「ひゃあ…、こりゃあかんわ…」

懐手をしたまま、茫洋と部屋の入口に立ち尽くす。
廷内にある私邸とは別の、隊舎の離れを利用したこの自室は普段ならば一人では持て余してしまう程の広さがあるものの、今や足の踏み場もなく見る影すらない。
整然と分別されて積み上げられていた書類は床に広がり放題、脱ぎっぱなしの着流しは鏡台やら座椅子の背やらにそのまま引っ掛けられているし、
今朝から探していた金盞花の刺繍入りの足袋の片方がどこにも見当たらない。

(あれ、お気に入りやったんやけどなぁ…)

困り果てた顔で絹の様な銀糸が包む頭をぽりぽりと掻いた。

昨夜晩酌をした時の銚子と猪口もそのままになっていて、倒れた銚子から零れた滴が畳に小さく染みを作ってしまっている。
手入れを怠った筆先は墨で何本か固まってしまっているし、何より折角綺麗に飾ってくれていた花も満足に水を与えられずすっかり枯れてしまった。

(これはどやされるわ…)

そう思い至ってから、ギンははたと気付いて眉尻を下げた。

(…どやされるんがおらんから、こうなってしまっとるんよなぁ?)

「弱った弱った…」

つい数分前、イヅルから”良い加減お掃除くらいなさったらいかがですか”と追い立てられた事などもうすっかり忘れて。
ギンはもう一度散らかり放題になってしまった自分の部屋を見渡して、溜息を吐きながらパタンと襖を閉めた。





















「ちょっとギン、あんた良い加減吉良も修兵も泣かすの止めなさいよ」

ずずずと、練り菓子と一緒に出された番茶を啜りながら乱菊が呆れた顔で目の前の男をじっとりとねめつける。
廷内にある馴染の茶屋で二人並んで休憩と言う名のサボりに勤しみながら、先ほどからもう幾度目かになるやり取りを繰り返していた。
イヅルの目を盗みながら部屋の掃除と書類整理をほっぽって隊舎を抜け出したギンは、同じく仕事から逃亡して来た乱菊に捕まりこうして一緒に茶菓子を突ついている。

「イヅルはともかく、檜佐木君は泣かすつもりなんあらへんよ…」

「ともかくってあんたねぇ…」

目の下に隈を作りながら出来の悪い隊長の補佐に日々奔走している陰気で優秀な金髪の副官を哀れに思って、乱菊は幾度目とも知れぬ溜息を吐く。
不憫極まりないイヅルに同情をしたくなるのと同時に、行儀悪く突っ伏している目の前の男の”恋人”にも、乱菊は同じ様な憐れみを抱いた。
あんなにも甲斐甲斐しく世話をやいてくれる人物が傍に居ると言うのに、この男はどうしていつもこうなのだろう。
幼い頃から姉の様な立場でギンを見て来た乱菊にとって、この男のこういう所は一番分かってはいつつも最も理解出来兼ねる部分だった。
それはそれで好意や愛情、執着心の裏返しなのだろうが、如何せん相手に最も伝わり辛い手段なのだから性質が悪い。

(あの子もどうして、こんなのが良いのかしらねぇ〜)

再び呆れる乱菊の目下で、そんなぁと情けない唸り声が上がる、胸中で呟いたつもりがどうやら声に出てしまっていたらしい。

「そないな事言わんとってや乱菊〜…」

どうやら今回ばかりはなかなか参っているらしい。
茶屋の机に突っ伏したまま自分の死覇装の袖にしがみ付く男を、振り払うのも面倒な風で乱菊は茶碗を弄びながら明後日の方向へ視線を投げた。










九番隊が請け負う『瀞霊廷通信』の編集業務は、言わずもがな他隊と共通の通常業務と比べて特殊なものだ。
討伐や派遣調査任務とは別に”取材”と称して現世へ赴く事も多々あるし、勿論それは流魂街や瀞霊廷内でも日常的に行われる。
隊士達と自らあくせく足を運んで集めた膨大なそれらの取材資料を纏めながら、修兵は小さく溜息を吐いた。
幅広く様々な聞き込みやら何やらをしていれば、そのオマケとばかりに自然耳に入ってくる噂話。
人の噂など大概事実よりも誇張されているものだという事は分かっているし、時には根も葉も無い様なものもあるので大抵の事は話半分で聞き流せてしまうものばかりだ。
だけれどその噂話に混ざって、いかんせん修兵の耳をざわつかせるものが時折紛れ込んで来る。
それは大抵茶屋や酒処で聞く機会が多いのだ。
”先日も市丸隊長が”だとか、
”いつも御贔屓にして頂いて”だとか、
時にはこんな所にまで来ているのかと思う様な場所にまで一人で足を運んでいるらしく驚かされる事も少なくない。
それだけならば良いのだ。
ギンの放浪癖や逃亡癖は今に始まった事ではないし、ふらふらとお茶や酒を飲みに行くことが最早趣味の様なものなのだろうと修兵もそれなりに認識している。
ただ、そんな話に決まって付随してくる”噂話”が修兵にとってとても聞き流せる様なものでは無かった。
店で働いている年若い娘達はギンの話題になると頬を染める者も少なくはなく、時には臆さずに言伝を頼んで来る者すらある。
大抵は営業じみた決まり文句の様なものだが、そこに個人的な感情を潜ませている者も居る事は纏う雰囲気から薄々と感じ取っていた。
ほんの少し、嫌味交じりにそれをそのまま報告してはみても、伝えた当の本人はさしたる事でもない様に笑ながらのらりくらりとした薄い反応を修兵へと返すばかりだ。
こんなやり取りが繰り返されていれば良い加減修兵も馬鹿馬鹿しく思えてしまって、相手方に悪いとは思いつつ、今ではもう報告をする事など呆れて止めてしまった。
それでも、浮ついた噂話は変わらず耳に入って来る。
”三番隊の隊長さんは手が早い”だの”妾宅を幾つも抱えている”だの”あそこの大店の娘と懇意だ”だの。
噂話など気に病む事でも無いじゃないか、そう表面上では取り繕いつつも、それらは修兵の中で着実に積もり澱となって胸中で膨らみ続けていたのだ。

(あれも…三行半…っていうのか…)

少しずつ、でも着実に膨らみ続けていた蟠りをぱーんっと破裂させた修兵は、ある日突然一枚の紙切れをギンの私邸であり今の自分の住居でもある屋敷の床の間に置いて家出をした。
― 実家に帰らせて頂きます ―
咄嗟に書き出した一文に、自分でも何を書いているのかと後々になって何とも言えない情けなさと気恥ずかしさを覚えたが後の祭りだ。
自分から家を出た手前知らず知らずの内に意固地になり、時折感じる何か言いたげなギンの弱々しい視線をとことん無視して、そうして元鞘に戻る機会はどんどん離れていくばかり。
修兵は再び大きな溜息を吐いてぼんやりと編集室の天井を仰いだ。

「おい、何百面相してんだ」

何時の間にか隊主会から戻って来ていた拳西が、入口の扉に凭れながら怪訝な顔で修兵を眺めていた。

「え…、うわっ!すみません!気が付かなくて…」

「また余計な事でも考えてやがったのか」

「いや…そういうんじゃ…」

「茶、淹れてくれ」

「あ、はい…!」

言われるまま素早く茶の準備をすれば、座れと、拳西が寛いでいる来客用の長椅子の向かい側を示される。
そこへ腰を下ろして手の中の湯飲みを眺めながら、修兵は幾分か肩を落とした。
この手の話題を振ってくる時、決まって拳西はさり気なく休憩を促してくる。
職務中には絶対に私事を口にしない修兵の性格を分かっている上でしてくれるこの気遣いを毎回申し訳なく思いつつ、それでもついつい甘えてしまっている。
いつまでも子供扱いをしないでくれと申し出てはいるものの、これではまったく自分も拳西の事を言えたものではないのかも知れない。

「良い加減意地張んのも止めたらどうだ」

グサリと核心を突いてくる拳西に、修兵はう゛っと口籠る。
走り書きの紙切れ一枚を残し、さして多くもない荷物を纏めて、育ての親であり自隊の隊長でもある拳西の元へ出戻ってから早や一週間。
半ば勢いで家出をしてきてからと言うものの、今修兵は元々私室として与えられていた隊舎の一室を再び間借りしての生活を送っていた。
元より目に入れても痛くないと言う様な思いで修兵の親代わりを務めていた拳西は、己を再び頼って来た我が子同然の修兵を邪険になどする筈もなく、当然の様に置いてやっているのだが。

(こんな事ならいっそ連れ戻してやろうか…)

そんな事を半ば本気で思ってしまう位、今度の喧嘩(とも言えるべきものなのかは置いておいて)は長く尾を引いていた。

”息子さんを僕に下さい”と言わんばかりの勢いで修兵を伴って自分の元を訪れて来た男の顔を見て、心臓が口から出掛けた時の衝撃は昨日の事の様にはっきりと思い出せる。
嗚呼、娘…もとい息子を家から出す親の想いと言うものはこういうものなのかと、妙に老成した気持ちを抱いたものだ。
まだ修兵が院生の頃、現世実習で死者や怪我人を複数出し、修兵自身も顔の右半分に致命的な大怪我を負った大きな事件があった。
その時に救助要請を出されて駆け付けた救援隊の内の一人が市丸ギンだったのだ。
当時遠征での討伐任務に駆り出されていた拳西はすぐに現場へ向かう事は叶わず、今でもそれを悔やんでいる。
だが、その時迅速に対応したギンのお陰で、修兵は即座に四番隊と技局の施術を受け右目へ再び光を取り戻す事が出来たのだ。
ギンに付き添われた修兵と救護所で会えた時には、どっと全身の力が抜けて安堵したのを覚えている。
謂わばギンは、修兵が自分の事をそう言う様に、彼も修兵にとってもう一人の命の恩人と言っても過言ではない。
そんな事があってから、ギンは落ち込む修兵を良く目に掛けていたし、いつの間にか二人の間に流れる様になった親密で柔らかな空気には気付いていた。
”お嫁に行きます”だなどと言われた日にはどうすると、どこかが大きくズレた完全なる親馬鹿振りを脳内で渦巻かせながら悶々としていたのだが。
やはり我が子の望みは叶えてやりたいと思うのが親心と言うもので。
そんなこんなで、ギンと修兵が生活を共にすると言う事に諾と言ったは良いものの、これではそれが良かったのかどうかが非常に危ういと言うものだ。

(まったくコイツらは…)

「お前ら、もう少しちゃんと話しろ。根っこのもん言わねぇと解決するもんもしねぇだろ」

「そう、なんですけど…」

「なら…俺が一喝入れに行ってやってもいいが」

「!!」

ギラリと目の奥を燃やした拳西に修兵の背筋がピッと伸びる。
冗談とも受け取れない様な目をしている拳西に背中から冷や汗を垂らしながら、修兵は誤魔化す様にしてははと引き攣った笑みを浮かべた。

「すみません、こんな事でご迷惑ばかりかけてしまって…」

「気にすんな…っつっても、今度はちゃんと”休暇”で帰って来い。当然、話つけてからだ」

「はい…そうします…」

念を押して釘を刺す拳西に修兵は苦笑いのまま頷くと、―ちょっと取材に出て来ます―そう言って、発破を掛けられた事で幾分か軽くなった腰を持ち上げた。







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