1.A cheek and an eyelid is kissed.
忙しなく二人分の朝の身支度諸々を終え、忘れ物はないか、消し忘れているものはないかなどばたばたと隅々まで確認をしていく。
忙しなくとは言っても、パタパタと動き回っていたのは修兵の方で、朝からくるくると良く立ち回る様はいかにもすっかり主婦業が板についた良妻の様で。
そこまで思って、拳西は玄関で修兵を待ちながら何処か満足そうな表情を浮かべて部屋の奥でまだ何やらをしている修兵を眺めていた。
朝食くらいはこちらが作ると言っても頑なとして譲らず、忙しそうにしながらも楽しそうにそれらを熟しているので、すっかり任せてしまっている。
これがまさに俗に言う新婚夫婦の朝の光景然としていて、
(…悪かねぇなぁ)
そんな緩みきった事を考えながら、壁掛けの時計に目をやった拳西は時刻を確認して修兵を呼んだ。
「おい、そろそろ行くぞ」
「あ、はい!待って待って」
言いながら荷物を片手にぱたぱたと玄関へ走り寄って来る。
腕組みをしながら壁に背を凭れている拳西の足元へしゃがみ込み、草履に足を通していく。
足首にしっかりと固定して一つ"よし!"と呟くと、修兵は少し考えて目の前にある拳西の袴をくいと引っ張った。
「ん?」
それだけで修兵の意図を察した拳西が促されるままに屈んでやったのと同時、頬に触れる柔らかな感触。
小さく音を立ててすぐに離れたそれは、"行って来ます"と"行ってらっしゃい"を同時に込めたお決まりのキス。
拳西の戯れがきっかけで施されたそれも初めは恥ずかしいばかりだったのだけれど、今ではこれがないと修兵の方がどことなく落ち着かないのだ。
朝の恒例行事を済ませて満足気に笑う修兵の両頬と右の瞼へ、拳西は同じように啄む様な口付けを一つずつ落とした。
「三倍返し」
そう言って、ニッと口端を吊り上げる。
途端、ぼんっと顔中に熱を昇らせた修兵は、真っ赤な顔を誤魔化す様にして早く行かなければと拳西の背を玄関の外へぐいぐい押し遣った。
2.A palm and the brow are kissed.
うず高く積み上げられた書類の上へ、湯気の立つ湯呑を乗せた盆がすっと差し出される。
筆を止めて目線だけを上げた先、にこやかに穏やかな笑みを浮かべながらそれを手に立つ修兵がこちらを見下ろしていた。
「少し休憩しませんか?」
柔らかな声音で告げられた一言に、それだけで長時間の事務作業で凝り固まっていた肩の強張りが解けて行く様な気がする。
「ああ、悪いな」
拳西は筆を置いて一つぐぐっと伸びをすると、修兵の差し出す盆を素通りして執務机越しから反対側の手を掴んで引き寄せた。
「え…?」
てっきり茶を受け取ってくれるものかと構えていた修兵は、何事か分からず拳西に捕らわれたまま己の手の行方を追った。
顔の目の前まで引き寄せた修兵の掌越しにニヤリと口端を吊り上げると、拳西はそのまま唇を寄せて修兵の薄い皮膚に口付けを落とす。
「っ!?」
突然施された掌へのキスに動揺して、がたりと音を立てた盆を片手で慌てて支え直した。
「け、拳西さん…!!」
思わず名前を読んでしまって修兵は慌てて辺りをきょろきょろと見渡した。
隊主室には幸い拳西と自分の二人しか居ないのだけれど、それでも職務中に明らかに個人的な意図で以て触れられている事に酷く狼狽する。
だけれど下手に振り解いてしまえば熱い茶で満たされた湯呑みを誤って倒してしまいかねない。
きっと拳西はそれを分かっていて修兵へ触れているのだ。
(うぅ…っ狡い…)
そんな修兵の動揺もいざ知らず、拳西は捕まえた掌へマイペースに唇を落とし続けている。
必然的に両の手を塞がれる形になってしまって赤く上気した顔を隠す事も叶わない。
「…っ、…!」
修兵がカチンと固まっているのを良い事に、手の甲や手首の近く、指先に至るまで丁寧に口付けて、最後にもう一度掌へ施してから、拳西は満足気な表情でその掌を解放した。
「気分転換になった」
修兵は解放された手を反射的にがばっと背後へ隠す。
「隊士達に見られたらどうするんですか!」
「誰もいやしねぇさ」
拳西は飄々とそう言って漸く盆の上の湯呑みへ手を伸ばし、少し温くなってしまった茶を呑気に啜り始めた。
「……」
なんだか自分ばかりが翻弄されてしまっている様で悔しいやら居た堪れないやら。
修兵はちらりと隊主室の入口へ意識を走らせて、扉の外へ誰の気配も無い事を確認する。
そうして少し背を曲げて屈んだ先、茶を飲みながら再び書類へ視線を走らせている拳西の額へほんの一瞬、ちゅっと軽快な音を立てて触れるだけの口付けを落とした。
「ぶふぉっ!!!」
修兵の唇が降りたのと同時、不意打ちに負けた拳西が綺麗にお茶を吹き出した。
それに構わずくるりと踵を返した修兵が心中でぺろりと舌を出す。
(仕返し…)
3.A neck and a lip are kissed.
「わっ!」
床の間で寝具を整えている修兵の背を、湯から上がったばかりの拳西の高い体温が覆った。
驚いて思わず付いていた腕を崩してしまって、そのまま縺れる様に拳西もろとも敷布の上へ俯せてしまう。
緩く合わせられている修兵の浴衣の隙間から覗く項へ、拳西は戯れの様に幾度も口付けを落とした。
「ふはっ、くすぐった…っ」
腕の中でこそばゆそうに身じろぎをしながらくすくすと笑う修兵を見ているだけで、ゆっくりと浸かる湯よりも一日の疲れが霧散していく。
全身の筋肉が弛緩していく感覚に身を任せて、拳西は修兵の首筋から香る己と同じ湯上りの匂いをすっと吸い込んだ。
「ちょ…、せっかく綺麗に敷いたのに」
首だけでくるりと拳西を振り返って、修兵は己の下で皺になってしまった敷布を伸ばす様にさらりと撫でて見せる。
「気にすんな、どうせまた皺にしちまうだろ」
意味あり気にそう言う拳西の台詞を汲み取って、修兵は一瞬困った様に視線を泳がせてからころりと仰向けの体勢を取ると拳西の首元へ両腕を回してぎゅっと抱き着いた。
「拳西さん良い匂いする」
「お前もな」
修兵は拳西が己へしたのと同じ様にして肺一杯にその香りを吸い込んだ。
心の内がすーっと凪いで行く様な懐かしくて温かい匂い。
だけれどどこか胸の奥を熱っぽくざわつかせる様な香りに、ついさっき口付けを施されたばかりの項の辺りが余韻にぴりぴりと燻る。
共に朝を迎えて、肩を並べて職務に勤しんで、こうして再び穏やかな夜を迎えるのは拳西がこちらへ戻ってからもう幾度も繰り返している筈で。
それなのに未だその熱が冷めるどころか日を重ねるごとに増していく幸福感が、互いの隙間を余す所なく埋める様にしてじんわりと満たしていく。
己の胸の奥のそのまた奥の方をぎゅっと掴まれる様な甘苦い気持ちになって、修兵は衝動の赴くまま拳西の両頬を包み込んで唇を寄せた。
「ん…、」
ちゅっと小さく触れては離れて、薄い下唇を食む様に甘噛みをしたり角度を変えては何度も啄んで。
拳西はそれへ好きなようにさせながら、時折応える様にして舌先を触れ合わせてその度に肩を揺らす修兵の反応を楽しんだ。
「ふ…ぅ…っ」
何度も戯れる様な口付けを繰り返しながら必死に求めて来る修兵に、拳西は喉の奥でふっと小さな笑いを零した。
それに気付いた修兵が、漸く唇を離して少し拗ねた様な表情で見上げる。
「なに笑ってるんですか…」
「いや…気にすんな」
そう言って未だくつくつと小さく笑いながら、拳西は"あ゙ぁー…"っと気の抜けた様な唸り声を上げて修兵を押し潰す様に突っ伏した。
「ちっとな、味わってんだ」
「…なにを?」
「新婚気分」
「んなっ!!?」
ぼんっと、蒸発しそうな勢いで顔中に熱を昇らせた修兵に、拳西は今度こそ声を上げて笑い始めた。
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― END ―