「おい、」

「…、…」

白いカーテンで仕切られたパイプベッドの掛布から一束覗いている黒髪を見下ろしながら、阿近は朝からこのベッドに山を作っているその中身を平手でばしっと殴り付けた。
布団越しとは言えそれなりの勢いで衝撃を与えたにも関わらず、ごそりと一つ身じろいだだけで相変わらず無視を決め込んでいる。

「…テメェ、俺の気が短いの知っててシカトしてんだろうなゴルァ」

言うが早いか、枕と掛布の間に挟まっている髪を一束纏めて渾身の力で引っ張り上げた。

「いぃっでぇえー!!ハゲるハゲる!ばか阿近!!」

「あ"ぁ?」

痛みに飛び起きた修兵の髪を未だ掴んだまま鬼の形相をぐいと寄せるそのガラの悪さは、学校職員と呼ぶには程遠い何かを匂わせる。

「いえあの…。スンマセンっした…」

「ったく、んな元気があんならさっさと授業出やがれこの不良。いいようにココ使いやがって」

ぽいと掴んでいた髪を離し、軽く包帯の巻かれた左手を裏手でぺしりとはたいた。

「いて!」

元より本来の役割を別としても、生徒達にとって潜伏先や休息所代わりにでも使われる医務室なのだろうが、阿近が保健医として着任してからと言うもの、口実を付けて此処へ寄り付いていた輩の数は激減した。

今ベッドの一つを占拠している檜佐木修兵を含む数人以外、ほぼ皆無と言って良い程だ。

医務室の鬼に近寄るべからずが暗黙の了解になっている。

しかし馴染んでしまえば思いの外居心地は良く、存外懐の深い阿近の質も手伝ってか今ではすっかりこうして最も良く此処へ居着いている。
修兵は白く固められた己の左手を閉じたり開いたりしながら、こんなに大袈裟にする程の怪我じゃないのに等とぶつぶつ呟いていた。

「なんだって朝っぱらからんな怪我してんだお前、手当してやったんだから聞く権利あんだろ言え」

「あぁーいや…」

がたがたと乱暴にパイプ椅子を引き寄せ傍らにどっかと腰を下ろした阿近に、視線を下へとさまよわせながら修兵は言い澱んだ。


* * * * * 


事は数時間前に遡る。


「恋次!!」

ドサリとさして質量のない鞄を投げ渡し、修兵は勢い良く車道へ滑り込んだ。
ザザッと地面を蹴った次の瞬間懐へ黒い塊を抱え込むと、横へ跳び退ける様に身を翻す。
そのまま反対側の歩道へ出る筈だった体勢が、腕の中で盛大に暴れた塊に気を取られほんの一瞬崩れた。

「檜佐木さん!危ねぇ!!!」

叫び声に体が反応仕切れず修兵は左から迫り来るトラックを目の端に捉える。

二人分の鞄を投げ捨てて駆け寄ろうとした恋次の視界の隅を、黒い影が一つ風を切って走り抜けた。

そのまま車道に躍り出たそれは、うずくまる修兵を易々と抱え上げ勢いを付けて歩道へと跳び退いてしまう。

「おい、大丈夫か?」

懐のそれを抱き締めたままぎゅっと閉じていた両の瞼を開けば、陽光に反射した銀色が修兵の視界一面に広がった。

自分を助けてくれた男をぼんやりと見上げながら、がっしりと肩を抱えられたまま眉を寄せて心配そうに顔を覗き込まれているその様に、急激に恥ずかしさと情けなさが込み上げ修兵の顔が見る間に上気する。

「あ…、はい」

修兵の返事にほっと表情を緩めた男の視線が、左手へと移された。
興奮状態と混乱で気付かなかった痛みが、今になってじんわりと左手の甲から伝わってくる。
バランスを崩した時に擦ってしまったのだろう、生温い血が細い筋を作りながら地面へと流れている。
目の前の男が何かを言おうと口を開けたその時、修兵の視界がぐんと高く浮き上がった。

「ぅおお!?」

「檜佐木さん!怪我してんじゃないっすか!!」

血相を変えて走り寄って来た恋次が、男の腕からひったくる様にして修兵を肩へ担ぎ上げる。
そのままがばりと男へ向けて一言礼を告げると共に頭を下げ、勢い良く学校の方向へと進み出した。

「おい!!降ろせ!!」

「イヤっす」

「ふざけんなまだ礼も言ってねぇだろうが馬鹿野郎!!」

「俺が言いました」

「俺が言ってねぇんだよこの鶏頭!降ろせ!!降ーろーせー!!」

「ちょ、おいっ!!イテ!大人しく乗っとけ怪我人!!」

「降ろせオイ!ただの擦り傷だろ!阿散井ぃぃい!!」

「イッテ髪!髪引っ張んないで下さいよ!!」

大騒ぎをしながら嵐の様に去って行く黒髪の男と派手な赤髪のデカイ男を、周囲の通行人と同様呆気に取られたまま見送る。
咄嗟に助けた時には気がつかなかったが、ずんずんと遠ざかって行く二人の身なりを見て一つ首を傾げた。

「見覚えあんな、あの制服」


* * * * *


「それで阿散井に担ぎ込まれて来たってワケか」

一通りの顛末を聞き終えた阿近は、背凭れへふんぞり反りながら盛大に溜息を吐いた。

「死ぬとこだったんじゃねぇか阿呆。大体この間も子犬一匹助けようとして側溝にハマッてコケたじゃねぇか、この間だってそうだ、誰のか知らねぇが木の上に逃げたハムスター捕まえようとして落ちただろ。お前運動神経ある癖になんでそんな鈍臭いんだよ自覚しろ。いい加減動物好きもここまで来るとアホだぞ、そもそもオメーはなぁ」

「あぁぁもうだから言いたくなかったんだよ!!」

「分かってんなら自重しろこの馬鹿」

くどくどとこのまま切れ間なく続きそうな阿近の説教を遮る様にして修兵が声を上げる。
初めの頃は良かったものの、回数を重ねるにつれその度にこうして阿近の説教を食らわされるようになってしまった。
阿近は保健医なりに生徒の身を案じ修兵も内心でそれは分かっているつもりなのだろうが、お互いの性格と口の悪さ故結局はいつも説教の延長から軽口の応酬になってしまう。

「しかしまぁ良くお前抱えて跳び退けられたもんだな。
担いで来た阿散井も阿散井だが、一体どんな筋肉野郎だ」

「いや…、恋次とはなんかまた全然違うって言うか…すげぇ綺麗な銀髪で、男前で…って、多分…?」

ほんの少しの間目にしただけの男の容姿を思い出しつつ、修兵は後ろ髪を荒っぽく掻き混ぜながらぽつぽつと特徴を挙げていく。
その表情の変化を見逃す筈のない阿近の眉間が、列挙される男の身なりを聞くごとに再びぐっと寄せられた。

(何だ、嫌な予感がしやがるな…)


「檜佐木さん!!」


ガラッと扉が跳ね返る勢いで引かれ、同じ勢いでカーテンが左右に開かれた。

「うるせーぞ阿散井、医務室だ静かにしろ」

「うげ、スンマセン」

「げってなんだお前喧嘩売ってんのか」

「いやあの、ってそうじゃなくて!!檜佐木さんに話しがあるんスよ、今日来るって言ってた新しい担任」

「ああ、そう言えば今日からか?」

「それが、多分今朝檜佐木さん助けた奴だ」

「「あ?」」

唐突過ぎる恋次の言葉に、口を開けたまま二人揃って目まで見開いている。

「まじで?」

「阿散井、そいつの名はなんだ」

「確か、六車拳西」

その名を聞いた阿近の放つ空気がピシリと固まった。
それに気づく筈もなく、修兵は未だ口をポカンと開けたまま恋次を見上げている。
その顔を見た恋次の胸中に、先程阿近が感じていたものと同様の"嫌な予感"がじわじわと形を成していた。


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