…どうしてなのだろう、と楓莉は無表情ながらに考えていた。以前までなら、その男の名を聞くだけで沸き上がっていた筈の怒りが、今では少しずつ質量を失いつつあるような、そんな気がしているのだ。
心地よい低音の声を右から左へと聞き流しながら楓莉は眉を寄せる。…そんな事があるわけが無いと。否、あってはならないはずだと。
自分達を陥れた男への怒りや憎しみが消えることがあってはならないはずだ。それらが消えてしまったら…。ぐるぐると回り続ける暗い気持ちが、何時しか楓莉の脳内を統べようと大きくなり始めた、その時。

「晃斎、…何を考えている」
「…っ!?く、久遠さん…」

不意に感じた肩への微かな重みと温もりによって、楓莉の意識が急速に浮上する。慌てて目の前を向けば、心配そうな色を浮かべた久遠の顔がすぐ近くにあった。

「…何でも、ありません」
「…嘘だな」
「嘘では、」
「嘘だ。…昔からお前は嘘を吐くとき必ず僅かに目線がさ迷う癖があった」

幼い頃からのほんの僅かな癖をあっさり見抜かれ、思わず楓莉はひゅっと息を飲む。…そんな小さな変化さえ、覚えていたとは。
まるで全てを見透かそうとしているかの如く、い久遠の視線に彼女は僅かに顔を背けて暫く沈黙を守っていたが、しかしそれも長続きせず。とうとう渋々ながら口を開いた。

「…あの男の名前を聞いても、以前のように感情が波立たないんです」
「良いことなのではないか?そうやって、忘れていけばいい」
「…良いことなんかじゃありません」

慰めるように肩を叩く久遠を楓莉は一睨みしてゆっくり唇を動かす。

「この感情を忘れていったら…あの時の私達はどうなるんです?」
「…どういう事だ?」
「この感情を忘れていく事は、あの男にされた事を忘れていく事と同義です。…とても、忘れられません」

楓莉は今でもあの悔しさや哀しみを忘れられなかった。今でも、何故自分達がこんな目に合わなければならないのだろうか、何度も何度も自分に問う事もある。…そう、この怒りや憎しみは楓莉達の悔しさや哀しみなのだ。だから、忘れたくない、忘れられないといつでも彼女の心の奥底に暗く深く、怒りの感情がくすぶり続けているのだ。
ぐっと拳を強く握り締め、唇を強く噛む彼女を眺めると、久遠は一つ、溜め息を吐いた。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -