矢口君と

平積みに陳列された新刊コーナーはありきたりな表題もあれば奇をてらった言葉と文字の大きさで目を引こうとするものもある。つまりはいつもと変わらない新刊コーナーだった。
腕時計を見ると約束の時間を5分過ぎている。しかし直感がまだ行かなくてもいいと言うので別の陳列棚へ足を向けた。
目当ての本は特にないのだけれど、本屋はあてもなく周るときの方が心が弾む。目的の本を探すときよりも視界が開けて思いがけない出会いがあるからだ。例えば装丁に惹かれた小説が私好みだったり、大学に入ってから一度も会っていない同級生に遭遇したりもする。

「名字さん、だよね?」
「矢口君……?」

呼ばれて振り返るとぱっちりした釣り目を細める人懐っこそうな笑顔が向けられていた。一見寝癖のような跳ね方だけれどきちんとセットされた髪にいくつかのピアス。悠と同じ予備校に通っていた矢口八虎君だ。手に持ったビニール袋に詰まっているのは本ではなく画材だろうか。

「よかった〜覚えててくれて。びっくりして思わず声かけちゃった。受験前に会って以来じゃない?元気だった?」
「まあまあかな。矢口君は藝大どう?」
「楽しいよ、油絵以外にもやること多くて大変だけどね」

そういえば悠も似たようなことを言っていた気がする。専門科目の割合が多いぶん、油絵以外も習うし制作に掛けられる時間が以前とは段違いなんだとか。

「そういや橋田は元気?」
「水を得た魚のように元気だよ。美術に没頭できる時間が増えて楽しそう。これから会うんだけどギリギリまで制作してるんじゃないかな」
「時間大丈夫?」
「ぜんぜん大丈夫。いっつも遅れてくるし」

再び腕時計を見ると先程確認した時間からさらに10分経っていた。矢口君はどこか納得したようにああ、と呟く。矢口君は悠と予備校が一緒だったから何か思い当たる節があるのかもしれない。

「ちょっと聞きたいんだけどさ……橋田、っていうか美術やる人ってみんなそんな感じなの?」

私は悠や高校で美術コースだった同級生を思い出しながら少し考えて口を開く。

「私も悠の友達くらいしか知らないけど、良くも悪くも自由人が多いと思うよ。まあ悠に限って言えば時と場合は弁えてるみたいだからあんまり深く考えない方がいいかも」
「名字さんてなんていうか……寛大だね」
「それが許せなかったら悠と付き合ってないよ」

ポケットに入れていスマホが通知音と共に震える。矢口君に断ってから画面を見ると待ち人からのメッセージだった。

「悠もうすぐ着くって。待ち合わせ場所近くだから会ってかない?」
「せっかくだけど学校に戻らなきゃなんだよね。今度連絡するって橋田に伝えといて」
「わかった。じゃあまたね」

矢口君と別れて待ち合わせ場所に着くと、まもなくのんびり歩いてくる悠が見えた。雑踏の中でも頭ひとつ抜けているので見つけやすい事この上ない。

「なんや名前ちゃんご機嫌さんやね。イイコトでもあった?」
「ちょっとね。あとで教えてあげる」

2020/7/4
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