応えられない苦痛


 
 
 
 
 
吐き出した息はもうすでに白くなっていた。目の前に舞い降りる雪は幻想的に舞っていて、過去の記憶を呼び起こす。まだ平和の中にあった温かな記憶。誰にも邪魔の出来なかった母様と父様の記憶。そしてそれが壊れてしまったあの忌々しい日。
 
 
「アレス?」
 
 
北の戦場を出た途端に足を止めてしまった私を心配したのか、ルカが顔を覗き込んでいた。
 
 
「大丈夫、懐かしいだけ…。こっちよ」
 
 
テノスに行く前に私の故郷に行く事なったので、私が彼らを先導する事になった。果たして何年ぶりにあの村に戻るのだろうか…。私が天上に攫われてから、随分長い時間が経ってしまった。それからラスティが生まれて、私を見つけて…。こんなに長い時間が経ってしまったのなら父様はもう生きてはいないだろう。父様は私たちと違って人間だから、長い間は生きられない。
サクサクと雪を踏む度に、私たちの足跡をその場に刻んでいく。ルカたちは黙って私の後に着いて来てくれているけど、結構疲れきっているみたい。まあ、レムレース湿原と北の戦場を休みなしに通ってきたらそうなっても仕方の無い事。
 
 
「ねぇ、どこまで進むの…?」
 
 
イリアが肩を細かく震わせながら問いかけてくる。だけど、村はまだまだ先にある。かなり山奥にあるからかなり歩かなければならない。
 
 
「まだ行かなきゃいけない。村は遠いの…」
 
 
そう答えた後にイリアを見ると、本当に寒そうだった。そんなイリアと、その後ろに見えるエルを見かねて自分の持っている道具袋から大き目のコートを取り出して二人に渡してあげた。
 
 
「これ…」


「ラスティの私物。もしもの時に持ってるの。彼は寒い所は平気なんだけどね」
 
 
渡し終わった後、すぐに歩き出すと、後ろの方から小さな声でありがと、と聞こえたのでクスリと笑ってどういたしまして、と小さく返した。
歩いていくに従って、段々吹雪いてきて冷たい風と雪が体に纏わりついてくる。
 
 
「村はまだなのか?」
 
 
「…村は山奥にあるの。そしてその周りは良く吹雪いている事が多い。辺りが吹雪き始めたからそんなに遠くない」
 
 
サクサクと淡々と雪を踏みながら進んで行く。ルカたちにもう会話はない。こんな吹雪になっているのに楽しい会話なんて出来ないだろうし…。
漸く目の前に懐かしい気配を感じる事が出来た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
村の周りを取り巻く吹雪を炎系の天術で払うと、村の姿が見えた。村は凄く静かで、人間の気配もあんまり感じ取る事が出来なかった。でも、確かにこの村は今でも人がいる。そう感じさせているのはその建物の状態だった。昔と見たまま変わらない建物が並んでいた。そんな懐かしい建物の奥、そこには私の家があった。その家もまた変わる事無く、その家の煙突からは煙を吐き出していた。
 
 
「みんな疲れたでしょう。私の家まで案内するわ」
 
 
自分の家である建物まで戸惑いなく歩き出した私を、ルカたちが困惑したように見た。
 
 
「アレス…もう何年も前の事なら他の人が住んでいるんじゃ…」
 
 
ルカの質問は最も。私が生きていた時代は、それこそ地上に恩恵があった頃の話。でも、今は天上が滅び、地上すら衰退を始めている時代。普通ならばその家には他の人が住んでいると考える。けれど私は違う。あの家が他の人に渡る事がない事を知っているから。
 
 
「あの家は他の人に渡る事は決してない。だから大丈夫。行きましょう」
 
 
あの家には母様がかけた咒がある。その咒がある限り、あの家は他人には開けられないようになっている。私と、母様以外は…。
ルカたちの疑問を無視して家へと近づいていく。煙突から出る煙は懐かしさを呼び、少しばかり胸が痛んだ。そしてそれと同時に悲しくなってきた。ここにはあの人がいる。何度も彼に危害を加えようとしてきたあの人が。
ぴたりと家の前で足を止め、覚悟を決めてからその扉をノックした。
 
 
「誰…?」
 
 
弱々しい声と共に開かれた扉。その先には懐かしい深紅の髪。私と同じ、まるで血の様に鮮やかなそれ。
 
 
「リリー…?」
 
 
目の前の人物の目が大きく見開かれる。それはそうだ。私はずっと昔に死んだはずだった。天上崩壊と共に。けれど死んだはずの人物が扉の前に立っているのだ。驚かれても当然だ。けれど、それはこの場合には当てはまらないのだ。何故なら目の前の人は…。
 
 
「ただいま」
 
 
柔らかな笑みを湛えてそう言うと、目の前の人は勢い良く私の体を引き寄せて抱き締められていた。だけど身長があまり変わらないから抱きついているようにも見える。でも目の前の人にはそんな事関係ないようだ。
 
 
「嗚呼、やっぱり生きていたのね…っ!」
 
 
強く強く抱き締められると、苦しくなるけれどその手を乱暴に離す事が出来なくて、私はその人の肩にそっと手を置いて優しく離して下さい、と囁くように言う。するとその人は私の気持ちが分かったのかすぐに離してくれた。
 
 
「母様。家に上がらせて下さい」


「ええ、ええ!もちろんですとも!さあさあ、お上がりなさい!」
 
 
その人……私の母様は先程までの弱々しい声が嘘のように張りのある声を出して私たちを家の中へ招き入れた。
私があまりにも自然に家に入って行く事に困惑していたルカたちだけど、私が入るように促すと微妙な顔をしながらも入ってきた。
 
 
「アレス…これは一体…」
 
 
私の行動と、私が言った言葉に疑問を感じていたリカルドが耳元で小さくそう言ったのに、母様には聞こえてしまったみたいで、先程私に向けてくれたような優しい顔を取り払った恐ろしい顔でリカルドの事を睨み付けた。
 
 
「アレスなんて名前じゃないわ!?」
 
 
机を強く叩いてヒステリックに叫ぶ母様に、ルカたちは驚いて目を大きく見開く。私はそんな母様を見ながらそっと近づき、冷静になるようにずっと母様に私はリリーです、と呪文のように唱えた。すると母様は落ち着きだしたのか、安心した顔で私の事を抱き締めた。
 
 
「そう…あなたはリリーよ…。私の可愛いリリー…」
 
 
まるで暗示をかけるようにそう言う母様は、昔とだいぶ変わってしまった。昔はもっと綺麗で優しい人だったのに…。
 
 
「えっと、リリー…?」
 
 
スパーダが困惑したような声で私に声をかける。私はそんなスパーダを横目で一瞥した後に私を抱き締めている母様の肩に手を置いてそっと放した。誰もが皆私の事をアレスとは呼ばなかった。
 
 
「ちょっといいか…?」


「構わない。母様、少し話をするので飲み物を用意してもらえる?」
 
 
優しく、刺激しないようにそう言うと、私のために嬉しそうに飲み物を用意するためにキッチンへと歩いて行った。そんな後姿を見送りながら、ルカたちはみんな顔を歪めた。
 
 
「どういう事…?」
 
 
最初にそう問いかけたのはアンジュだった。私はその言葉に一瞬瞳を伏せた後、とりあえずルカたちに椅子に座るよう促した。それからゆっくりと話し始めた。
 
 
「前に言った通り、私は地上に住んでいた。それは覚えてる?」


「うん。それでお母さんが天上人なんだよね?」


「そう。そして私は天上に連れて行かれた。母様へは使者が送られ、私がアレスという名前へと変わった事を伝えられた。母様はきっとそれが気に入らないの。ラティオが付けた名前が呼ばれる事が嫌なの」
 
 
机の上で手を組みながらみんなの顔を窺っていると、みんな何とも言えない顔をしていた。それぞれが複雑な感情を抱いたようだ。私だってその内の一人。母様が変わってしまって困惑している。それでも冷静になれているのはきっと、彼を戻すという使命があるから。
 
 
「ってことは、本名はリリーなん?」


「そうよ。私の名前はリリー」


「でもよ、それも…」
 
 
スパーダが見つめる視線の先には刀のリリー。鍛冶神バルカンが打った最高にして最悪の作品。使い手を選んでしまうどうしようもない刀。でも、とても素晴らしい刀。
 
 
「私がリリーという名を忘れぬように、名付けたの」
 
 
今ではリリーと言う名は私ではなく、この刀という方が正しくなってきているみたいだけど…。
 
 
「リリーとお友達の方々、どうぞ」
 
 
母様がキッチンから帰ってきて、その盆に載っている飲み物をルカたちの前に置いていく。そのカップの中身はココア。この寒い地方には嬉しい温かい飲み物。そして私が好きな飲み物。それに口をつけて体を少しばかり温めてから、母様の方を見る。
 
 
「母様、大切な話があります」
 
 
コトンとカップを机に置いて、真っ直ぐ母様の方を見ると、母様は私の真剣な声と目に緊迫した表情をする。母様は何となく私が言いたい事を分かっているのだろう。
 
 
「私は彼らと共にあの場所に行きたいのです」


「何で…?今は行かなくてもいいじゃない…?せっかく帰ってきたんですもの。あんな場所に行かなくても…」


「母様」
 
 
母様の言葉を鋭い声で遮ると、母様はぐっと息を呑む。あなたは変わりすぎてしまった。昔は誰に対しても優しい私の母様であったのに、今は単なる醜い女に成り果ててしまった。私が、天上に行ってしまったから。
 
 
「彼を助けるためにはあの場所に行かなければならないの。あそこは全ての真実を映し出す場所だから」
 
 
「誰を助ければいいの…?私があなたの代わりに助けるわ。あなたを失うことより怖い事なんて、母様にはないのよ…?」
 
 
母様は恐れている。最悪の状況になる事を。漸く帰ってきた娘がどこかに行ってしまう事を。そして私が母様よりラスティを選んだ事に。でもこれは現実。だって私はもう、生きていないのだから。
 
 
「母様」
 
 
「誰!?誰を助けたいの!?」
 
 
発狂しそうになってまで母様はその存在を認めたくない。彼の存在を。それでも、私は何度だって言ってあげましょう。私は…。
 
 
「ラスティ・クルーラー…。彼を助けたい」
 
 
私の生まれ変わりで、とても強くて弱い彼。私は彼と共にあると決めた。彼の意志に従うと決めた。そして私は彼に幸せになってほしい。だから私は私に出来る事をしてあげる。
母様は私がその名を言った途端顔を真っ赤にしながら机を叩いて立ち上がった。その顔には怒りが浮かんでいた。
 
 
「ラスティですって!?彼、彼を助けると言うの!?彼は、あいつは刀にあなたの名前を付けていた憎い奴!それを、なんで私のリリーが助けるの!?」
 
 
立ち上がった母様は睨み付けるように私を見た後、ルカたちへ視線を向ける。ルカたちはその視線を向けて微かに肩を強張らせたが、それ以上は何も反応しなかった。母様は怒りに震え、髪を振り乱す。
 
 
「私は死んでる。この肉体も彼の物。だからあるべきものはあるべき所へ返さなければ」
 
 
「別にいいじゃない!!今はその体がリリーのだわ!返さなくていいのよ!」
 
 
母様は怒りに任せてそう叫ぶと私に近づき、肩を強く掴んできた。ギリギリと力が込められて痛いけれど、無表情のまま母様を見つめる。
 
 
「いい加減にしやがれ!!あんたは自分のために他人の人生を壊しても構わないって言うのかよっ!!」
 
 
力強く机を叩いて立ち上がったのはスパーダだった。そのグレーの瞳は怒りに震えると同時に悲しみに染まっていた。ラスティの存在を否定され、自分勝手な母様に対する悲しみ。
 
 
「それがどうしたの?」
 
 
先程まで怒りに身を任せていた母様は急に人が変わったかのように冷たい目つきでスパーダを見る。その瞳の奥には暗い闇が見えて、思わず目線を下げてしまう。
 
 
「あなたに何がわかると言うの?娘を失い、その娘が名前を奪われ、戦争に利用されようとしているのに、何も出来なかった歯痒さ。あなたはわかると言うの?どれだけ苦しかったか…」


「じゃああんたにわかんのかよっ!」
 
 
悲しみ、怒り、それら全て含めた母様に対し、スパーダは噛み付くように叫ぶ。彼の、今までの彼を否定されないように。
 
 
「あいつの苦しみを、孤独を!俺たちのあいつに対する気持ちを、あんたはわかるって言うのかよっ!」
 
 
スパーダはそれだけ叫ぶと耐え切れなかったのか、家の外へと飛び出していった。ルカたちは私と母様を見た後に、スパーダを追いかけるために家を出て行った。この場は私に任せた。そう意味合いを含んだ視線を向けてから。
残された母様はスパーダの言葉に打たれたのか、がくりと床に膝を突いていた。そんな母様を見下ろしながら私は顔を歪める。
 
 
「母様、どうしてそんな事を言うの…」
 
 
母様の可哀想なくらい震えている肩にそっと手を置いてそう言うと、母様は肩を揺らして拳を握った。そんな母様の傍にしゃがんで顔を見る。その顔はくしゃくしゃで、美しかった顔はそこにはなかった。
 
 
「昔の母様はそんな事言わなかった…。人を犠牲にしてまでそんな事を望む人ではなかったのに…」
 
 
耐え切れなくなったのか、母様は私に抱きつくようにして嗚咽を漏らしていた。私はそんな母様を受け止めながら胸が痛むのを我慢出来なかった。
 
 
「リリー…リリー…。私たちの子…。どこにも行かないで…」
 
 
弱々しく縋るように吐き出された言葉。けれど私はその言葉に応える事は出来ない。だって私はもうこの世界には存在していない人物だから。だから、母様がどんなに縋ってきたとしても私はこの人を突き放さないといけない。分かっていた事。けれど胸が痛くて仕方なかった。
天上がなければ、ラティオがなければ、アスラが天地を統一出来ていたら…………。
もう、終わったことなのに、今更のことなのに、全ての出来事がなくなればいいと願った。そうすれば…彼も不幸になりはしなかったのに…。
 
 
 
 
 
ずっと我慢してきたものが頬を伝って流れ落ちた。
 
 
 
 
 



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -