※Idea番外編

3月14日の深夜。与えられた宿舎の一室の扉から、軽いノックが聞こえた。1人、パソコンに向かっていた楓莉は扉の方向さえ見ずに入室を許可する、と。

「…久遠さん…?」
「夜分に悪いな」

静かに入室してきた人影を見て、彼女は珍しく驚いた表情をして見せた。…久遠が自分の部屋に来るというのが予想外だったらしい。それに、彼の手にあった物にも思わず目を奪われる。

「…それは」

久遠の両手に抱かれていたのは、大きめの鈴蘭の花束。いつもの彼の様子とその花束が妙に釣り合っていて、思わず彼とその花束を交互に見つめる。そして、一言。

「…まあまあ絵になりますね、意外です」
「…もっと他に言うことは無いのか」
「何か別に言うことありました?」

似合う、と評された久遠が微妙な面持ちになった反面、楓莉はしれっとした様子でそう言うと、手元のパソコンの電源を落とす。…どの道、もうそろそろ終わらせようと思っていたのだから、久遠の訪問が皮切りとなってちょうどいい。茶でもいれるべきか、とすっと椅子から立ち上がった彼女。その目の前に、久遠はすっと花束を差し出した。
楓莉の瞳が、驚きで揺れる。

「これは、お前に」
「…本当に、綺麗ですね。…でも何故私にこれを?」

差し出された花を受け取ることを躊躇うかのようにゆらゆらと視線を彷徨わせながらそう言葉を紡いだ楓莉に久遠はやはり表情を帰ることなく、一言。

「…お前がまだ中学生の頃、私にバレンタインだと言って菓子を押し付けた事があっただろう?」
「…。…そんなカビの生えた話は忘れてください。若気の至りです」

今思い出せばかなり恥ずかしい事をしていた自分の話をされて、楓莉は完全に久遠から目を逸らす。…そういえば、学生時代にそんな事をしてしまった記憶がある、ような。自分ではそんな記憶は疾うに抹消していたため、ほとんど覚えてなど居ないのだが。

「…で、その私の失敗談とこの花束、何か関係が?」

相変わらず久遠から目を逸らしたままの楓莉の言葉に、久遠は一つ溜め息を吐くと、更に続ける。その言葉に、楓莉は思わず目を見開いた。

「その時、私は貰っただけで何も返せなかった。これは…その時のお返しだ。…今日はホワイトデー、と言うものなのだろう?」

ぐっと涼やかな芳香が近づいたと思って顔をそちらへ戻せば、視界一杯に綺麗に咲く鈴蘭の花が。吊られるようにそっとその束を受け取れば、久遠は一言、ありがとうと呟いて踵を返した。そして、部屋を出る前に、小さな声でもう一言。

「あの時の菓子…とても美味しかった」
「…!」

ばっと彼女が扉の方へ向いた瞬間、扉は小さな音を立ててしまっていた。楓莉は一旦瞑目し、ひとつ溜め息を漏らす。

「もう10年も前のバレンタインのお返しを、今更…ね…。…妙に律儀な所は変わらないまま…」

そっと手の平の中にあった鈴蘭の花を撫でれば、そこから一つのメモ用紙が出てきた。訝しく思ってそうっとそれを開くと。…彼女は、苦笑を漏らしてしまった。
―お前の、幸せを願う。
そう短く綴られたメモ用紙を握って、彼女は空を見上げる。少しだけ、心の奥がほぐれて、春のような温もりを感じた。


ホワイトデー

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