「小十郎さん」
嗚呼、なんと甘く優しい音なのだろうか!まるで極上の砂糖菓子の様な甘さを含んだ佐助の声に幸村の全身の血液がカッと熱くなった。そして同時に沸々と怒りに似た感情がドロリと沸き上がった。
(その様な佐助の声を俺は未だかつて聞いた事がない!)
「小十郎さん…」
嗚呼!駄目だ。駄目だ。こんな佐助を俺は知らない。知りたくもない。
(佐助は、佐助は俺の、俺だけの――、)
身体が自然と動いていた。
「駄目だ」
「だんな?」
「駄目だ」
その男を見てはいけない。幸村の本能がそう告げていた。
「行くぞ!佐助」
幸村は左手で佐助の手首を掴むと走りだした。この場から早く立ち去りたかった。長くいてはいけない。そんな焦りにも似た想いで幸村は佐助を連れて走った。
彼らは追い掛けてくるのだろうか――?
幸村はそんな不安にちらりと後ろに視線をやれば、佐助に小十郎と呼ばれた男は目を細めてこちらを見ていた。
(見るな、佐助を見るな!)
何故その様な目で佐助を見るのだ!?
幸村は叫びだしそうな衝動を歯を食い縛って堪えた。そしてそんな幸村と隻眼の少年の視線が交わった。
その瞬間、幸村は吐き気にも似た悪寒を感じ取った。すぐさま視線を外し前だけを見て幸村は走る。
心臓がドクドクと煩い。彼らからどれだけ離れられたのだろうか。
「…旦那っ!」
佐助の声にハッとして足を止めた。振り返れば佐助が膝に手をあてて苦しそうに息をしている。
「旦那、」
「佐助、お前は知っているのか…」
「え?」
「先ほどの、」
「知らないよ。俺だってよく分からないんだ…」
「ならいい」
「旦那?」
「佐助が知らないならそれでいい」
佐助の言葉に幸村の中の負の感情が綺麗に消え去った。
「独りは嫌だ」
幸村は握っている手に力を込めた。
「寂しいのだ」
「うん」
「俺は佐助だけがいい。佐助しかいらない」
「うん」
「…独りにしないでくれ」
くしゃりと泣きそうに歪む幸村の顔を見て佐助はその頭を胸に抱き込む様に包み込んだ。
「俺は旦那と一緒にいるから。旦那を独りにしないから」
優しく髪を撫でる佐助の胸に顔を押しつける。
(見たくもない)
何時だって世界は幸村を絶望させる。こんな世界を幸村は見たくもないし、要らないと思う。
(佐助だけ)
(佐助がおればいいのだ)
幸村は佐助だけを求める。佐助だけで幸村は他に何も望まない。
「独りは寂しいのだ」
幸村は閉じた瞳の奥に痛みを感じた。
世界は何時だって幸村を追い詰める。
10.0311
風花