そうして更に経つ事一週間。

職務中に廊下ですれ違うほんの一瞬の間から、自宅で茶を淹れている時にまで至る所で身を刺す痛い視線と感じる悪寒。
どさくさに紛れて膝枕の要求をする頭を叩き落としても、諦めずに台所に立つ背中に貼り付かれる。
あの手この手で手法を変えながら"センパイ、檜佐木さん、修、修兵"器用に声音を使い分けめげずに寄って来る様に、呆れを遥かに通り越して感嘆すらさせられる恋次の邪な根性と忍耐力。
しかし、制裁を掛けた手前と言うのかここまで来てしまった意地と言うのか、恋次が寄れば寄る程、こういう所で天邪鬼の代名詞の様な修兵の性分に拍車を掛ける悪循環が生じるばかり。
恋次の粘り強い根性を上回る筋金入りの頑固っぷりを発揮して、これでもかと言う程に延々と無視を決め込んでいた。








「で、どうなのよ?」

大型犬不在を見計らい、修兵を挟む様にして乱菊とイヅルが身を乗り出しながらその後の様子を伺う。

(この二人・・・)

「お陰様で毎日快適ですよ」

「へえー…」

「なんだよっ」

「大人し過ぎて面白く無いわねぇ〜」

「乱菊さんまで…!」

明らかに面白がっているとしか思えない目の前の二人に溜息が漏れる。

「あたし、修兵が先に折れるに次の飲み代一回分!」

「そう来ますか…じゃあ僕は阿散井君が勝つに次の飲み代一回分!」

「どっちもおんなじじゃねぇか!!」

「「何か?」」

「…〜!!」

こんな時だけ絶妙なコンビネーションを発揮する目の前の飲み仲間に、修兵は言い返す気力も無く項垂れた。

「意地張っちゃって」







それからまた数日間。

二人に告げた言葉通りなんだかんだで例年より快適に夏を過ごしている修兵に反して、しょげていく恋次は放置されたまま日に日に乾涸びて行くようで。
制裁中の恋次によって仕込まれたエサトレーも、冷蔵庫の真ん中に変わらず放置されたままだった。






こういう時は、同じ屋根の下に住んでいる事を面倒に思う。

意地に意地が追い打ちを掛けて、そう言えばこうなってからまともな会話も交わされないまま何日経過したのかも最早不明だ。
背中に貼り付く鬱陶しさも無ければ執拗に名前を呼んで来る煩わしさも無いと言うのに、余りに居心地の悪くなってしまったこの空気。
現に今も別々の部屋に篭り、互いの間を隔てる様に妙に重苦しいオーラが家中を取り巻いている。
恋次に至ってはある日ぱたりと大人しくなり、仕事に赴く以外は籠城の様なもので、修兵の顔すらまともに見ないまま床に就く日々を送っていた。
職務中は至って何事も無かったかの様に振る舞われるせいで、それが余計に修兵を苛立たせる。
そんな事に頭を働かせている今も、締め切られた扉へ手にしている分厚い資料の束を思い切り投げ付けてやりたい衝動を堪えていた。
ふと、静かな足音と共にすっと開かれた襖戸から、そちらも持ち帰って来たのであろう書類仕事を熟していた恋次が部屋から出て来る。
ぴたりと、思わず合ってしまった視線。
だけれど、ぐっと身構えた修兵の緊張感を滲ませた空気を冷ややかに一瞥して、声を掛けるでも無く恋次は茶を一杯淹れただけで再び自室へ淡々と引き返してしまう。

音も無く閉じられた襖に、修兵の頭の中で何かがカチンッと音を立てた。

衝動を堪えていた右腕を振り翳し、渾身の力を込めて手にしていた冊子をがつんと投げ付ける。
重たい衝撃音がして、床に落ちた冊子の背表紙が情けなく折れ曲がった。

何の反応も無く、再び部屋へ訪れた無音。

「…ナメてんのかコノヤロウ…!!」

(人の気も知らねぇで…っ)

堪り兼ねた修兵はがばりと立ち上がり、向かうは件の冷蔵庫。
現状を作り上げた原因の一部に己が科した制裁も一因としてあるのだと言う事もすっかり忘れて、少々矛盾の生じている怒りを沸々とさせながらどかどかと大きな足音を立てる。
こうなればほぼ八つ当たりへシフトチェンジしてしまっている怒りを恋次にぶつけるべく、目指すは扉の中へ意味深に放置されている銀色のトレー。

(一撃くれてやる!)

そう意気込んで勢い良く開けた冷蔵庫の中で未だ鎮座しているであろうそれを取り出そうと手を伸ばして、ギョッとする。

ひんやりとした丸いトレーにいつの間にやら乗せられていたのは、見覚えがある様なない様な現世のとある専門雑誌で、


『いぬのきもち 特別増刊号』


「……べっさつ…ふろく…」


『仲良くなる、育て方』


「なんだ…コレ……」


それを目にした瞬間のどうしようもない阿呆らしさと一瞬前まで抱いていた怒りとのギャップが、庫内からそよいで来る冷気が、まったく不本意な相乗効果でもって修兵の意気を喪失させた。
いつの間にこんな物を仕込んだのか疑問が浮かぶのと同時に、脳裏で反芻されるいつかの二人との会話。


"でも先輩、ほんとに良いんですか?"
"良いって…何が?"
"いやぁ、いくら阿散井君とは言えあんまり放っといても…"
"!……大丈夫…"
"イヅルの言う通りよ、その内ほんとに冷え切っちゃったりして
"いや…あいつに限ってそんな事…"
"そうとは言い切れないわよ。アイツも男だもの、よそからオイシイ匂いがしたら案外フラフラしちゃうんじゃないのー?"
"乱菊さんの言う通りですよ"


「………!」

ひんやり冷やされたいぬのきもち、特別増刊号。
冷たく放置された恋次の、特別救済措置要請。


(…買ったのかわざわざドコで手に入れんだこんなもんなんだコレなんの意思表示だ飢え死にかあの万年発情犬いっそ凍死でもしちまえコノヤロウいぬのきもちってなんだいぬの…!)

犬の気持ちは恋次の気持ち。

(そうか…あいつとうとう、人間、いや…死神辞めたんだな…)

脱力し切って立ち尽くす修兵を、表紙の大型犬の無垢な瞳が物欲しそうに見つめていた。







「恋次」

修兵は程良く冷やされた雑誌を片手に、こちらを振り向きもしない大型犬の背後にゆらり歩み寄った。

「おい恋次…」

「……」

「おい…っ」

「………」

「れん…」

幾日ぶりになるか分からない程久し振りに名を呼んだ修兵の声が耳に届いているのかいないのか、哀愁漂う大きな背中を向けたまま振り向く素振りも見せない。
こちらから追い払って制裁を掛けたのせよ、悶々と静まらぬこのもどかしさ。
沸騰した怒りは矛盾した欲求の現れか、だけれど言い出した手前認めるのは非常に不本意で。

(あぁー…クソ……)

漏れそうになる舌打ちをぐっと堪え、振りかぶった右腕、



ス ッ パ ー ン ッ !



「い゛っっでぇぇえーーーーーっ!!!なんっスか!!」

握り締めていた雑誌の角ごと、赤髪の天辺へ見事に直撃。
中身が無いんじゃないかと思う程の軽快な衝撃音が響いたのと同時、恋次の傍らに積み上げられていた書類の束がばさばさと文机から雪崩を起こした。

「なにじゃねぇよ、アホだお前アホだろ!!」

手加減無しで殴られた頭を押さえつつ、振り向いた恋次がニヤリと馬鹿みたいに相好を崩した。

「なんだそのツラ…ってうわ痛ってぇ!!」

油断していた腕をぐんと引かれて修兵の視界が反転する。
軽々と恋次の胡坐の上へ仰向けにされて羽交い絞めにされてしまった。
長くて逞しい両腕に巻き付かれた修兵は体格差に負けて、なんとも屈辱的な体勢のままで身動きが取れなくなる。

「やっとこっち来たな、檜佐木サン」

先程まで漂わせていた重苦しい空気は何処へやら。
ニッと口角を吊り上げて見慣れた笑みを浮かべた恋次が、弾む様な声音で修兵の名前を呼んだ。

「離せ馬鹿犬!俺は犬と付き合ってる覚えはねぇ!」

「ふーん…この状況じゃあ説得力無いっスけどね」

「このやろう…」

恋次の言う通り、これでは腹を立て続ける事に疲れた挙句諦めて絆されかけている己に対して自己嫌悪が湧くばかり。
もう一言二言文句を言ってやろうとは思うものの、久々に感じる恋次の体温と匂いに落ち着きかけてしまっているのも事実だった。
修兵は唯一自由になりそうな左手を引っこ抜き、上からにやにやと見下ろす締まりのない恋次の顔を悔し紛れにぐいぐいと押し返す。
ぐえと潰れた声を出しつつもめげない恋次が、己の顎を押し上げている修兵の指にがぶりと食い付いた。

「ぎゃあっ!!」

「俺の勝ちっスかねぇ」

「もう嫌だ…お前なんかきらいだ…」

「はいはい、俺は好きっすよ」

未だに腕の中でぐずっている修兵の額へ落とされた、半ば無理やりな仲直りのキス。
なんとも言えない情けなさを感じつつ、最後の抵抗も虚しく結局返り討ちにされてしまった。
数週間振りに想い人を腕の中へ囲う事が出来た事へ調子に乗った恋次に今夏二度目の怒声が降り注ぐのは、散々に熱を交わした数時間後の話。






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