一冊の冊子を抱えながら、修兵は目当ての人物を探して七番隊の隊舎傍をうろうろと歩いていた。
クゥンと言う犬の甘えた様な鳴き声が聞こえた方角へ耳を澄ませれば、裏庭の方から狛村の霊圧を感じてそちらへ足を向ける。
この時刻ならば昼食の邪魔をしてしまう事もないだろう。
裏手口からそっと足を踏み入れれば、隊主室の縁側で飼い犬の五郎と戯れている狛村の姿があった。
(もふもふともふもふだ…)
そんな取り留めのない事を思いながら、穏やかな昼下がりの微笑ましい光景に自然と修兵の口元が緩んだ。
「失礼します、狛村隊長」
「檜佐木か」
自分を呼ぶ声に顔を上げた狛村は、入口で軽く頭を下げる修兵を手招いて己の隣へ座る様促した。
修兵の存在に気付いた五郎が、ワフッと上機嫌な一声を上げる。
狛村の膝から飛び降りて己の足元へ纏わりつく五郎を宥めつつ、修兵は縁側の淵へ腰を下ろした。
尻尾をぶんぶんと振り回しながら、飛び付かんばかりの勢いで修兵へじゃれついてその頬を舐めている。
わしゃわしゃとふさふさの毛並を思い切り撫でて、そのくすぐったさに笑った。
「ははっ、相変わらず元気良いなーお前」
「五郎は鉄左衛門よりもお主に懐いておるからな」
五郎の甘えようを見て、狛村はどこか可笑しそうに言う。
「あ!すみません、遊びに来た訳じゃなかったんですけど…」
つい勢いに流されて五郎を構い倒してしまう所だったが、当初の目的を思い出して修兵は胸元に抱えていた冊子を狛村へと手渡した。
「今月の瀞霊廷通信です、出来立てですよ」
差し出されたそれを受け取った狛村の目が少し見開かれる。
表紙へ大きく印刷されている見出しの文字と写真。
そこには、かつての護廷隊隊長の復隊に焦点を当てた特集が組まれていた。
懐かしい銀髪の男の写真へ目を止めて、狛村が目元を緩ませる。
一番に自分に見せに来たかったのだと言う修兵の表情は、穏やかでとても柔らかい物だった。
どんな想いでこれを編集していたのだろうか。
「ありがとう。じっくり読ませて貰おう」
「はい」
そう言って、ふんわりとした笑みを見せる。
「良い顔をするようになったな」
「え?…そうですか!?」
狛村の言葉に、修兵は己がどんな表情をしているのか不思議そうな顔で頬の辺りを擦った。
どこか幼さの名残を窺わせる仕草に狛村が短く笑う。
元より、己と出会った頃はこういう笑顔の出来る子供だったのだ。
邪気の無い、惜しみない愛情を一身に受けながら周囲の何者にも温かさを分け与えてやれる様な温和な表情。
それがいつの間にか自分の知らぬ所で大人になり、危うげながらも己の足で地を踏み締め寂寞とした綺麗な笑顔を湛える様になって行った。
積み重なるあらゆる出来事がそれだけ彼に変わらざるを得ない状況を強いていたと言う事は痛い程に解ってはいたけれど、それでもあの表情がもう戻らないのではと危惧する度に狛村の胸中を苛んだ。
だから、本当に久々に見る事の出来た今の修兵の表情は狛村へこの上ない安堵を与え、懐かしさが込み上げる。
「久し振りにどうだ」
不意に、狛村が先程まで五郎に占領されていた己の膝の上を示しぽんと叩いた。
至極真面目な声音に反して、その様子は酷く楽しげだ。
唐突なそれに一瞬きょとんとした表情を見せるものの、すぐに狛村の意図する所を察して修兵は大袈裟な程に狼狽えた。
何年ぶりだろうか、修兵がまだ幼い頃”わんわん”だなどと飛び付いては狛村の膝の上で良く昼寝をさせて貰っていた事を思い出す。
その度に拳西に連れ戻されて叱られてはいたけれど、どうにもあの柔らかさが手放し難くて忍ぶ様にこっそりと狛村の元を訪れていたのだ。
今思い出せば思い出すだけ恥ずかしくて申し訳ない思い出だけれど、狛村も不快に思うどころか寧ろ幼い修兵とのそんな時間を気に入ってくれていた。
けれど、こんな図体の男が、まして今や副隊長と言う立場で一隊長にこんな場所でそんな甘え方をするなど出来る筈がない。
そう頭では理解しているのだけれど、がっしりとした膝に乗せられているふさふさの尻尾は実に魅力的で、真っ直ぐにこちらを見据えて来る狛村の目には抗い難いものがある。
修兵は暫し固まってキョロキョロと辺りを確認すると、
「し…失礼します…」
そう言って恐る恐る狛村の尻尾の上へその身を横たえた。
ふんわりと、包む様にして頬に触れる温かな感触。
途端、修兵の胸の内へ一気に懐かしさが込み上げて、気付けばその柔らかな毛並みに顔を埋める様にしてしがみついていた。
それを見た五郎が、自分も構えとでも言いたそうに修兵の脇腹辺りへぐいぐいと鼻先を押し付けて来る。
「俺、狛村隊長の尻尾好きです」
そんな事を素直にくぐもった声で呟く修兵に、狛村が豪快に笑った。
「昔は良くぶら下がっては叱られておったな」
「う゛…それ忘れてください…っ」
昼の微睡んだ空気に任せて暫く懐かしい話を楽しんでいれば、次第に修兵の受け答えが緩くなって来る。
それに気付いた狛村が大きな手で修兵の頭を撫でた。
「少し休んでしまえば良かろう。ここならば人目もない」
「いえ…まだ午後の職務が…」
そこまで言いかけて、修兵はそのままストンと落ちる様にして微睡に誘われてしまった。
五郎が懐へ潜り込んでも起きる気配がない所を見ると、余程疲れていたのだろう。
彼の人の帰還で精神的な安定は手にしたものの、未だ忙しなさを呈した中で息つく間もなく出版業務にも追われ肉体的な疲労から解放される事はなかなか難しかった筈だ。
それの証拠に、穏やかな表情で眠っているその瞼の下には薄らと隈が浮いているのが見て取れる。
狛村はほんの束の間の休息を与える様に、己も久しぶりに訪れたこの穏やかな時間を暫し楽しむ事にした。
「あ゛?こら!檜佐木!」
「静かにせんか」
所用で隊主室を訪れた射場が、縁側の光景を見てぎょっとする。
自隊の隊舎で何をと声を荒げようとした射場を狛村が諌める様にして静かに遮った。
「すんません…って、隊長なんしよるんですか」
「まあ気にするな」
随分と穏やかな声音を出す狛村に誘われる様に、射場も現状を飲み込めないままその隣へ腰を下ろした。
こんな昼間から寝こけるとは何事かと修兵の顔を覗き込んだ射場の目が、サングラスの奥で僅かに見開かれる。
狛村の尻尾に頬を埋めて懐に五郎を抱えたまま熟睡しているその表情は、今まで自分が見た事のない様なものだった。
日頃感じさせる怜悧さはまるで形を潜め、ただただ安心しきって眠る幼い子供のようだ。
自分の知っている檜佐木という男とは随分と印象が違う様に思う。
「餓鬼くさい顔しよる…人が変わってしもうたようですなあ」
「いや、元よりこういう者だったのだ、檜佐木は」
「はぁ」
そう言われて、射場はここ最近の修兵の様子を思い返す。
今回の件で復隊した隊長らの中でも九番隊隊長に復帰をした六車拳西の顔が過ぎって、妙な納得をしてしまった。
「なんよのう…、分からんでもない気ぃがします」
「ああ」
低く頷きながら優しげに修兵を見下ろす狛村に中てられて、射場もすっかり毒気を抜かれた様になってしまった。
親子の様だと形容するには妙だけれど、友人と敬愛するべき同じ人物を失った者同士の繋がり以上の何かがこの二人の間にはあるのだろうと思う。
それはきっと、修兵と六車拳西との間を結んでいるものとは全く違う類の。
「うむ、鉄もどうだ」
「んなっ、たたたた隊長!!そげな事滅相もな…!」
修兵が占領している己の膝を飄々と指差す狛村に、射場が顔の前でぶんぶんと手を振って盛大にどもった。
「はっはっは、ほんの冗談だ」
「隊長ー!」
頭上の騒がしさにも目を覚ます様子も無く、修兵は五郎を懐に抱えたまま身じろぎ一つせずにすっかり寝入ってしまっている。
そんな修兵を、あの頃の様に探しに来た拳西が連れ戻したっぷりとお灸を据えるまで、後数十分。
― 終 ―