数日間の現世駐在任務を終えて、疲労故の重怠さを抱えながら帰還の途に着く。
もう何年何十年と繰り返して来た任務であるとは言え、やはりこの環境に馴染み切る事は難しい。
近頃はあの年若い死神代行のお陰で、いくらかこちらで肩の力を僅かばかり抜ける様にはなったものの、やはり常よりも任務後の倦怠感が増す事に変わりはなかった。
だけれど今日は、いつもならば全身を包んでいる筈のその疲労感が幾分か軽い様に思う。
目的を果たしたとは言え帰還するまでは任務の最中なのだから、副隊長の己が気を緩めてしまう事など有り得ない。
それでもほんの少し、これぐらいならば許されるだろう。
胸元にそっと当てた手で死覇装越しに伝令神器に触れながら、そこからじんわり、不思議と肩の強張りが解けて行くのを感じて、修兵は再び表情を引き締めるとその足を速めた。
Puits d'Amour
鍵の掛けられていない引き戸をカラリと開けると、中からもうすっかり慣れて身に馴染んでしまった二人分の力強い霊圧が届く。
ちゃんと主が居る事にほっとして、勝手知ったる家の中、修兵は剣八が私邸にしている屋敷に上り込んでうろうろとその姿を探した。
「あ!おかえりしゅうしゅう!」
ひょこりと、縁側に顔を出した修兵を桃色の小さな頭が飛び付かんばかりに勢いよく出迎えた。
その拍子に、今まで遊び相手になっていたのだろう、庭に住み着いている子猫がやちるの元からヒョイとその身を翻して去ってしまった。
「ただいまやちる。ごめん、猫逃げちゃったな」
そう言って真ん丸い頭を撫でてやれば、嬉しそうに細められる目。
「いーの、いっつも来るもん!」
「はは、剣八さんは?」
「さっきお風呂に行っちゃったよ」
「そっか」
言われて納得をする、通りで姿が見えなかった訳だ。
余り長湯をする性質ではないから、少し待てば上がってくるだろう。
そう検討を付けて、それまではやちると遊んでいようと、縁側に足を投げ出しながらその隣にゆったりと腰掛けた。
ちょいちょいと手招きをすれば、ぴょんっと身軽な動作で修兵の膝に飛び乗って来る。
軽い体を片腕で受け止めながら、修兵は空いているもう片方の手で自分の懐の辺りからがさごそと何かを取り出した。
「はい、やちるにお土産」
「わ!かわいいコレなにー!?」
修兵の掌に乗せられた可愛らしい包みを見て、やちるは大きな目を輝かせた。
そんなやちるになんとも言えない癒しを感じながら、薄桃色の柔らかな髪が包む旋毛に後ろから軽く顎を乗せて、丁寧にその包みを開けてやる。
淡い半透明の袋の口を縛るリボンを解けば、中には色とりどりの包装紙で飾られたキューブ型のチョコレート菓子が沢山詰まっていた。
「現世のお菓子。いっぱい貰って来たんだ、やちるが好きそうだと思って」
「うれしー!ありがとしゅうしゅう!」
目のきらきらを倍にさせて早速選びにかかる可愛らしい姿からは、どう見ても護廷が誇る喧嘩番長が統べている十一番隊の副隊長だとは想像もつかないところだ。
やちるの手に乗せられると少し大きく見える小さなチョコが、彼女の愛らしさをより際立たせている様な気がする。
お土産にした甲斐があったと嬉しく思いながら、一緒に食べようと差し出された一つを受け取って、修兵も馴染みのないその甘さを味わった。
「おう、帰ってたのか」
暫くやちるとこれは何味でこれは何だとチョコに夢中になっている所へ、湯上りの剣八が顔を出した。
「あ、ついさっき戻りました、遅くなってしまってすみません」
「気にすんな」
下ろされている濡れ髪を乱雑に拭きながら修兵の背後に立った剣八が、二人の手の中を上から覗き込む。
「なんだ、そいつぁ」
「チョコレートです。現世のお菓子ですよ、黒崎から沢山貰ったんです」
「うん、おいしーよ!」
「ふん…」
興味なさげに鼻を鳴らした剣八が、やちるを膝に乗せている修兵の背後へどっかりと腰を下ろした。
まるでそれが暗黙の了解であるかの様に、修兵は自然な仕草で剣八へと凭れ掛かる。
縁側で遊び過ぎて少し冷えてしまった体に、湯上りの高い体温が心地良い。
腰の辺りに腕を回してくるその広い胸板に背を預けながら、修兵もそれへ倣う様にやちるをぎゅっと抱き込んだ。
それに気付いたやちるが、チョコを目いっぱい頬張りながら二人を見上げて嬉しそうににこにこと笑っている。
前と後ろと両方から高い体温がじんわり伝わって、それだけで全身の疲れがするすると抜け出て行く様な気がした。
修兵はその心地良い温かさに、ほっと息を吐いて体の力をゆるりと抜いた。
「お前、また一護の所に行ってやがったのか」
「そう、ですけど…」
何処となく不機嫌さを露わにした声音に、ぴくりと修兵の肩が揺れる。
何度訪れても物慣れぬ現世で、一言声を掛ければ何かと世話をやいてくれるのだ。
一護に限らず茶渡や石田や井上も、元より世話好きの現世組にはついつい修兵も甘えてしまうのはもう良くある事で。
現にやちるや剣八への手土産などにもこうして助言を受けたりしているのだが。
それが剣八にはどうにも毎度面白く無いらしい。
「剣ちゃんがやきもちー!!」
「え…はは…」
「煩ぇ。おい、今度こっちの隊舎にも顔出せっつっとけ」
「良いですけど…程ほどにしてやってくださいね」
楽しげに声を上げたやちるの台詞に不機嫌さを増すものの、何処か拗ねている様に聞こえてしまう剣八の声音がなんだか可愛いと思えてしまって、修兵はそんな自分が相当中てられている事を自覚しながら困った様な笑みを浮かべた。
「あ!しゅうしゅう伝令神器見た!?」
言いながら、やちるがくいくいと修兵の死覇装の袷を引っ張る。
「ああ、ちゃんと見たよ」
懐から取り出した小さな機械を手に乗せながら、修兵はふっと笑って剣八を振り返った。
「ありがとうございます」
「それちゃんと剣ちゃんが打ったんだよー」
あちらでの任務が終わる頃合いを見計らったかの様なタイミングで送られてきた一通のメールに驚いた。
常ならば有り得ない送り主の名に一瞬目を疑った程だ。
(メールなんて打てたんだ…)
ともかく第一に浮かんだ感想がそれだった。
次いで次第に熱くなって火照った頬。
送られて来た文面は、一見素っ気なくも思える何の記号も無い僅か四文字だったけれど、たった数日とは言え離れて任務に勤しんでいた修兵の気持ちを解すのには十分な効力を持っていた。
普段刀ばかり振り回しているこの無骨で大きな手が、こんな華奢な機械に向き合ってちまちまとボタンを操作している様を思い浮かべると頬が緩んで仕方がない。
渋い顔をしながらやちるにでもせっつかれて送って来たのだろうと言う事は簡単に想像が出来るけれど、それでも本当に面倒だと思った事は梃子でもやらない人だ。
”待ってる”
その四文字に迷わず保護をかけてしまうほどには、剣八から初めて送られて来た一通のメールは修兵の中でなかなかの一大事だった。
何処で何をしていても、自分の帰りを待っていてくれる誰かが居ると言うのは胸の内に温かい安堵感を齎してくれる。
メールの文面が短いだの面倒だだのなんだかんだと言い合っている様はまるで本当の親子のようで、そんな二人のやり取りを眺めながら修兵は益々表情を緩ませた。
「あ!剣ちゃんも食べなよ、おいしーよ!」
思い立った様にやちるが両手に抱えていたチョコレートを剣八へ差し出す。
「俺ぁ甘いもんは食わねぇぞ」
それをちらりと眺めて、何かを考える様に眉を顰めた剣八の口角がニタリと吊り上った。
「…こっちで十分だ」
「え、わ…っ!」
ぐいと、顎を掴まれて上向かされた修兵の目前へ迫る顔。
修兵はわたつきながらも、こちらを見上げるやちるの両目を咄嗟に掌で覆い隠して視界を塞いだ。
それと同時に噛み付かれる様にして降りてくる剣八の薄い唇。
背後からがっちりとホールドされて身動き出来ないまま、修兵はやちるの瞼を覆う手へ思わずきゅっと力を込めて固まった。
押し殺し切れなかった吐息が僅かに漏れる。
「ふ…っ」
「えぇーやだー見えないー!!」
やちるがじたばたしながら修兵の手をべりりと引き剥がしにかかったところで、漸く解放される。
「甘ぇ」
「っ!?」
がばっと逃げる様に仰け反った。
(なにするんですか!?)
真っ赤な顔で抗議を込めながら、修兵はキッと剣八を睨み上げる。
そんな視線など意にも介さず、剣八は飄々と口端を吊り上げるばかりだ。
「剣ちゃんずるい!あたしもしゅうしゅうにちゅーするー!」
「なっ!やちる見て…!?」
慌てる修兵の腕からすっぽり抜け出したやちるが、そのままぐいーっと伸び上がる。
ちゅっと可愛らしい音を立てて、修兵の右頬を啄んだ。
にっこりと、悪戯が成功した子供の顔で満面の笑みを見せる。
呆気に取られながらも、なんとも可愛らしい仕草と頬のくすぐったさにすっかり毒気を抜かれてしまった。
あっちにこっちに振り回されながらもいつだって最後にはこうして絆されてしうまうのだから、まったくこの親子には敵わない。
修兵は再び困った様に笑いながら、熱の引かない顔を誤魔化す様にやちるをぎゅっと抱き上げて立ち上がった。
「ゆ、夕飯すぐ作りますから、早く来て下さいよ!」
「ああ…」
きらきらとした目で今日の献立は何かと尋ねるやちるに”秋刀魚の梅煮”だと答えてやれば、”わーいっ”と声を上げてぴょんっと台所の方へ駆けて行ってしまった。
それを見送りながら、頭の中で付合わせと酒の肴をどうしようか考えている修兵の腰へ背後から腕が回される。
がぶりと、首元に柔く噛み付く犬歯の感触。
「痛っ!」
「おい、今日は泊まってけ」
耳の奥へ直接送り込まれる低い声音に、剣八の謂わんとする意図など容易に解ってしまって。
「でも…やちるも居ますし…」
「どうせ遊び疲れてんだ、飯食ったら満足して寝ちまうだろ」
言いながら、今度はついさっきやちるが可愛い口付けを落としたばかりの右頬へ噛み付いた。
「ちょ…っ!」
本当に食べられてしまいそうなそれに、修兵はぐいぐいと剣八の顔を押し返した。
あからさまな独占欲を向けてくる剣八がまるで手の掛かる飼い犬(…と言うよりは寧ろ猛獣だけれど)の様で、修兵は思わず喉の奥で笑ってしまう。
「じゃあ、またメール送ってくれたら良いですよ」
楽しげな修兵に反して、途端渋くなる剣八の顔。
「ああ?…あんなもん面倒く」
「なら今日は帰ります」
「…、…気が向いたらだ」
「はい、待ってますね」
(なんか…猛獣躾けてる気分だなー…)
何処となく納得の行っていない様な剣八の顔が可笑しくて、そんな事を思いながら修兵はまた堪えきれなかった笑いを零した。
― 終 ―