失楽園にて(1/1)
不思議だとセバスチャン・ミカエリスは思った。長い時を生きてきたにも関わらず彼女のような人に出会うのは初めてだった。そう思わせる人だった。 名前・苗字は普通の人であった。違うところといえば女性でありながら執事としての職務をこなしている点だけだろう。ファントムハイヴ家で執事を務める名前はその性格故か、はたまたもう手馴れてしまったのか、ファントムハイヴ家で起きる様々な事案に動じなかった。 一癖も二癖もあるファントムハイヴ家にいる者の中でも浮くことなく存在し、それにも関わらず一般人である名前に違和感と興味、そして好奇心を湧かすのは至極当然のこととも言えた。 セバスチャン・ミカエリスが悪魔だと知る人物は数少ない。名前はそれを知る数少ない人物であった。勿論始めは知らなかったのだ。しかし成り行きで話さざるを得ない状況ができ、それを知ることとなった。しかしそこからだ、不思議だとセバスチャンが強く思うようになったのは。
「怖くはないのですか?」 『は?』
自分が悪魔という存在だと教えてから1週間ほどが経過し、騒がしかった日常もいつもの騒がしさに戻ったころ。同じ執事同士、同じ仕事に手をつけていた時だった。名前は雑巾を絞るために手から外したグローブを思わず床に落とした。セバスチャンはニコリと笑いながらスっと落ちた手袋を拾い上げた。
『何の話ですか?』 「私の話です」
名前は怪訝な顔をしながらセバスチャンから手袋を受け取る。セバスチャンが浮かべる悪魔笑顔は相変わらず顔に張り付いたままである。
『セバスチャンが悪魔だから、怖くないのか……そういうことでよろしいので?』 「えぇ」 『難しい質問をなさるのですね、セバスチャンは』 「難しいですか?簡潔に答えるのなら二択の質問だったはずなのですが」 『そう単純でもないでしょう』
名前はセバスチャンから視線を外し、床に置いてあったバケツから雑巾を取り出し絞る。適度に絞られた雑巾は綺麗な正方形に畳まれ、名前の右手に収められる。一息置いた名前は改めてセバスチャンを見やる。
『私にもそれなりの学はありますが、悪魔というものについての知識は乏しいです。世間一般でいう悪魔のイメージならいくつか存在しますが、今まで出会った事なんてあるわけもないですから正しいことなんて何も言えません。恐ろしいかどうかも然り』 「人による想像なんてたかが知れていますが、大体あっていると思いますよ」 『人を騙し、人を陥れる。そう言いたいのですか?』 「そういう奴らも多いです」 『だったとしても、それはセバスチャン・ミカエリスを畏れる理由にはならないのですよ』
セバスチャンは貼り付けていた笑みを剥がした。否、剥がさざるを得なかった。今目の前にいる彼女はなんと言った?聡明な彼も内心パニックだった。理解が追いつかなかったのだ。 悪魔が恐ろしい存在だという知識があるにもかかわらず、自分を畏れる理由にはならないとはどういうことだ?
『フフフッ!セバスチャンもそんな顔をするのですね』 「そんな、顔?」 『深刻な悩みでも抱えているような顔』
そう言って未だに薄く笑う名前は空いている左手でトントンと自らの眉間を叩いてみせた。それを見たセバスチャンも薄く笑う。どうやら眉間に皺が寄っていたようだ。
「よく、わからなかったものですから」 『セバスチャンでも、わからないことがあるのですね』 「まぁ、それなりには」 『なんて説明すればいいでしょうか……そうですね。悪魔、という尺度ではセバスチャンを測れないとでも言いましょうか』 「ほう」 『だって坊ちゃんの事だって人間という尺度じゃ測れないからこうして仕えているのではないのですか?』 「!」 『一括りにすることは容易。でも、そうできない。坊ちゃんは坊ちゃん。そして、セバスチャンはセバスチャン、そうでしょう?』
今まで多くの人間を見てきたセバスチャン。しかし名前のことは不思議だと思った。自分のことを悪魔と知ってもなお対応が何も変わらず、今までと同じように接してくるのだ。セバスチャンにとってはそれが不思議で不思議でたまらなかった。 しかし当の本人名前にとっては、それが当たり前だったのだ。名前は悪魔という尺度でセバスチャンを見ず、今までの自分が感じてきたセバスチャンだけを信じて、セバスチャンをセバスチャンとして接していたのだから。
『セバスチャンは、本当はセバスチャンではないのかもしれない。それでも私が知るのはセバスチャンですから』 「……貴女は面白い方だ」 『セバスチャンも十分面白いですよ』
悪魔が恐ろしいとか死神が残酷だとか、天使は清らかだとか神に祈りをなんてそんなもの名前には何一つ意味がないものだった。目の前だけをはっきり見据えている。後先のことなどどうでもいい、ただ自分の感じるものだけを。それが名前。 まるでイヴのようだとセバスチャンは思った。すべてを知りすべてを知らぬ女性。楽園を追放されてもなおそれすらも自分の世界だと受け入れる。自分とはまるで正反対な生き物。
「名前」 『なんでしょうか』 「ここの掃除が早く終わりましたら二人で紅茶にしませんか」 『え?』 「たまには、良いでしょう」 『そうですね。私もとびきりの焼き菓子を作りましょう』 「楽しみにしております」
この会話の五分後には部屋は塵一つない状態だったと、同じくファントムハイヴ家に仕える田中は語った。
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