肌を突き刺す風は冷たさを通り越して痛みさえ感じていると言うのに、そんな空気すらも神聖なものに思えて、嘗てこんなにも鮮烈に情景を捉えられた経験があっただろうかと幾ら思いを巡らせても探り出せそうになかった。
張り詰めた空気の冷たさと、そこに射し始めた陽の微かな温もり、ただヒトの形を象った義骸に入っているだけだと言うのにその感覚は酷く生々しい。
幾ら悠久の時を生きて常世で数多の景色を目にして来たと言えど、こんな感覚が胸の内を満たした経験が無いのは、きっとこの世界が"生きて"いるからだ。
死神である自分達よりもずっと短い限られた時間を駆け抜ける全ての命を照らし、終わるその瞬間まで降り注ぐ。
死者の世で同じ様に日の出を迎えていたとしても、きっと溜息すら出ない程に胸を締め付けられる感覚には陥らなかった。
今自分がこうして目にしている世界は、悲しい程に儚く、そして美しい。
片耳で愛しい人の鼓動を直に感じながら、修兵は自分の中へ次々に流れ込んで来るどうにも制御し難い感情と不思議な既視感の波に翻弄されるまま、拳西のシャツをぎゅっと握り締める。
拳西はそんな修兵の髪を緩く梳いてやりながら、胸元で温かな何かがじわりと滲んで行くのを感じていた。

「修兵」

自分の名を呼ぶ声が、合わせた胸から直接振動として伝わる。
低い声に少しだけ顔を上げた修兵の目元は濡れていて、陽の光を反射しながらキラキラと瞬いていた。
ぱたぱたと己の胸元を濡らしていく滴を拭ってやる拳西の指先の感触に、修兵は先程覚えた既視感がより鮮明になっていくのを感じて戸惑う。

「俺…っ、ずっと昔にも、拳西さんとこんな景色見た事があるような気がして…」

映像にもならないバラバラの残像の欠片と、体温と匂いと、色彩と、音と。

幾度となく繰り返す産声。








"ねぇ、また来年も見に来られたらいいですね"

"見に来りゃいいさ、何度でも"

"そうですね…"

"そうだろ"

"…あと何回見られるかな"


あと何度、二人で並んで。


"何回でもだ"



"ねぇ、…何度だって見つけて下さいね、俺を"









それは遠い遠い、切なくて優しい魂の記憶。




「…奇遇だな、俺もだ」

そう言って、拳西は至極優しい手付きで修兵の両頬を包み込んで額を合わせた。
いつか朽ち果てて魂さえも散り散りになりただの霊子の破片になったとしても、限りなくゼロに近い奇跡が起きるならば、こうして現世に生きて再び、何度でも互いに逢える事が出来たら。

「ここに来た時、無性にお前を連れて来たくなった。…理由は分からねぇが、そう言う事なんだろうよ」

慈しむ様に穏やかな笑みを浮かべる拳西の頬へ落ちた己の涙の雫を拭って、朝日を淡く透かしている銀髪を撫でる。
昇り切った陽の光の恩恵を受けてまた新しい時の巡りを迎えるこの広い世界に見守られながら、どちらからともなく互いの体温を分け与える様に触れるだけの口付けを落とした。




























AM 7:10



「すっかり冷え切っちまったな」

「そうですね」

体中に付いた砂を互いに払いながら、苦く笑い合った。
常日頃から体温が高いとは言え流石に拳西も背中を這い上がる冷たさを感じる上、修兵に至っては意思とは裏腹に涙を流し過ぎてしまったせいで微かに腫れてしまった目元が冷えてピリリとした弱い痛みがある。
それを見兼ねた拳西から行きと同じ様に目元までマフラーでぐるぐる巻きにされてしまった。
寒さはなかなかに厳しいけれど、まだもう少し眺めていたい様な名残惜しさに背を向けて手を繋いだまま拳西のバイクまで歩く。

「なぁ修兵、雰囲気ぶち壊すみたいで悪ぃけど、今から姫始め」

「んな…っ!!うえぇ!?」

さっきまでの空気を台無しにし兼ねない拳西の台詞を遮るかの様に奇声を上げた修兵が、腫れぼったくなってしまった目をこれでもかと見開いた。

「朝っぱらから急に何言ってんですか!!」

「急にじゃねぇよ、あんだけ背中に引っ付かれたまま散々"好き好き"言われたこっちの身にもなれ」

「え…!!!聞こえてたんですか!?」

互いの声を掻き消すエンジン音に紛れさせて気の済むまで囁いた告白を思い出して、修兵はマフラーに埋まった顔を真っ赤に染め上げた。

「聞き逃すわけねぇだろ、勿体ねぇ」

「…っ地獄耳!!」






― END ―



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