『嫁に捨て置かれて気落ちしている夫』さながらの哀愁を日々色濃く滲ませながら、今日も今日とてギンは泣き付くイヅルをひらりと躱して放浪に勤しんでいた。
修兵が自分の元から出て行ってしまった理由など、己が骨身に沁みて自覚している。
いつか嫌われてしまうかもしれんなぁ、などと頭の片隅でぼんやりと思ってはいつつもどうにも止められなかったのだ。
置屋や酒処で白粉の匂いをほんのりと移して帰って来た自分に、常よりもぴたりと身を寄せて不安げに眠りに就く姿だとか、余所での言伝を自分に伝える時のあの嫉妬を滲ませた表情だとか。
その全てが可愛くて愛しくて仕方がなかったのだ。
修兵の向けてくる嫉妬心や隠しきれていない独占欲が堪らなく心地良かった。
そうだ、乱菊の言う様に”泣かせる”つもりなどは無い筈だったのだ。
ただほんの少しの意地悪と悪戯心と、多少歪んでいる自覚のある独占欲を修兵はどうしようもなく駆り立ててくる…、と言うのは今ではただの言い訳にしかならないかも知れないが。
一所に留まり続けておけないこの根無し草の様な自分の性分を、居場所を用意して繋ぎ止めておいてくれる確かな存在が出来た事に甘えてしまっていたのだ。
その結果がこれだ。
自分が今まで戯れ程度に声を掛けてきたどんなに可愛らしい女の子達も、彼には敵わないと言うのに。
こんな相手を試す様な愛情確認の仕方しか出来ない自分など、愛想を尽かされて当然なのかも知れない。
まさかそれがあんな三行半を叩き付けられる事によって思い知らされるとは、考えてもみなかったけれど。
―実家に・・・―
とあった先は恐らく、修兵が属するあの九番隊の番長…もとい隊長の拳西の元だろうと言う事は容易に想像が出来た。
もしかしたらもしかしなくても、近々自分は制裁の鉄拳を食らうのではないかと思い至って肩を震わせた。

(くわばらくわばら…)

恋仲であるという報告をちゃんとしようと修兵に提案をしたのは他でもない自分であるにも関わらず、これでは拳西にまで合わせる顔が無いだろう。
そんな事を思いながらいつの間にか飲み干して空になってしまった湯飲みを置くと、奥へ声を掛けた。

「お嬢ちゃん、お勘定」

はーいと高い声がして、ぱたぱたと走り寄って来る。
また御贔屓にといつも通り愛想良く微笑まれて、もうすっかり条件反射となってしまった所作で彼女の華奢な手を取り、

「ほな、今度はおまけしてぇな」

と頬を染める娘に告げて店を出ようと振り返った視線の先、店の出入り口の所で久しく面と向かっていなかった修兵が無表情で立っていた。

(見とった…よなぁ…?)

ひやりと、ギンの蟀谷を冷や汗が伝い二人の間を流れていた空気が固まっている。

「あの、檜佐木くん…?」

どうにもならない空気を破りたいと言う風に自分の名を呼んだギンの声など頭の後ろを擦り抜けて、修兵は無表情を崩さぬまま、

「隊長が職務中に油を売っているのは感心しませんね。ですが、お邪魔でしたのなら…失礼します」

そう言って、引き留めるギンの声など聞こえないふりで瞬歩を使ってその場を逃げ去った。











たったの一週間が、こんなにも長く感じた事など今まであっただろうか。
それだけ、ギンと共にしていた生活は充実していて日々が早足で過ぎていたのだ。
原因として自分に非はまるで無いとは言えど、今まであまり素直に感情をぶつけ切れていなかった自分が招いた結果でもあるのかも知れない。
そんな事を一週間延々考えて悩んで、拳西にまで情けなく泣き付いて出戻って、やっと話をしようと肝を据えた結果がこれではどうしようもない。
ただの戯れであの人の悪い癖だという事は頭では分かっていたつもりだったけれど、出来ればあんな場面を実際に目にしたくはなかった。
離れていた七日間、悶々としていたのは自分だけだったのではと思うと、悔しいと思う反面なんとも言えない虚しさが込み上げる。
だけれど、逃げる様に夢中で走り去って辿り着いた先が九番隊の元私室ではなく三番隊隊舎の離れの部屋の前だと言う事に気が付いて頭を抱えたくなった。
それでも、再び腰を上げて逃げる気力ももう残っていない。
当然の事ながら近付いて来るこの部屋の主の霊圧を感じて、修兵は閉じられている襖に背を凭れながらずるずると諦めた様に廊下に座り込んで膝を抱えた。

「檜佐木くん…」

遠慮がちに、だけれどどこかほっとした様な色を滲ませて己の名を呼ぶ声に無言で答えて、俯かせていた頭を更に両膝の中へと埋めた。
ギンが自分の前へ膝を付いた事が気配で伝わる。
さらりと、体温の低い掌が自分の髪を撫でて顔を上げる様に促す。
更にきつく顔を埋めて頑なにそれを拒否した。

「…ごめんなぁ」

今まで聞いたことも無い様なギンの情けない声に絆されてしまいそうになる。
だけれどそれでは負けなのだ、今までと何も変わらない、修兵は深く息を吐いてからぽつりぽつりとくぐもった声で言葉を零して行った。

「もう嫌なんです…貴方が知らない女の子の話をするのも、白粉の匂いを付けて帰ってくるのも、噂話を聞いてそれを疑う自分に嫌悪するのも、それに我慢をするのも、もう全部、嫌なんです…っ!」

いつもいつも嫉妬ばかりしていて自分の内にある醜い激情を無理矢理引き出されている様な、そんな思いをしながらそれでも好きで好きで堪らなくて苦しいのはもううんざりなのだと。
話している内に昂って行く感情を抑え切る事が出来ず、最後の方はもう言葉が詰まってしまって声にはならなかった。

「泣かんとってや…」

再び髪を撫でて困った様に呟くギンに、修兵はがばりと顔を上げてその胸倉を掴み上げんばかりの勢いで着物の袷を握って引き寄せた。

「泣いてなんていません…!」

本当に涙など零してはいないものの、キッとギンを睨み上げる修兵の顔は目が合うのと同時にみるみるくしゃりと歪んで行く。
それこそ今にも泣き出してしまいそうな、それを耐えて噛み締めている唇の端と強く握られた手が震えている様が痛々しい。
ギンはそんな昂りを宥める様に、謝罪と愛しさの感情を込めて、強張っているその手をゆっくりと撫で擦りながら修兵の頭を抱き込んだ。

「ほんまにごめん…今更謝って許される事とちゃうかもしれんけど、聞いてくれへん?」

額を付けているギンの胸元から直接響く声に、暫く無言のまま俯いていた修兵がふっと小さく息を吐いて頷いた。
それを了承と確認してから、ギンはついさっきまで茶屋でぐるぐると思いを巡らせていた胸中を洗い浚い全部修兵へと打ち明けた。
何もかも愛情の裏返しなのだと、これだけ想われていて自分に自信を持てなかった情けなさと、甘えと、それだけでは言い表せない様な複雑に入り混じった感情の全て。
一つ一つ言葉を選んで、男の癖にと思われてしまいそうな情けない言い分を包み隠さず。
それへ時折肩を揺らせたり瞼を瞬かせたりする修兵の反応を一つも逃さず、肩を擦り背を撫でながら話していくギンの声に修兵はずっと黙ったまま耳を傾けていた。

「お、れは…」

ぽつりと、絞り出す様に呟いた修兵の声に、今度はギンが静かに耳を傾けた。

「…俺だって、余裕なんて全然無いんです。市丸隊長の事になると全然そんなもの無くて…本当は汚い位に嫉妬してそれを隠すのにただ必死で、
こんな事なんでもないって思える程自分に自信も無くて、そんな事を思いながら傍に居るのが良い事なのかどうかいつだって分からなくなるんです…。
でもそれでも好きなんです…好きだから悔しいし虚しいし情けないんですよ…っ!俺はただ、安心が欲しいだけなんです…だから、貴方にも安心していて欲しかったんです、そんな事をしなくたって、俺は…っ」

(嗚呼、…僕は大馬鹿者や、とんでもないわ…)

必死に自分の想いを伝えようとしてくれている修兵の言葉に、ギンはその胸中を込み上げてくる感情の波で震わせながら一層強くその身を掻き抱いた。

「うん、分かっとったのになぁ…ほんまにごめんな」

己の軽率さが招いた、あんな無意味な事はもう二度としないと、だから今度こそ安心して貰いたい、戻って来て欲しい、そうして自分も思いきり素直に甘えさせて貰おう。
自分がこの手を取りたいと思うのは、いつだって修兵だけなのだと、ギンは二度目の告白をする思いで伝えた。

「それ…嘘だったらもう二度と許しませんから。俺ばかりが市丸隊長の事を好きだと思うのは、もう嫌です…」

「嘘やないよ。僕かて、こんな惚れとるん修兵しか居らんし…」

修兵は強張っていた全身の力を漸くゆっくりと抜いていく。

「なぁ、…名前呼んでくれへん?」

一週間、聞くことが叶わなかったあの甘やかな響きが急に酷く懐かしく感じてしまって、ギンは耳元で修兵の名を囁きながらそれを促した。

「…ギ、ン…ギン」

遠慮がちに、だけれど甘える様な声音で自分の名前を呟いた修兵が、ぎゅっと隊長羽織の袖を掴んで胸元へ額を摺り寄せて来る。
途端、ギンの胸の内にぶわりと沸き上がる熱。

(かわえぇ…っ!)

「あぁー…、僕、ほんまに修兵が居らんとてんであかんかってん…」

「…弱ってるの、なんだか貴重ですね」

「ほんまやて、あの…怒らんとってな?…こんなやねん」

不意に、ギンが修兵の背後へ手を伸ばして自室の障子戸をスーッと引いた。
それへ促されて部屋の中を振り返った修兵が愕然とする。
一週間前、自分が出て行った直前の部屋と同じ場所だとは到底思えない様な荒れ様に言葉を失ってしまう程だ。
これを誰が片付けるのだと考えると頭を抱えたくもなったが、この男をここまでにしてしまえるのは自分だけなのだと思うとどうしようもない愛しさと優越感が湧き上がって来る。
良く良く見れば元々細面だったギンの頬が心なしか窶れてしまっていて、修兵の胸にチクリとした痛みが走った。

(しょうがないな…)

「明日、一緒に片付けましょうね」

「うん。でもその前に…家でもう一回ちゃんと仲直りせぇへん?」

「っ!」

「ちゃんと帰って来て、確かめさせて欲しいんよ…」

もうすっかりいつもの調子を取り戻したギンに熱の篭った視線を向けられて狼狽える。
顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる修兵の返事を聞く前に、ギンはひょいっとその身を抱え上げて瞬歩で私邸までの道のりを急いだ。











隊舎での惨状を見てしまっていたから、家の中はどんな状態になっているのかと身構えたものの、そこは打って変わって綺麗なものだった。
聞けば、この一週間一人でこの屋敷に帰るのは妙に寂しく隊舎で寝泊まりをしていたのだと言う。
そんな事を聞いてしまえばそれこそこの一週間互いに悶々としていた事が馬鹿らしく思えてしまって、胸の内のしこりが解けたのと久々に我が家に戻って来た安心感とで、修兵は存分にギンに甘えた。
ギンもギンで、一週間分か、それ以上の期間の穴埋めをするかの様に散々に構い倒して、日が変わる頃には二人ともぐったりと暖かな敷布に身を投げ出していた。
すっかり痺れて力の入らなくなってしまった体で、それでもぎゅっとしがみ付いてギンから離れようとしない修兵に、元より糸の様だと例えられる目がいよいよ溶けて無くなってしまうのではないかと思う程目尻を垂れさせている。

(かわええ…ほんまにあかん…)

「もう一回、ちゃんと挨拶せぇへんとなぁ、”お父さん”に」

修兵の旋毛に鼻先を寄せて柔らかな髪から漂う甘い香りを吸い込みながら、ギンはしみじみとした口調で言った。
ギンの言う”お父さん”とは、言わずもがな修兵の育ての親でもある親馬鹿全開で有名な六車拳西の事だ。

「何をですか?」

「”息子さんを下さい”て、ちゃんと言わなあかんと思て」

「なっ、ちょっ!あの…でももうちょっと…ほとぼりが冷めてからでも…」

ぼっと赤くなった直後に青くなると言う器用な芸当を披露しながら、修兵は― 一喝入れに ―と目の奥をギラリと光らせていた拳西を思い出してわたついた。

「え、あ、そうなん?」

そんな拳西を知ってか知らずか、飄々としているギンにやっぱりこの人にはある意味敵わないなと困った様に笑った。

「あぁ、そう言えばまだ言うてなかったわ…」

急に表情を引き締めたギンが、修兵の頬に両手で触れながら柔らかく視線を合わせて来る。

「おかえり、修兵」

「…ただいま」

修兵は穏やかにそう返しながら、明日二人して怒られに行くのも悪くはないかも知れないと思いながら、目を糸にして微笑んでいる男に再びぎゅっと抱き着いた。







散々に周りを巻き込むだけ巻き込んだ夫婦喧嘩の嵐が、今度は惚気の応酬で周囲をぐったりと呆れさせるのは、また別の話。








― 終 ―




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