ぽちゃんと、盥一杯に張った水に両足を浸して、その冷たさにほっと息を吐いた。
朝からぱたぱたと動き回っていたせいですっかり火照ってしまった肌の熱を奪われていく感覚が心地良い。


久方ぶりに取れた拳西と揃っての非番だったのだけれど、そうそう物事は上手く運ばない訳で。
朝早くから呼び出しを受けた拳西が"自分も"と共に出ようとした修兵を制して一人で隊舎へ向かってしまった。
要件だけ済ませてすぐに戻ると言ってはいたものの、かれこれそれから数刻は経過している。
ならば戻るまでの合間にと手を付けた庭掃除も洗濯も夕飯の仕込みもすっかり終えてしまって、ざっと汗を流してからも一人の時間を持て余していた。
湯上り用の浴衣に袖を通してふらりと縁側へ出た先で、ふととあるものが修兵の目に止まる。
庭に咲いている花の剪定やら片付けやらをしている時に見つけて物置から引っ張り出して来た、大きな木製の盥だ。

(まだこんなのあったんだなー…)

もう随分昔、何年程前かは忘れてしまったけれど、まだ修兵が幼かった頃だ。
夏真っ盛りの照り付ける陽の下で、この盥へ拳西に水をいっぱいに張って貰ってこの中で良く水遊びをしていた。
傍らで着流しの裾を捲り上げた拳西になんだかんだと相手をして貰いながら、白やら平子やらが混ざっていつの間にか大騒ぎになっていた事を思い出す。
何がどうなったのか縁側中を水浸しにした白を追いかけるあの時の拳西の剣幕は凄かったなと、思い出して修兵は小さく笑ってしまった。
あの頃はこの庭もこの盥も随分と広く大きく感じていたけれど、今では丁度両足を浸して余る程度の大きさになっている。
修兵はふと誘われる様にして、引っ張り出して来た盥に水を注ぎ始めた。
たっぷりと水を張って重くなった盥をずるずると引き摺って縁側のすぐ足元まで運ぶ。
なかなか重量の増したそれから水を零さぬよう慎重に運んで一つ大きく息を吐いた。
そうして縁側に腰掛けながら履物をぽいっと放ると、修兵は盥の中でゆらゆらと揺れている水面に片足を浸してみる。

「冷たっ」

足先から伝わるひんやりとした感覚に、もう片方、濡れないように浴衣の裾を捲って両足共水の中へ浸した。

「はぁ…、気持ち良いー…」

久々に二人でゆっくり出来るかと思っていたのだけれど、こうなる事は良くある事で、結局なんだかんだと今朝から動きづめになってしまった。
火照った足先からじんわりと涼しさが伝わって来る。
ついさっき剪定したばかりの百日紅や山梔子、いつの間にか無数に自生していた立葵をサラサラと揺らす風が修兵の体を撫でて庭から吹き抜けて行く。
照り付けている陽射しは丁度天辺から降り注いでいて今が正午である事を告げていた。
そう言えばそろそろ昼食を摂らなければと思うのだけれど、草花を揺らす涼やかな風からはなかなか離れ難い。
もうちょっとだけ…、そう決めて、修兵は盥の中でちゃぷちゃぷと足を遊ばせながらぐぐっと伸びをして後ろへ倒れ込んだ。
濡れ縁の庇が落とす影がちょうど日除けになって、仰向けた修兵を眩しさから遮ってくれる。
風がかさかさと草木を揺らす葉擦れの音を聞きながら、心地良さに身を任せてゆったりと瞼を下ろした。













すぐに戻る、そう言って置いて出たもののそうは事が上手く運ばない訳で。
急の所用を済ませて後、なんだかんだと白が紛失した書類の大捜索に巻き込まれて結局この時間になってしまった。
午前中いっぱい掛かってしまったせいで、時刻は昼食時を過ぎている。
修兵を呼べばすぐに事なきを得たのかもしれないが、せっかく家でゆっくりしているであろう久々の非番に呼び出すのは、一度止めた手前もある為に余計気が引けた。
拳西は無駄に使わされた体力で凝り固まった肩をコキコキと鳴らしながら、漸く帰り着いた私邸の引き戸を開け中へ声を掛けてから首を傾げる。
居るのならばすぐにでも返事が返ってくるのだけれど、返事どころか奥からはうんともすんとも物音がしない。

「なんだ…出てんのか?」

そうは思っても玄関の鍵は開いていた。
家で待っているであろうと思っていた人物の名を呼びながら、拳西は奥へと足を進める。

「おい、修兵…?」

庭に面している部屋まで捜し歩いた先の光景を見て、足を止めた。
どうりで返事が無い訳だ。
修兵は縁側の真ん中で仰向けに体を横たわらせて、規則正しく胸を上下させながら気持ち良さそうに寝入ってしまっている。
その足元へ視線を移せば、片膝を立てているそのもう片方の足を外へ投げ出して、時折揺れる爪先が盥に張られた水に波紋を作っていた。
修兵が微かに身じろぎをする度に、パシャリと水面が小さな音を立ててさざ波を起こす。
拳西はその涼しげな光景に誘われる様にして修兵のすぐ側まで歩み寄り、その傍らにどっかりと腰を下ろした。
組んだ胡坐に片肘を突きながらその顔をまじまじと見下ろす。

(随分気持ち良さそうに寝てやがんな)

少し汗ばんだ額に掛かる髪をサラリと除けてやりながら、拳西は改めて修兵の寝顔やら体勢やらを眺めた。
すらりと伸びた長い脚を投げ出して、片膝を立てているせいで露わになってしまっている内腿が陽に照らされてより一層その白さを際立たせている様は、なかなかの絶景だ。
薄い唇がうっすらと開いて規則的な寝息を細く湛えているそれはなんとも…、

(無防備…)

衝動に任せて手を伸ばしてしまいたい様な、だけれどまだこのまま眺めていたい様な、そんな事をぼんやりと思いながら火照った頬に触れたのと同時、パチリと修兵の瞼が開かれた。

「おう、起きたか」

「あれ…?…うわあっ!」

暫くぱちぱちと瞬きを繰り返して拳西を視界に留めた後、状況を把握した修兵は思わず飛び起きた。
バシャンッと、勢い良く蹴り上げられた水が大きな音を上げて波を立て、跳ねた飛沫が拳西へと掛かる。
拳西は頬へ掛かった水飛沫をぐいと手の甲で拭った。

「あ、ごめんなさ…って言うか拳西さんいつの間に!?」

「ほんの数分前だ」

「すみません、ついうとうとしちゃって…」

「気にすんな、非番なんだ、ゆっくりしてりゃいい」

そう言いながら、拳西は修兵の頬にも掛かってしまっていた水飛沫を親指でぐいと拭ってやる。

「また随分と古いもん出して来たな」

修兵が足先を浸けている盥を指差してしげしげとそれを眺めながら、拳西は懐かしげな表情を浮かべた。
その拳西の脳裏にも、先程修兵が耽っていた懐かしい情景が思い出されているのだろう、その目元へ穏やかなものが滲んでいる。

「ああ…今日物置片付けてたら見つけて…」

そこまで言いかけた所で、ぐぅうっと修兵の腹が盛大に音を立てた。

「あ…」

「…、」

余りに威勢良く鳴った腹の虫に二人同時に動きを止める。
修兵は反射的に腹を掌で擦りながら恥ずかしげに指先で頬の辺りを掻いた。

「お前…寝ちまってどうせろくに昼飯食ってねぇんだろ」

「はは…忘れてました」

そう言う修兵へ呆れた様な目を向けながら、拳西はちょっと待ってろと一言告げて立ち上がり家の中へと入って行ってしまう。
何やらがさごそと部屋の奥の方で忙しなく物音を立てているのを聞きながら、修兵は何事か分からずぽかんとしながら拳西が戻るのを待った。
そうして暫し、修兵と同様死覇装からさっぱりと着流しに着替えた拳西が、小さな盆を片手に再び縁側へと戻って来た。

「こんなもんしかねぇが、食っとけ」

そうぶっきら棒に言われて差し出されたのは、シンプルな握り飯が四つ乗せられた皿だった。
拳西手製の形の良い握り飯に、小さな沢庵が添えてある。

「うわ、美味そう!ありがとうございます」

「今朝の残りの冷や飯だぞ」

「いいんです、拳西さんのおにぎり好きですもん、いただきます」

「おう」

そのまま修兵へ皿を手渡して自分も隣へ腰を下ろしながら、拳西はもう片方の手に抱えていた桶の様な物から修兵が足を浸けている盥の中へガラガラと何かを投げ込んだ。

「ぎゃあ!!冷たっ!」

キンッと肌を刺す冷たさを感じて反射的に足を上げる。
見れば、拳西によって投げ込まれたのは桶一杯の氷で、すっかり温くなってしまっていた盥の中の水がどんどんその温度を下げて行く。
驚いたと拳西を見上げれば悪戯が成功してさも嬉しそうに口端をニヤリと上げている。
そうしてそのまま、修兵と同じ様に着物の裾をからげて拳西も盥の中へザブリと両足を浸した。

「あぁびっくりした…でも冷たくて気持ちいい」

「こいつぁいいな、たまには」

「そうですね」

そう言って、盥の中でぷかぷかと浮かんでいる氷を足先で遊ばせながら握り飯を食べ始めた。
拳西の大きな手で握られたそれはなかなかの重量があるけれど、見てくれに反して優しい塩梅の塩加減がなんとも言えず食欲をそそる。
修兵は先程まで忘れていた空腹を一気に思い出したかの様に大きな握り飯を頬張った。

(ガキくせぇなぁ)

そう思いながら、眺めている拳西の口元が緩んだ。
いかにも美味しそうに握り飯を食べ進めている修兵はどこか幼い印象を与える。
だけれど、

「もう足しか入んなくなっちまったなぁ」

二人並んで浸している盥を見てしみじみと言う拳西に、修兵はふっと笑いを零した。

「そんなのもうとっくですよ」

「ガキの頃は良くこれで行水してたじゃねぇか」

デカくなったもんだと、暗にそんな意図を含ませた拳西の物言いに、修兵はすっかり握り飯を食べ終えて指先に付いている米粒を啄みながら声を立てて笑った。
もう今となってはすっかり周囲に”熟年夫婦”と知れ渡っている様な関係性なだけに、時折拳西にこうして己が幼かった頃の話をされるのは嬉しいやらこそばゆいやらでなかなか複雑だ。

「なんか、拳西さんお父さんみたい」

「あ?」

言われて思わずぽかんと聞き返す。
おおよそ否定はしないまでも、今現在の状況でそれは拳西にとってもこの上なく複雑な立ち位置的名称と言った所だろう。
間抜けに開いていた口をむっつりと引き締めて、拳西はおもむろに修兵へと手を伸ばし、ほっそりとした顎を掴んで引き寄せた。

「え…?」

と思う間もなく、修兵の口元に付いていた米粒を啄み、そのまま柔らかな薄い唇へぺろりと舌を這わせてしまう。
一瞬の内に離れて行く拳西の顔を、今度は修兵がぽかんと口を開けたまま目で追っていた。

「親父は息子にこんな事しねぇだろう?」

目で追った先の拳西の顔は、なんとも不満そうとも得意そうとも取れる複雑な顔で眉根に皺を寄せている。
途端、修兵はぼんっと顔を上気させながらも一拍遅れて弾かれた様にぶはっと吹き出した。

「そりゃあ息子だって…」

言いながら、拳西の膝へ両手を乗せてその身を乗り出す。
そのまま修兵はぐっと伸び上がり拳西の右頬へリップ音も軽快に小さな口付けを落とした。
つい今しがた自分がされたのと同じ様に拳西の頬に付いていた米粒を啄んでやると、修兵は拳西の膝から離れながらちろりと悪戯そうに舌を出して見せる。

「”お父さん”にはこんな事しませんよ」

そう言う修兵の何とも言えない蠱惑的な表情に、拳西はぶわりと湧き上がった衝動の赴くまま細い腰をがっしりと片腕で引き寄せてわしゃわしゃとその頭を撫で回した。

(可愛い事言いやがって…!)

捏ね回されてわあわあ喚いている修兵に構わず、拳西はそのまま犬猫でも愛でるかの様に髪やら脇腹やらをわっしわしと撫で擽った。

「だぁっ!!っ、けんせぇさ…!!あはっくすぐったい!!!」

「ちょ、待っ、おいコラ!…んのやろ…!」

もうすっかり知り尽くしている互いの弱点へ伸びて来る手を必死になって振り払い合う二人に、バシャバシャと盥の中の水が派手な飛沫を上げる。
負けじと応戦する修兵に拳西も躍起になって構っている内、くんずほぐれつ揉み合う様にして二人同時に後ろへばったりと倒れ込んでしまった。

「うおっ」

「いたっ」

ばたっと大きな音を立てて仰向けになりながら、互いの顔を見合わせて思わず同時に吹き出す。
先程まで足先を浸けて涼んでいた盥は、どちらのものともつかない足に蹴飛ばされて盛大にひっくり返ってしまった。

「ふはっ、あぁーあ」

一頻り笑って目尻に浮かぶ涙を指先で拭いながら、修兵は気の抜けた様な声を漏らす。
一足先に修兵よりも早く息を整えた拳西は横向きに片肘を付いて頭を起こすと、そんな修兵を見下ろしながら何かを思い出したかの様な苦笑いを浮かべた。

「悪ぃな修兵、結局仕事になっちまって」

拳西は些か申し訳無さそうに眉尻を下げる。
昨晩、せっかく久方振りに取れた二人揃っての非番なのだから、一日かけてどこかへ出掛けながら貴重な休日を共に過ごそうと約束をしていたばかりだったのだ。
やはり呼び出しが掛かってしまえばなんだかんだと午前中一杯は潰れてしまうし、今から出掛けたとして然程遠出も出来ないだろう。
結局約束事を反故にしてしまった事を拳西は率直に詫びた。

「いえ、仕方ありませんよ、俺の方こそ全部お任せしてしまってすみませんでした。だから拳西さんは悪くないです。それに…」

途中まで言い掛けて、修兵は拳西の懐の辺りまでじりじりとにじり寄り、しがみ付く様に両腕を回して横向きのままぎゅっと拳西に抱き着いた。

「今日は拳西さんとこうして一日だらだらするって決めたんです」

逞しい拳西の胸元に頬を押し付けて顔を埋めながら、目を閉じて心地良さげにすっと息を吸い込んだ。
洗い立ての着流しの匂いに、燦然と照る陽射しの匂いと庭から微かに漂う梔子の甘い香り、そんな初夏の匂いに混ざって修兵の鼻腔を擽る温かな拳西の匂い。
それらをまとめて肺一杯に満たしながら、修兵は目を細めて拳西の胸板へぎゅっと頬を押し当てた。

「そうかよ、そんじゃあそうするか」

猫の様な仕草を見せて自分にしがみ付く修兵に拳西は可笑しそうに笑いながらも、片肘を解き同じ様に両腕を回して修兵をその中へ閉じ込めた。
拳西の了承を得た修兵もまた腕の中で満足そうに笑いながら、暑さも忘れてより一層拳西との隙間を埋めようと密着する。
互いが触れている個所はどこもかしこも熱を飽和しているけれど、そんな二人を撫でて庭から部屋の中へ吹き抜けて行く風は涼しくてなんとも言えず心地良い。
たまにはこんな怠惰な休日も悪くないと、互いに胸の内で思いながら柔らかくそよぐ初夏の風に身を預ける。
不意に、足元を擦り抜けるひんやりとした感覚に気付いて、修兵は”あ”と短く声を上げた。

「裾、びしょびしょになっちゃいましたね」

いつの間にかすっかり肌蹴てしまっていた己の浴衣の裾を捲りながら、さっき盥を蹴り上げてしまったせいで盛大に被ってしまった水の事を思い出す。
修兵に促されて視線を下げれば、自分も修兵のものと同様びっしょりと水分を含んだ裾が濃く色を変えていた。

「ああ、すぐ乾くだろ」

そう言って、拳西は露わになってしまっている修兵の内腿へするりと掌を這わせてその滑らかな感触を楽しむかの様に撫で上げた。

「あっ、コラッ拳西さん…っ!」

修兵は咎める様な声音を出して慌てた様に拳西の手を止めようとその手首を掴む。

「しねぇよ、気にすんな。触らしとけ」

そんな拳西の台詞に、修兵は暫しううんと考えた末、ぽつりと一言呟いた。

「やっぱり…、拳西さん”親父”くさい」

「…オイ」






― 終 ―




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