「九番隊副隊長檜佐木修兵です」
引き継ぎ資料や各隊への回覧諸々。
分厚い書類の束を抱えて、修兵は八番隊隊主室の扉の前で声を掛けた。
返事を待つ事少し、
― どうぞ。
中から七緒の硬質な声がしたのを確認してから書類を落とさない様慎重に扉を開いた。
「失礼します。あの…京楽隊長は…?」
「隊長なら今…、……」
中で書棚の整理をしていた七緒が修兵の声に振り返る。
途中まで言いかけていた言葉を飲み込んで、ぴたり、修兵の背後に視線を止めたまま固まった。
「・・・へ?」
何事かと振り返ろうとした修兵の反応より早く、背後からぬっと密着した影が柔らかな曲線を描く尻をさわさわと撫でた。
「ぎゃあっ!!」
ぞわっと背筋を走った鳥肌に飛び上がる。
「呼んだかい?」
聞き覚えの有り過ぎる間延びした声音に、撫でられた尻を押さえてがばっと振り返った目の前で、眉尻を下げてニヤニヤと締まりのない顔をした京楽が楽しげに修兵を見下ろしていた。
「やあ」
「やあ、じゃないですよ!こういう事するの止めて下さいっていっつも言ってるじゃないですかっ!」
顔を真っ赤に上気させながら、修兵は京楽の手の届かない距離まで飛び退く。
それへわざとらしく残念そうに肩を落としながら、先程修兵の柔らかな尻を撫でた手付きを再びしてみせた。
ほろ酔いの緩んだ髭面に愛用している女物の羽織の効果も相俟って、護廷の一隊長にも関わらず今はただの胡散臭いスケベ親父と言った所だ。
「隊長…何をなさってるんですか…」
いつもの事ながら完全に呆れ返っている七緒が盛大な溜息を吐く。
「いやぁだって、目の前に良いお尻があったら触りたくなるのが男の性ってやつでしょう。それに…」
下げられていた眉尻を更にへにゃりと下げて、京楽は赤くなっている修兵の顔をぬーっと覗き込んだ。
「触れる時に触っておかないと…、六車君に見つかったら大目玉じゃない」
― 愛されちゃってるからねぇ。
途端、ボンっと言う音がしそうな程に修兵の顔へより一層熱が集まった。
「なっ、何言ってるんですか…!だったら触らないでください!!」
手にしていた書類諸々を京楽の胸へ押し付けながら後ずさる。
「こ、これっ、回覧と目を通しておいて頂きたい資料です。また受け取りに伺いますので、それまでに判を押しておいて下さい!!」
そう早口で捲し立てて、修兵は八番隊の隊主室から逃げる様にしてばたばたと走り去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、京楽は先程までの脂下がっただらしのない表情を一変させて温かな表情を見せた。
「元気になったねぇ」
愛されているのだと、そう言った京楽の言葉に狼狽しながらも決して否定はしなかった。
頬を赤らめてぐっと言葉を詰まらせた修兵の表情を思い出して自然と口元が緩む。
「なんですか、それ」
まるで己の息子か孫の成長を喜ぶ様な口振りに、七緒は頷きながらも苦笑いを返した。
尸魂界を百年超と言う永い間離れていた六車拳西が護廷の隊長に再び着任してから数週間。
本人の自覚が有るか無いかは別として、周囲からすれば修兵の変化は顕著だった。
東仙が去ってから、もしくはそのずっとずっと昔、育ての親以上の愛情を与えてくれていた人物と離れ離れになってしまってから、修兵はどこか危うげな緊張の糸を常に張り巡らせる様になっていった。
藍染らの離反事件後もそれは変わらぬどころか修兵をより一層蝕む一方で。
九番隊に対する誇りと隊士達を守らねばならない強い義務感の元、何度も揺らぎそうになる胸の奥へ凛とした焔を常に灯し続けた。
それはいっそ恐ろしい程完璧に、他人が一片たりとも付け入る隙の無い鉄壁と化して己の内のボロボロに剥がれそうな綻びを漏らすまいと強固に鎖し続けていた。
“隠す”と言う事に長けてしまった所為で、本当に近くで長く彼を見て来た人物にしか分からない程度のものだけれど、張りのある頬に儚げな憂いを滲ませている様は痛々しいものだった。
京楽も、修兵をそんな思いで長く見守って来た内の一人なのだ。
七緒とてその例外ではない。
だけれど、そんな修兵が一人の人物との再会のお陰でどんどんとその様子を変化させている。
青褪めていた頬にふんわりと健康的な赤みが差し、柔らかな表情を頻繁に見せる様になった。
その変化を傍らから喜ばしい思いで眺めつつも、こちらへ顔を見せに来てくれる回数が減ってしまった事をほんの少し寂しく思ったりもしてしまう。
「七緒ちゃん、もしかしてちょっと寂しいんじゃない?」
「な…何を言ってるんですかっ!それは隊長の方でしょう!?」
「いやぁー、まぁねぇ〜」
七緒は胸中を言い当てられて微かに頬を染めながら、それを誤魔化す様にしてキリリと眼鏡の縁に手を掛けた。
幼い頃から年の近い姉の様に修兵の世話をやいていたのだ。
修兵もそれにこっそりと甘えて、お茶を理由にこちらへ七緒や京楽を頼りに来る事も少なくなかった。
そんな機会も、もう余り設けられないかも知れないと思うとやはり少しは寂しさを感じるけれど、嬉しい変化である事に変わりはない。
だけれど、
「う〜ん、もうそろそろお尻も触れないかなぁ」
「当然です!檜佐木副隊長に嫌われるどころか、六車隊長の雷が落ちますよ」
「それは困るねぇ〜」
「まったく…」
七緒は再び呆れた溜め息を吐きながら、へらへらと苦笑いする京楽が抱えている書類をビシリと指差した。
「そんな話ばかりしてないで、早く執務をこなしてください」
「えぇ〜…あぁ、七緒ちゃんのお尻でも僕は歓迎なんだけアイタッ」
「早く仕事をする!」
懲りない京楽の額のど真ん中へ、七緒の指先が弾き飛ばした筆がスコーンと綺麗に命中した。
― 終 ―