ベクトル方程式 | ナノ





扉を開け放ち、目に飛び込んできた光景に私は目を疑った。そしてこみ上げてくる感情に戸惑いを隠せなかった。しかしこの感情を表すには少々私の語彙力が足りないようだ。

だって、椅子に座った妖兄の膝の上にどこの馬の骨かもわからない女が座り、それを囲むようにしてセナ達も椅子に座って妖兄を羨ましそうに見つめているのだ。

誰?
何を?
何故?
どうして?

様々な疑問詞ばかりが頭をよぎる。

今、私の脳内は完全にパニックを起こしている。だから、今、私がしなければならないことは落ち着きを取り戻してポーカーフェイスならぬ、いつもの表情を作り上げることだ。


『こんにちは』
「……未久、何しにきやがった」
『これ、届けるついでに顔見ていこうと思っただけ。ダメだった?』
「いや」


ちなみに、これとは、例の合宿要項だ。日時、場所、施設詳細などが書かれた紙だ。


「妖一ぃ?この子、誰?」


しびれを切らしさすがに声をあげた女。ちなみに、こっちの台詞だ。

自毛なのか染色なのか、やけに綺麗な茶髪の髪はこれまた綺麗に肩口で切り揃えられ内巻きに。そして髪と同じく茶色の瞳。

私はすぐさまこの顔を脳内検索にかけた。

制服から見て泥門生徒。一応全校生徒分の顔写真と個人データは頭に叩きこんである。劇的な変化が生じていない限りヒットするはずだ。


「栞子ちゃんって本当に天然だよね」
「て、天然じゃないよ!セナ!」
「ケケケ、こいつは全部計算だぞ?糞チビ」
「妖一も酷いよッ」


一件ヒット。
2年の椿屋栞子だ。ここ最近勢力を伸ばしてきた椿屋ホールディングスの社長令嬢。

そして引っかかった点。今のセナと妖兄の口ぶりからすると私は椿屋栞子を、椿屋栞子は私のことを知っているようだった。しかし当の本人はわけがわからないといった表情。私も表情には出さないまでも内心そう思っている。

とりあえず私は妖兄に話を合わせることにした。


『椿屋さんこそ酷いなぁ。私のこと忘れてるなんて』
「えっ!?あ、ごめんね?えと、未久ちゃん!」


今の対応から見て案外馬鹿というわけでもないらしい。妖兄が一度呼んだ名前を覚えて使ってくるあたりとか。


『コーヒー飲みたいから飲んでいい?』
「あぁ。勝手はわかんだろ」
『うん』


私はコーヒーにかこつけて部室全体を見渡した。暫く姉崎さんが来ていないというのを体現しているかのように至るところが汚く、汚れているように見受けられる。ほかに目に付くのは飾られた写真の数々。

関東大会出場のときのものや、クリスマスボウル優勝時の写真。

そう、この時点で私は違和感を覚えていた。


「未久、俺にもコーヒーよこせ」
『はいはい』


椿屋栞子は現在2年生。昨年度に入学したれっきとした泥門生。そこまではいい。問題はここからだ。

彼女は昨年度、アメフト部のマネージャーではなかったはずだ。姉崎さんだけだったはずだ。なのに、なのにだ。昨年撮られた写真に堂々と椿屋栞子が写っているのだろう。

おかしい。おかしすぎる。

この間まではこんな女、ここにはいなかったハズだ。

私が見落としていた?

まさか。そんなことは。でも、


『はい、コーヒー』
「おう」


妖兄の前に、黒い液体の入った白い容器を置く。

その瞬間だった。


『……!』


また、合点がいってしまった。

私はすぐさま自分に淹れたコーヒーを飲み干した。


『用事思い出したから帰るね』
「そうか」
『うん、ちゃんと資料に目、通しておいてね』


私は後ろ手に手を振り、部室をあとにした。


私の頭上で太陽が嘲笑っているようだ。


『信じられない』


妖兄のまえにコーヒーを置いた瞬間、私の嗅覚を刺激した香り。嗅いだことなどないはずだった香り。でも、最近嗅いでしまった香りだった。

たまたま、実家という名の妖兄の家に帰ったときだった。その時に感じた違和感。


人の気配がしたのだ。


物理的にその時誰かがいたとか、そういうのではない。ただ、あの家に出入りする人間なんて私と妖兄しかいないはずなのに、誰かがいたようなそんな気配があった。そのひとつが香りだった。

嗅いでいて不快になる香りではなかった。だから妖兄が自身の付けている香水を変えたのかとも思った。しかし当の本人は「変えてない」とそう断言していたのだ。

適当に返答したとも考えにくい。つまり、あの日以前に私でもなく妖兄でもないあの香りを纏った人間があの家に訪れていた、ということになる。


『ッ』


考えれば考えるほど私の両腕には鳥肌が浮かんだ。

だって、信じられないのだ。あの妖兄が他人を家にあげるなど。


私は震える腕をさすりながら泥門高校をあとにした。



ありえないはありえるのか



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