ほろ苦いビターチョコレート

真っ白でサラサラのフロストシュガーとケーキフラワー

セサミオイルにハチミツと卵

リキュール漬けのイチジクを少し










湯煎に掛けられて溶けたチョコレートの甘い香りが、キッチンだけに留まらずリビングにまでいっぱいに充満している。
甘いとは言っても糖度の低いビターチョコレートを使っているお陰で、胸焼けを起こす様な甘ったるさは感じない。
拳西は程好く鼻腔をくすぐる芳香を楽しみながら、コーヒーを片手に雑誌を広げてソファーに身を預け、ゆったりとした午後の休息を楽しむ、



筈だった。



「こら!それ駄目!!」

「なんだよいいじゃねぇか」

「それも駄目っ…って何入れようとしてんだコラァァアッ!!!」


ガシャンだのバチンだの、何かが落下する破壊音や掌を叩き落とす様な音がひっきりなしに届く。
これではゆっくりと寛ぐどころかキッチンの状態が気になってしまって仕方が無い。

拳西も阿近もあまり積極的に甘いものを食べない事は分かってはいたけれど、せっかくバレンタインなのだからと、リクエストを募った修兵に二人の意見が珍しく一致した。

ビターチョコレートのシフォンケーキ。

修兵が時折気紛れに焼くシュガーフリーのシフォンケーキを拳西も阿近も気に入っていたので、ならばそれをビターチョコレートでと言う話になって今に至る。
二つ返事で頷いた修兵にリビング待機を命じられて大人しくそれに従っていたのは拳西だけで、任せておけば良いものの、阿近はどうにもちょっかいを出しに行きたくて仕方が無いらしい。

「あ!抓み食い禁止!!」

リキュールに漬けられているドライイチジクに伸ばされた阿近の手をばしっと叩いて阻止をするものの、反対側から伸びて来た手にひょいと横取りされてしまう。
粉をふるっている修兵は生憎ほとんど手が塞がっていて、防戦虚しく摘み上げられたイチジクは阿近の口の中に放り込まれてしまった。

「それ後で使うのに…」

「一個ぐらい問題ねぇだろ」

「…阿近さんの分だけ大量に辛子入れてやる」

「出来るもんならな」

「憎らし…!!」

恐ろしいしっぺ返しを想像させる様な、口角を吊り上げた阿近の意地の悪い表情に修兵の片眉がひくりと震える。
今すぐにでもリビングの方へ追い返してしまいたい。
けれどこの男がすんなりと言う事を聞く筈も無く、ぎゃあぎゃあと攻防戦をするだけ体力と時間の無駄だと修兵は一つ大きく溜息を吐いて黙々と作業を再開させる事にした。
そんな修兵の頬へ、何やら温かいものがぺたりと塗り付けられる。

「なに!?」

突然の事にぎょっとして身を引けば、湯煎にかけられていたチョコレートを指先に付けた阿近がニヤァッと悪戯気な表情を浮かべていた。

「ああもう!!何してくれてんですか!!」

自分から漂う甘い香りを拭うべく粉をふるい終えたボウルを置いて布巾に手を伸ばした修兵の顎を、反対側から伸びて来た手がぐいっと引き寄せた。
え、と思う間も無くぺろりと舐め取られた頬のチョコレート。
カッと顔に血を昇らせた修兵のすぐ背後で、ゴチンッと鈍い音がする。

「ちょ、拳西さん!?」

「痛ぇ!!何すんだオメェ…」

「何してんだはこっちの台詞だ」

いつの間にかキッチンの様子を見に来ていた拳西が修兵の頬に付けられたチョコを舐め取りながら、阿近の脳天へとお得意の拳骨をお見舞いした。

「大人しく待てねぇのか、落ち着きの無ぇ」

「チッ、ちゃっかり手ェ出しやがったくせに…」

(…また始まった)

修兵は赤い顔のまま拳西に舐められた頬へ手をやって、毎度の事過ぎる二人の言い合いを呆れながら眺めていた。
そこへ隙アリとばかりに伸ばされた阿近の指先。
先とは反対側の頬へ素早くチョコレートを塗り付けられて、舐め取るどころかそのままガブリと柔らかな皮膚に噛み付いた。
拳西に横取りされた事が余程面白くなかったらしい。

「んなっ!!!」

途端、羞恥やら何やらで修兵の中の堪忍袋の緒がプチリと切れる。
サッと変化した修兵の醸し出す空気を察して二人同時に動きを止めるも時既に遅し。
年に数回見るか見ないかの剣幕を見せた修兵にあっという間にキッチンから叩き出されてしまった。











さっきまで鼻腔へと届いていたものとは違う、柔らかでどこか芳ばしい香りが部屋に漂い始める。
静かな稼働音を立てて働いているオーブンの中でどんどん膨らんでいく生地の様子を、阿近は物珍し気に覗き込んで眺めていた。
一方、手慣れた作業をするのになんとも無駄な体力を使わされた修兵は、ぐったりとソファーの背凭れに身を預けて休憩中だ。
それでも、邪魔は散々に入ったもののなかなかの出来で仕上がりそうなバレンタインのプレゼントに機嫌は極めて良好だった。

「お疲れさん、ありがとうな」

拳西はだらだらとソファーに転がる修兵の頭を撫でて労う。

「御礼は食べてからがいいです」

「そうだな」

自信あり気にそう言う修兵に、拳西は小さく笑った。
キッチンで受けた阿近からの悪戯の名残がまだあるようで、拳西は修兵の頬から未だ漂う甘い香りに誘われる様にそこへ軽い口付けを落とした。

「まだ甘い匂いしてんな」

「え、うそ」

「ああ、甘ぇ」

オーブンを眺める事に飽きた阿近がその隣へ腰を下ろし、同じ様に修兵の頬へ顔を寄せる。

「阿近さんのせいじゃん…」

修兵は憮然とした顔でじとっと恨めし気に阿近を見上げた。

「なぁ、拳西、デザートの前はメインも食いてぇだろ?」

「あ…?」

唐突な阿近の提案に首を傾げかけた拳西が、その表情を見て意図する所を瞬時に察する。

「あぁ、そうだな」

「焼き上がりまで40分はあるぜ?」

ちゃっかりオーブンのタイマーをチェックして来た阿近がニヤッと口端を上げた。

「それだけありゃあ十分だ」

「違いねぇ」

「え…なに…」

じり、と距離を詰めて来る二人に不穏な空気を感じ取った修兵が立ち上がろうとするも、左右から伸びて来た腕に易々と拘束されてしまう。
後ろから阿近の両腕に羽交い絞めにされて拳西に圧し掛かられた状態では身動きが取れる筈もなく、修兵は冷や汗を浮かべて固まった。

「ちょっ、ストップ!ケーキ待ちなんじゃないんですか!!」

「時間は有効的に、だ」

「それに、"メイン"が先なのはルールだからなぁ」

「40分て…!40分で何するんですか!!」

「「ナニだろ」」

いつもの事ながらこんな時ばかり妙な連携を発揮する二人が憎たらしいと言うかなんと言うか。
このまま絆されてしまえばケーキどころではなくなるのは目に見えている。
修兵はなんとか逃れようと唯一自由になる首をぶんぶんと横に振って藻掻いた。

「無理無理!!ほんと無理…っ!」

「まぁ、メインも甘いもんじゃ胃もたれしちまいそうだが…」

必死の抵抗もスルーして修兵の首元に顔を埋めた阿近がすっと甘い香りを吸い込んだ。

「じゃあもうもたれろ!!食傷しろ…!!」


「いや…」

「寧ろ…」


「「悪くねぇ」」


「っ!!!」




鮮やかな連携プレーで見事制限時間内に散々修兵を構いきった二人が、仲良く並んで正座をさせられながらケーキを食べる事になるのは、一時間後の話。








Happy St. Valentine's day!!







― END ―



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