(雨……か…?)


ゆっくりと浮上した意識の中、修兵は庭から届く静かな雨音に気付いてぼんやりと耳を澄ませた。
サァーと音を立てて縁側へ吹き込む霧雨はまるで糸の様で、板間に細い水滴の跡を残していく。
このままでは畳も湿ってしまうなと、開け放してある障子戸を閉めようと上体を起こしかけて身動きが取れない事に気が付いた。
背後から自分を抱え込み腹に両腕を回されていては辛うじて僅かに身を捩るのがやっとだ。
寝起きでふわつく頭をなんとか回転させながら、今の自分の状況を把握するべくぐるりと視線だけを彷徨わせる。


事は数時間前。


八月十三日、終業後。
乱菊の一声で召集された修兵の誕生日祝い(と称された飲み会)に駆り出されて、大人数で散々などんちゃん騒ぎになった。
当然、主役として中心にされた修兵はいつも以上にぐちゃぐちゃに構い倒され飲まされ乱菊にトドメを刺された挙句潰された。
方々から洗礼を受けながら、誕生祝いならばもうちょっと主役を丁重に扱ってくれても良いじゃないかと思いつつも、ああも全開で祝ってくれている状況はやはり嬉しいもので。
酔いが回り切っていたせいで所々記憶が曖昧だけれど、いつも以上にもみくちゃにされながら耳打ちされた乱菊の言葉に馬鹿正直に赤面してしまった事は覚えている。

『どうせ当日はあの駄犬が独占して離さないんだから、今日くらい皆に付き合いなさいよね』

人の恋人に対して随分な言いようだが、そんな気遣いをされていた事が非常に居た堪れない。
恋次との関係など不本意ながらいつの間にかとうに周知の事実だったのだけれど、こうもあからさまに言われてしまうとやはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
そうして真っ赤になった顔をまたイヅルやら弓親やらに突っつかれてからかわれながら見遣った恋次の顔が、妙に不機嫌だったのもうっすらと覚えている。
一角に頭をぐちゃぐちゃに掻き回されながら感じた恋次の視線はまさに不貞腐れた子供そのもので、大きな図体でそんな表情を貼り付けている様が可笑しくて、指を差して笑ってやろうと思った所でクラリと視界がブレてぱったりとテーブルに突っ伏してしまった。
ああ酒が零れる勿体ないだなどとぼんやり思いながらぐんっと上がった視界に眩暈がして、恋次に担ぎ上げられながらなんやかんやと騒ぎ立てる周囲の声を遠巻きに聞いている内に視界が暗転してそれが最後だ。
宴会場から連れ去られると言うか、荷物の様に運び出される直前飲み過ぎだだのアンタはどうしていつもそうなんだだの何かしらお説教じみた様な恋次の声が聞こえた気がしたけれど、正直もう余り良く覚えていない。


あれからどれ程時間が経っているかは分からないけれど、未だ外が暗い所を見るとそれ程長くは落ちていなかったようだ。
しっかりと抱え込まれたまま視線だけを傍らに移せば、半分程中身を残した水差しとグラスが置かれていた。
どうやら介抱されながら何かと駄々を捏ねた自分をどうにか宥めてこの体勢、と言った所なのだろう。
限度を超えた酒の飲み方をした時の自分の酔い方が少々厄介だと言う自覚はあるから、大体の予想は付くと言うものだ。
大方あのいかにも意志の強そうな変眉を困ったように吊り上げて、”無防備だ”だの”前後不覚になるまで飲むな”だの”そんな顔をおいそれと見せるな”だのいつもの小言を言っていたのだろう。
まともに聞いていないと分かっていながら訴える恋次の必死な表情が脳裏を過ぎって、修兵は小さく笑いながら自分の肩に乗せられている恋次の顔に触れようともぞりと身を捩る。
途端、寝ていながら何かを敏感に察知した恋次の両腕が、より一層修兵を閉じ込める様にしてぎゅうっと巻き付いてきた。
まるで取られまいと、これは自分のものなのだとあからさまに示す様な仕草に、ふはっと吹き出してしまう。

(どこにも行きゃあしねぇのによ…)

そう可笑しく思いながらも、恋次のこういう直情的で本能的な独占欲は酷く心地良いと思うのだ。
全身全霊で修兵への想いを体現してくるこの大きな体に囲い込まれていると、どこか絶対的な安心感に包まれる。
そう思わせるだけの包容力や懐の深さがこの男にはあるのだ。
一見その眼つきや見てくれや語気の荒さから野生の獣の様な粗野な印象を与えるけれど、その実その中身は案外肌理細やかに出来ている。
現に、直近としては縁側のすぐ足元を埋める様にして並べられたものがそれの良い例だろう。
濃い紅と紫紺の蕾を無数に付けた朝顔の鉢がずらりと並べられていて、少しでも陽が射せば今にも一斉にその鮮やかな色を開花させそうだった。
修兵の誕生日の一月も前から、一鉢、二鉢と恋次が持ち込み始めたものだ。
でかい図体に似合わない持ち物を毎日の様に両脇に抱えて来る恋次の行動に全く見当がつかず何事かと問えば、
”檜佐木さんの誕生日には丁度満開になるんじゃねぇかと思って”
そうサラリと言ってのけた恋次の言葉に柄にもなく盛大に赤面してしまった。
似合わねぇ事するんじゃねぇと言う悪態を辛うじて一言吐く事だけは忘れなかったけれど。
恋次の言った通り、確かにどの鉢も明日にはその蕾が爆ぜそうな程膨らみを帯びている。

(…気障な奴)

そう思いながら、修兵は自分の腹にがっしりと回されている恋次の腕へするりと手を滑らせた。
骨格の差か、悔しいが自分のものよりも一回り近く大きくゴツゴツと骨張った両手がしっかりと組まれて腹の上に乗せられている。
始めの方こそ余りに過保護な扱いに己も男なのだから一方的に庇護されるべき存在ではないのだと散々突っぱねては喧嘩をしていたものだけれど、今となってはこの大きな手に守られている感覚も悪くはないと思えてしまうのだから、惚れた弱味と言う物はなんとも不思議なものだ。
浮き出ている血管や筋張っている関節一つ一つを辿って、指を開かせながら掌をなぞる様にして硬くなった剣胼胝に触れる。
未だ眠りの中に居る自分よりも高い体温が気持ち良くて、夜風と霧雨で少しだけ冷えた頬に持ち上げた大きな掌を押し当ててほうっと細い息を吐いた。
じんわりと皮膚を伝って移る温もりが心地良くて、修兵は頬に押し当てたまま啄む様な口付けを何度もその掌へ落としていく。

(きもちいい…)

自分は本当にこの手が好きなのだと、少しかさついた掌に柔らかく唇を落とし続けてその行為に夢中になる。
その動きが少しずつ大胆になって人差し指の関節へ柔らかく歯を立てた時、ふっと首筋に熱い吐息が掛かる感触がしてビクリと動きを止めた。

「なーに可愛い事してんスか」

あ、と思って首だけで振り返れば、クッと笑いを堪えた様な恋次の顔が視界一杯に映る。
寝起きの目を細めてこちらを見据える目にドキリと心臓が跳ねたけれど、がじがじと再び歯を立てる行為を再開した。

「お前の手食ってた」

―好きだなぁと思って。
そう臆面もなく告げれば、恋次は嬉しそうに―なんっスかそれ―と言ってぶはっと吹き出した。
恋次が吹き出した拍子にサラリと流れた紅い髪が修兵の頬をくすぐって、下ろされている長い髪へ後ろ手に指を差し入れて梳く。

「機嫌治ったかよ」

「あ?あぁー…」

修兵の言葉に、恋次は何かを思い出したのか眉を寄せて唸り声を上げ始めた。
機嫌良く笑っていた顔が宴会場でぶすくれていた表情に戻る。
単純な野郎だと言って笑いながら、修兵は掴んでいた恋次の手を解放して皺の寄った眉間にぶすりと人差し指を突き立てた。

「痛ぇっ!」

「そんな拗ねんなよ」

「誰のせいだ!あー…あれだからアンタを宴会に出すの嫌なんスよ」

「”嫉妬深い男はモテない”って、乱菊さんが言ってたぞ」

「…放っといて下さいよ。つか分かってんならもっと自覚しろ、色々」

「んー…?」

未だ不満そうな声を上げる恋次に気の無い返事をしながら、修兵は腕の中でくるりと体を反転させると恋次の腕を引きながらもろとも後ろに倒れ込んだ。

「うおっ!?」

急に引かれた上体に驚いてバランスを崩しながらも、酔っ払いで勢いの加減が効かないであろう修兵の頭が畳と強く衝突しないよう咄嗟に後頭部に手を差し入れられる。
こう言うさり気ない優しさに惚れたんだよなぁとじんわり思い知らされて、修兵は自分に覆い被さる恋次を見上げながらなんだかくすぐったくなった。
すぐに傾いだ体勢を立て直して修兵の顔の横に両手を着いた恋次は、しょうがねぇなと言わんばかりの表情で修兵を見下ろしている。
重力に従って流れ落ちる緋色の髪を指先でくるくると絡め取り、時折くいくいと引っ張りながら弄んだ。
好きなようにさせて貰えている状況に甘えて、修兵は鮮やかに流れる恋次の髪へ飽きずに指を絡めて梳きながら眺める。
時折縁側から吹き込む弱い霧雨が細い髪に艶を与えてしっとりと指先に馴染み、夜の闇に溶け込む様に色を濃くした緋色に見惚れた。
ああこいつは雨も似合うなと、陽の光の下では燃える様な赤を湛えて、雨夜の中では鮮やかにその輪郭を落とす、自分にはないこの色を修兵はいつも羨ましく思う。

「俺、お前の髪好きだ」

「…たまに言うよな、それ」

「こうしてっと、なんか囲われてるみてぇ…」

自分を取り囲む様にして畳へ広がる長い髪はまるで檻の様で、組み敷かれている時はいつも、このまま雁字搦めにしていっそ閉じ込めてくれやしないかとさえ思ってしまう。
柔らかくしな垂れる髪を両手で絡め取って頬を摺り寄せれば、背筋をゾクゾクと走る恍惚に目を細めて表情を緩めた。
自分の髪を良い様に弄んで猫の様な仕草をする修兵を見下ろす恋次の口元も自然と緩む。

「…あんま可愛い事言ってると、ほんとに囲っちまうぞ」

そう言って、恋次は腕を曲げて身を屈めると修兵の頬に掛かる己の髪を指先で除けながら啄む様な口付けを一つ唇に落とした。
そのまま、頬に目尻に額に、雨の様な口付けを無数に降らせては鼻先と白い頬を甘噛みする。
がぶがぶと不規則に繰り返されるくすぐったくてむず痒い刺激に、修兵は喉の奥でくすくすと笑いながら戯れの様に右に左に顔を背けた。

「ちょ、コラ…ッ」

「あぁー…食っちまいてぇ」

「…酔ってんのか?」

「アンタが言うなって」

恋次はそう反論しながらふっと視線を上げる。
つられる様にして修兵も恋次の視線の先を追えば、視界に入った壁掛けの時計が丁度深夜0時を指していた。
たった今日付が変わった事を示すそれを確認した恋次が、こつりと、修兵の額へ自分のそれを重ね合わせる。

「十四日っスね」

「…十四日だな」

「檜佐木さん、今からたっぷり御奉仕するんで、受け取ってくんねぇ?」

「ぶはっ、程々に受け取ってやんよ」

「誠心誠意尽くすんで、覚悟して下さいよ」

「お前人の話聞いてた?」

「聞いてねぇ」

―なんだそれ。そう言って笑う修兵の唇に再び恋次のそれが降りて塞がれた。
いつの間にか止んでいた雨音が周囲に静けさを齎して、トクトクと脈打つ互いの心音を際立たせる。
柔らかな赤い檻に閉じ込められながら感じる心地良い鼓動に耳を澄ませて、修兵は今日一日いつも以上に甘やかされるのだろう事を思いながら素肌を滑る掌の感触にうっとりと身を任せた。


















肌に感じる温かさにゆっくりと目を開けば、開け放たれていた障子戸から差し込む陽がちょうど修兵の頬の辺りを掠めていた。
寝起きでぼんやりと霞む視界に重い瞼をしばたかせて、右手をぱたぱたと敷布の上に彷徨わせる。
何の手応えも無い事に首を傾げて上体を起こせば、自分をがっしりと閉じ込めたまま眠っていた筈の恋次の姿が何処にも見当たらない。
あれだけ甘やかすと言っていたくせに自分を置いていつの間にかあっさり床を抜け出ていた恋次に、とりあえず一言文句を言ってやろう。
そう思って少々ムスッとしながら起き上ろうとした修兵の耳に、ザァッと言う派手な水の音が届く。
何事かと音のする方へ視線をやれば、夜着にしている浴衣姿のまま片側に緩く髪を束ねた恋次が庭で盛大に水を撒いていた。

(何してんだあいつ…)

修兵はぐるりと辺りを見渡して側に着るものが無い事を確認すると、面倒なのでそのまま白い敷布を引き剥がしてそれにくるまったままズルズルと引き摺る様に恋次の元へ歩み寄った。
未だ覚醒し切れていない頭でふらふらと縁側に出て来る修兵に気付いて、恋次がやたら爽やかに朝の挨拶を寄越して来る。
それへ緩慢に頷きながら視界に映った色彩に、修兵は目を見開いた。

「見て下さいよ、凄ぇ満開」

そう言って、恋次は嬉しそうに手にしていたホースでサァーッと水を撒いて行く。
恋次が持ち込んだ縁側の淵を埋め尽くさんばかりの朝顔が全て、朝陽に向かい無数に咲き誇っていた。
昨夜の雨露の名残と恋次の撒いた水を纏ってキラキラと光りながら、この日を待っていたと言わんばかりに蕾を綻ばせた沢山の花。
そのどれもが鮮やかな紅と深い紫紺で、恋次の髪と己の目の色を連想させる色の群れに修兵の内で熱い物がぶわりと込み上げる。
修兵は敷布を纏ったまま立ち上がると、水を止めてこちらへ歩み寄って来る恋次目掛けて衝動のままにがばりと飛び付いた。

「うぉあっぶね!!…て、何か着て下さいよっ!」

勢い良く飛び付いて来た修兵をしっかりと抱き留めながら、恋次は素肌に布を一枚纏っているだけの危うい姿に目を白黒させてそれを肩までぐっと引き上げてやる。
昨晩散々あんなことやこんなことをして来たくせに何を今更とも思いながら、修兵は気にせずにそのまま厚い胸板へぐいぐいと額を押し付けた。

「ったく、んな格好で庭出て来んなっつの」

「やだ。お前しか見てねぇじゃん」

「そうっスけど…!」

自分の胸元にしがみついたまま擦り寄るだけで顔を上げない修兵の背をぽんぽんと叩いて促す。
漸く見せた修兵の顔はこれ以上ない程真っ赤で、恋次はそれを見て満足そうにニッと口端を上げると、顔と同じだけ赤く染まった耳に口付けを落として額を合わせた。

「予想通り、ぴったり綺麗に咲いただろ?」

「…気障なやつ」

「嬉しいくせに」

―おめでとう。と、昨晩熱に浮かされた意識の中で数えきれない程囁かれた台詞が再び恋次の唇に乗って、修兵はそれごと食べてしまいたくなって噛み付く様な口付けを寄越した。
なんとなく照れ臭くて言いそびれてしまっている感謝の言葉の代わりに、甘える様に恋次の唇を啄み続ける。
薄らと開いた瞼で視界の隅に鮮やかな色彩を捉えて、胸の奥をきゅうっと掴まれる様な朝の光景を、時折互いの視線を交えながらしっかりと焼き付けた。






((幸せ過ぎて死にそうだ))








 分けりゃ二つの朝顔なれど
    一つに絡んで花が咲く







― 終 ―




Happy Birthday SYUHEI !!



都々逸お題:fisika




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