丸一日忙しなく稼動させた体を、ゆったりと休められる時間。
ゆっくりと時間を掛けて入浴を済ませ、修兵は楽な格好でソファーに勢い良く寝転がる。
未だ濡れている髪をタオルでわしゃわしゃと適当に掻き混ぜた途端、タオルの繊維と細い髪に引っ掛かってピリリとした痛みが指先に走った。
「イテッ…って、あちゃー…」
タオルを肩に掛けて痛みの元を確認すれば、罅割れて乾いていた部分がふやけて再び微かに血が滲んでしまっていた。
朝晩共に冷え込み始めたこの季節、乾燥も相俟って水仕事はなかなかの重労働だ。
接客もする手前一応気を付けていたつもりだったのだけれど、職業柄手の空く事が無い為に一度荒れてしまうとなかなか治りが悪い。
うぅんと唸って少し赤くなってしまっている指先をぼんやり眺めながら、そう言えばと今日帰り際浦原に手渡されたものを思い出した。
荒れてしまっている修兵の手先を見咎めた浦原が、日頃の労いも込めてと言う事で誕生日でもないのにプレゼントをしてくれた高級感のある可愛らしい紙袋。
遠慮をする修兵へ半ば強引にそれを手渡しながら毎度のセクハラ紛いの行いと共に"修兵さんの玉の肌が〜"云々言っていたのは忘れる事として、テーブルへ置いたままにしていたそれに手を伸ばした。
明らかに女性へ向けて渡す様な見てくれのそれに、あのオーナーがこんな物を一人で選んで買って来たのかと思うと突っ込む気力も湧かない。
しかし一応自分の為に渡してくれたものなのだからと有難く思う事にしながら、その中身を一つずつ取り出していく。
ハンドクリームと思しき英字ラベルの張られた銀色のチューブ…だけならまだしも、ButterCream、Sorbet、Oil、Foam、BathSalt…以下数点。
いまいち何に使うのか分からないものまで次から次に幾つも出て来て、修兵は首を傾げながらも髭面のオーナーの顔と魔法のポケットを持った青タヌキのキャラクターの顔がだぶってしまって思わず吹き出した。
それにしても、全部取り出して並べてみた所これは予想に違わず全て女性向けの商品なのではないだろうか、その上使った所で傷口に沁みそうでそれはそれで嫌だと再び難しい顔をして唸りながら目の前のそれらを眺める。
そんな修兵の頬へ突然ひやりとした刺激が走り、その冷たさに驚いてガバッと顔を上げた。
見上げれば、修兵と入れ替わりで入浴を済ませミネラルウォーターのボトルを手にした拳西が不思議そうな顔でこちらを見下ろしている。
「びっ…くりしたぁ…」
「何してんだ、それ」
中身が半分程になったボトルを修兵へと手渡しながら隣へ腰掛けた拳西が、見慣れぬものに手を伸ばしてしげしげと眺めた。
浦原に貰ったものだと告げた途端拳西の片眉がピクリと顰められて修兵はそれに苦笑いをしながらも、事の経緯を話せば納得をした様で物珍しそうにそれぞれを手に取っている。
ついでに拳西はボトルに口を付けている修兵からそれを奪うと、それをテーブルの上に置き細い手首を揃えて両方引き寄せた。
「あぁ、確かに赤くなっちまってんな」
そう言って、指先や手の甲を労わる様に撫でられる仕草がくすぐったい。
確かに、拳西よりも繊細に出来ている薄い皮膚が赤く擦り切れてしまっている個所は見るからに痛々しいものだ。
「でも、そんなに酷くないですし」
「貰って来たんだろ、使わねぇのか?」
「…しみたら痛そうだと思って」
「オイ、子供か。治らなきゃもっと痛ぇだろうが」
「う…そうなんですけど…」
渋る修兵に呆れた視線を投げると、拳西は掴んでいた手首を解放して傍らのチューブを手に取った。
新品のそれのキャップを回して中身を掌に適量絞り出す。
チラリとラベルの文字を確認すれば"Lily gardenia"と印刷されている通り、少し甘い花の香りが鼻腔を掠めた。
乳白色のクリームを掌の上で軽く擦り合わせている拳西を、修兵はキョトンと眺めている。
「拳西さんが使うの?」
「馬鹿、お前にだ」
そう言って、拳西は再び修兵の手を取ると傷口に余り強く触れないように気遣いつつ己の掌からハンドクリームを移す様にして塗り込み始めた。
痛みが走るかと思いビクリと一瞬身構えたものの、予想に反して刺激は全くなく、柔らかな手付きで指先をするすると撫でられる感触に修兵は肩の力を抜いて手元を眺める。
一見武骨なようでいてその実器用な拳西の大きな掌が自分の手を包み丁寧にクリームを擦り込んでいく仕草は、ギャップがあってなんだか照れ臭い。
「痛くないか?」
「大丈夫です、気持ちいい」
「そうか」
そう言う拳西の表情は甘やかす様に柔らかで、そんな視線を向けられる度に修兵はいつだって慣れる事なく未だ顔に熱が集まってしまうのだ。
こういう時の拳西は酷く紳士だ、治療を施す様にクリームを滑らせながら時折掌や甲へ気紛れにキスが落とされる度に恥ずかしくて両手で顔を覆ってしまいたくなる。
阿近に甘やかされている時とはまた違う照れ臭さがあるなと、修兵は指の先まで優しく滑る拳西の手をぼんやりと眺めながら思った。
そんな修兵の胸の内を知ってか知らずか、拳西はそう言えばと言ってぐるりと部屋を見渡す。
「そういや阿近は?」
「今日は店出る日だって」
「そうか、じゃあ酔っ払いが帰って来る前に寝ちまわねぇとな」
「あは、酷い」
時折くすぐったそうにしながらそう言って笑う修兵の手首の辺りまでしっかりとクリームを擦り込んで、拳西は仕上げと言わんばかりに名残惜しげな仕草で指先へ口付けた。
やはりどうにもこそばゆさを誤魔化し切れない拳西の行いに、修兵は空いている方の手で照れに歪む口元を隠しながら赤い顔でもごもごと礼を告げる。
そんな修兵の表情を見て満足気に口角を上げた拳西が、傍らに並べられているものの中からもう一つを選んでしげしげと眺めた。
"BodyButterCream" "sheabutter" "sandalwood,jasmine"
そうプリントされているラベルの貼られた少し大きめの瓶の蓋をカラカラと開けて、向かい合わせで座る修兵をちょいちょいと手招く。
疑問符を浮かべながらも身を寄せる修兵の腕を取ってその体をぐいっと反転させると、拳西は後ろから抱き込む様にして座らせた。
「え、なんですか?」
「せっかく貰ったんだろ?使わねぇと勿体ねぇ」
「あ…っ」
細い腰を片腕で抱え込み、ハーフパンツから除く膝頭をくるりと撫でてそのまま足首まで掌を滑らせる。
もうすっかり手に馴染んだ吸い付く様な触り心地ではあれど、風呂上りから少し時間が経過してしまっているせいでどことなく乾燥してしまっている様な気がした。
ピクリと肩を震わせる修兵を宥める様に耳朶へ軽く唇を落としながら、拳西はボトルからたっぷりと手に取ったボディバターを両掌でじっくりと温める。
その仕草がまるで修兵の体をゆっくりと解して拓いていく為の準備の時のそれに似ていて、そんな想像をしてしまった自分を振り切ろうと修兵は食まれている耳朶を逃がす様にふるりと首を振った。
半固形だったものが拳西の体温で温められて緩み、ハンドクリームの時よりも数段濃密な香りが修兵の鼻腔をくすぐる。
「こんなもんか」
一人で確認する様に呟くと、拳西はまず先程撫でた足先から膝上まで滑らせる様にしてクリーム状になったものを馴染ませて行った。
引き締まった足首から適度に筋肉質な脹脛、そのまま骨格を辿る様にして軽く曲げさせた膝頭をくるくると撫で、膝裏を押して柔らかな腿の内側までを丁寧に撫で擦る。
己とはまるで違う生き物の様に感じる肌理の細かい肌の感触を楽しみながら、拳西はもう片方の足先から腿までをもマッサージを施す様にして掌を這わせた。
「はぁ…」
詰めていた息を吐き出す修兵の口元が色っぽくて、拳西は肩口に顎を預けながらその顔を後ろから覗き込んだ。
濃厚で甘い花の香りにうっとりと目を閉じて気持ち良さそうに拳西の施しを受け入れている。
「こっちもな」
そう耳元で告げて拳西の膝の辺りに置かれていた右手を取ると、手首からするりと掌を上らせ、柔らかな関節の内側へ悪戯をする様に押しながら二の腕の裏までを辿った。
時々瓶から新たにシアバターを手に取りながら足して行けば、気紛れに掠める皮膚の薄い部分がくすぐったいのか、修兵はふはっと笑って腰を捩る。
逃れる様に浮き上がったその腰の隙間からすかさず手を差し入れて、綺麗な曲線を描く肩甲骨、背骨から腰へ回り薄い腹部から胸へ滑らせれば、拳西の膝に置かれている修兵の手にくっと力が籠った。
「ん…は…ぁ…」
Tシャツの中で這いまわる拳西の掌になんとも言えない気分を味わいながらも、触れて来る手の優しさと高い体温に修兵は熱い吐息を吐き出しながらくったりと力を抜いて背後の胸板に凭れ掛かった。
胸元に置かれている掌の上へシャツ越しに自分の掌を押し当て上がりかけている己の鼓動を間接的に感じながら、全身を包む甘い香りと拳西の体温に触れられた所からほろほろと綻んで行きそうなそんな錯覚を起こす。
(気持ちいい…)
"手当て"とは良く言ったもので、ついさっきまで感じていた傷口の痛みもすっかり忘れてしまっていた。
拳西の手に触れられるのは心地良い、触れられた所からじんわりと温度が伝わって体のずっと奥深くまで浸透して行く様な温かさがある。
修兵はいつもそう思って受け入れているけれど、拳西はどうなのだろう、ぼんやりとした頭でそんな事を考えていれば当然触れたくなるわけで。
修兵は胸元に当てられていた拳西の手を引き抜き、その掌に残っていたクリームを指先で絡め取る。
先の拳西の真似をする様に掌を擦り合わせながらもぞもぞと体勢を変えると、向き合う様にして拳西の膝の上へ乗り上げた。
何事かとそのまま好きにさせていれば、修兵はふんわりと香る両手で拳西の首元を包んで引き寄せちゅっと音を立てて小さく口付けを落とす。
目を見開く拳西を緩み切った顔で満足そうに見下ろして、ぴたりと胸を合わせる様に密着させながら広い背中へするりと掌を侵入させていった。
己が施された様に拳西の背中へも甘い香りを分け与えながら、その香りに誘われる様にすりと首元へ鼻先を擦り寄せ、すうっと吸い込めば自分と同じ香りでいっぱいになる。
「お揃いですね…俺も拳西さんに塗ったげる」
随分とまったりした口調で紡がれた修兵の台詞と無防備にふにゃりと緩んでいる表情に、素肌に触れて燻りかけていた熱が拳西の中でぶわりと膨れ上がった。
(このやろ…!)
たまには緩く触れ合うだけでゆっくりと一緒に眠るのも悪くないなどと思っていたと言うのに、そんな理性は瞬時にして綺麗さっぱり吹き飛んでしまう。
拳西は今すぐにでも襲い掛かりたい衝動をぐっと堪えて深く息を吐くと、修兵を抱えたままがばりとソファーから立ち上がった。
「うわっ、なに!?」
咄嗟にその腰へ両足を絡めて振り落とされない様にしがみ付いて、修兵は突然上がった視界にぎょっとする。
まるで子供にする様な抱え方に狼狽えてなんだなんだと騒ぎながら拳西の肩をバシバシ叩くものの、拳西はそれに構わず寝室を目指して歩き出した。
修兵を抱えたまま器用に扉を開けて中へ身を滑り込ませると、これまた器用に後ろ手でガチャリと鍵を閉めてしまう。
あれよあれよと言う間に寝室へ運ばれてベッドへ諸共ぼふりと倒れ込んだ。
性急な拳西の行動に修兵はぎゃあぎゃあと色気の無い声を上げる。
「ちょ、なんで鍵!?阿近さん帰って来ちゃ」
「いいんだよ放っとけ、今日は独り占めさせろ」
「ひと…っうえぇ!?」
「いいからもう黙れ」
「でもっ、ん…ぁ…ダメ…ッ」
ああこれは途中で帰って来ようものならば大変な事になるなと、じわじわと拳西から熱を移されながら修兵は二人を包む同じ甘い香りにくらくらと眩暈を起こしてしまいそうな感覚に埋もれて行った。
翌日。
修兵の予感も杞憂に終わり、いつ阿近が帰宅したのかも分からない程ぐっすりと深い眠りに落ちていた。
全身を包む倦怠感はあるものの、ゆっくりとした睡眠を取った頭はすっきりとしていて、
拳西にくまなくお手入れされた上隅々まで愛されてしまったので肌はどこもかしこもスベスベのピカピカで、
ベッドにまで移っていたふんわりとした残り香になんだか幸せな気分のまま起きたら、
リビングで阿近が盛大に拗ねていた。
「あの…」
「…」
「阿近さん…?」
「……」
「…そろそろ離して欲しいんだけど…っていうかくすぐったいんですけどっ!!」
「………ふん」
如何にもな仏頂面でソファーのど真ん中を陣取る阿近に、起き抜けから捕まってかれこれ一時間以上はゆうに経過している。
脚の間に座らせた修兵を後ろからがっしりと抱き込んでどういう訳か一向に解放しようとしない阿近に、そのままの状態で朝食を摂るハメになり食事中もぴったりくっついて全く剥がれようとしないのだ。
どうやら昨晩の締め出しで余程機嫌を損ねてしまったらしい。
ほろ酔いの良い気分で帰宅の途について後は修兵を構い倒して寝るだけだとしていた阿近の目論見は寝室の内鍵にあっさり裏切られ、瓶の蓋が開けられたままだったせいでやたらと甘い香りが家中に充満している。
それだけで大体の事を察した阿近は盛大に臍を曲げ腹癒せに寝室の扉をガツンと一蹴りして、その頃にはすっかり寝入ってしまっていたであろう二人からは当然反応がある筈もなく、それへ余計に腹を立てながらふて寝を決め込んだ。
そうして修兵が起きて来るや否や、今に至る。
背後からシャツの中に手を侵入させて、いつもよりも柔らかくすべすべとした手触りを楽しむ様に薄い腹や背をひたすらするすると撫でる。
もう片方の手をちゃっかり太腿に添える事も忘れない。
慣れない甘い香りの中に混ざる修兵の匂いを嗅ぎ取りながら時折首筋へがじがじと歯を立てれば、修兵の肘が容赦なく脇腹にゴリゴリと減り込むがそんな物にも構わず阿近はより一層ぎゅうぎゅうと閉じ込めてその肌を撫で続けた。
"いい加減離せ""嫌だ一日そうしてろ""トイレはどうするんだ""俺が一緒に連れてってやる""あほかこの変態""それ褒め言葉かそうかそうか""もうこの人ヤダ拳西さぁぁあん!!"
とうとう修兵から泣きが入って、朝食の後片付けをしながら呆れた顔でリビングを見るものの、修兵が本気で嫌がらない限り拳西がこの手のじゃれ合いを止める事はない。
大きな猫が二匹なんだかんだで仲良く応酬している様なものだから大抵は放っておいて眺めているだけなのだが、昨晩完全に締め出してしまった負い目も僅かにあるのか尚更止めに入れない様な気もする。
「ほん…っともうしつこい!くすぐったいって言ってんじゃん!あ、やめ…っ!」
「いいだろまだ触らしとけ」
「んっ、阿近さんにも今度塗ってあげるから!」
「いらねぇ、俺はそんな甘ったるい匂いのするもん塗らねぇ」
「ならくっつくな!いいよもうだったら拳西さんに」
「おい止めとけ修兵。あの筋肉ダルマにんなモン塗ってみろ、テッカテカのボディビルダーになりかねねぇだろうが、だったら俺にしとけ」
「え、ボディ…ぶふっ!!」
「オイお前ら…」
放っておいたものの何やら随分と失礼な話をし出した二人に拳西のこめかみがぴくりと震えた。
何をどう想像したのか、修兵は吹き出した挙句未だに口元を抑えてくつくつと笑いを堪えている。
「おい拳西、コイツと、あとソレとソレとソレも今日一晩俺のな」
修兵と昨晩自分を締め出した原因になったものを指差して、阿近は唇の端を吊り上げる。
「あぁー…好きにしろ」
「え、拳西さん!?」
「よし、決まりな」
「嘘…!」
人の悪い笑みを浮かべる阿近の表情に、修兵の頬がひくりと引き攣り青褪める。
そんな修兵に助け船を出すどころか、"好きにしろ"とは言ったもののどう隙をついて乱入してやろうかなどと考えている辺り拳西も自分自身大概だと思いながら、なんだかんだで目の前の光景を面白げに眺めた。
― END ―