あの時のことは今でもはっきり、鮮明に思い出せる。
オレンジ色の空が、今の時刻を教えてくれて。早く家に帰りたいと急ぐ車が目の前を沢山横切っていく。そんな車に急かされるように早く目の前の歩行者信号が青になるのを待っていた。
でも、目の前の歩行者信号が青になることはなかった。
背中を押された感覚。バランスが崩れて思わず右足が前に出る。その右足でもまだ体制が整わなくて左足も前に出る。そして体に激痛が走った。
この感覚、感じたことがある気がした。
そうだ。私がまだ、遠藤渚だったころに感じたのといっしょ。
じゃあ私は、また、死ぬのだろうか。
掠れていく視界に映ったのは、楽しそうに笑う蜜香の姿だった。
私は木の幹に体を預けていた。足元には無数のスノードロップが咲いている。ちょうど私の誕生日の頃に咲くこの花が私は大好きだった。白くて可愛い花弁を私はそっと撫でた。
ここに居るということはまだ私は死んでいないのだろう。
あんな難病が治せる社会なのだ。即死じゃなければそうそう死なないのではないだろうか。
いや、どうだろう。
精神世界とは言え、体のことも多少はわかる。かなりひどい、そんな状態。
もしかしたらあと数日の命、なのかもしれない。
『また死因は交通事故とか、もうそういう星の下に生まれたとしか思えないよね』
前世でも交通事故で死に、生まれ変わってもなお交通事故。交通事故に会う確率はそんなに低くないと聞いたことはあるけれど、それにしたって嫌になる。
でも、
このまま死ぬのも、ひとつの手なのかもしれない。
忘れない。あのとき最後に見たあの顔を。
私の姿を見ながら楽しそうに笑う蜜香の顔を。
きっと私を押したのは彼女なのだろう。心当たりだって、ないわけではない。
私は彼女の考えを否定し、きっと彼女の思い描くものをぶち壊したのだ。
でも、後悔なんてしていない。だって私は私なりに生きたのだから。
『楽しかった、のかな』
敷かれたレールの上をただただ走ってきた人生だったように思える。そう、思っていた。でもその敷かれたレールを走らなければ出会えなかったであろう人たちがいる。
楽しいかどうかはわからない。でも、
『悪くはない、ね』
自傷的な笑みが思わず溢れた。
そのとき、足元のスノードロップが揺れた。今まで吹いていなかった風が吹き始めた。
『誰か、いる……?』
誰かがいる。でも、この世界に足を踏み入れた人間を私はひとりしか知らない。
『む、くろ……?』
「市花……」
『む、くろっ……!』
確かに聞こえたのは骸の声だった。どこからか聞こえてくるその声に私は聞き耳をたてる。
「僕は、貴女に会いに来ました。僕は待っていますよ。僕は約束を守ります。だから、僕に約束を守らせてはいただけませんか」
骸とのやくそく、それはあのイタリア語。
『骸が、待ってる。骸は、会いに来てくれた、なら、』
今度は私が骸に会いに行かなきゃ。
澄んだ海の底には光も差す
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