急くべき事態
しっかりと意識が定まらず、ぐらぐらと揺れるような感覚に苛立ちを覚える。もしも彼だったらふざけんじゃねー!と叫んでいるだろう。けれど今ここに彼はいない。まさかこんな事になってしまうとは私すら予想が出来なかった。
未だに重たい瞼を無理矢理こじ開けて周りを見ると、薄暗い部屋の中だった。ご丁寧に逃げられないように首には首輪、足や手にも鎖付きの手錠がしてあった。ジャラジャラと煩わしいし、金属の音が耳に不快だった。
武器は、鎖が届かない位置に放置されていた。おそらく少女の力では鎖を切る事が出来ないと思って捨て置かれているのだろう。彼がこの光景を見たら怒るだろうな。彼は武器を大切にしていたから…。一度重たい溜息を吐いてからゆっくりと詠唱を始める。彼はいつもリリーを手にしながら天術を詠唱していた。だから奴らはリリーから離せば術を発動できないと思っているみたいだ…。でも私は違う。この姿である以上、私にはそれが必要ない。
「エアスラスト!」
強力な風の刃は金属で出来た鎖ですら切り刻み、無残な残骸を生み出してくれた。これで体は自由になった。捨て置かれているリリーに近づき、それを背負った。
ここから出た後はどうやって追いつこうか…。きっとスパーダたちは今頃リカルドによって船に乗せられてマムートに向かっているはずだ。ここの連中が私に船を貸してくれるとも思えない。
そんな事を考えながら部屋の唯一の出口である扉を開くと、目の前にはグリゴリ数人と、私をここに引きずり出してくれた張本人のタナトスがいた。
「アレスっ!?くそ、捕まえろ!私は転生者たちを追う」
タナトスは私の姿を捉えると、一瞬驚いた後にすぐに悔しそうな顔をした。爪が甘かったみたいだ。彼はその場にグリゴリを残すと、そのまま空中へと飛び立っていってしまった。なるほど、神の力か…。
「アレス様!大人しくしてもらいますぞ!」
その場にいたグリゴリたちがそれぞれ武器を持って襲い掛かってきた。その一人ひとりを相手している時間は、無い。
「サイクロン!」
全てを吹き飛ばし、無に帰す風。その風は建物も、グリゴリも全てを吹き飛ばし、私のための道を開いてくれる。邪魔する者がいなくなったと思って踏み出そうとした瞬間、横の方から槍がやってきた。それを最小限の動きでかわすと、リリーを引き抜いてその槍を真っ二つに叩き斬ってやった。わらわらとやってくるグリゴリたちは全く引く気は無いらしい。そっとリリーを構えて目を細める。
「第二神…霧神!」
見えない衝撃波がグリゴリたちを切り刻み、その体に傷を作っていく。霧神は不可視の衝撃波。その攻撃を決して見切ることは出来ない。
「手加減しておいた…」
リリーを振るってからそう言うと、再び歩き出す。一刻も早く彼らと合流しなければならないんだから。邪魔をするグリゴリどもを攻撃しながら桟橋の方まで進んでいくと、数人のグリゴリが私の姿を見て構えた。
「いくらアレスだろうと転生者に変わりない!天術を封じろ!」
キィンと耳鳴りのような不快な音が響くけれど、私にその術は効かない。私はタナトスの呪いを受けているから…。この体は確かに転生者だけれど、私は違うから。
無駄な行為を繰り返しているグリゴリたちを尻目に、私はゆっくりとリリーを構えて息を吐き出す。
「行きます…氷楼!」
全てを凍らす恐ろしい氷。それらはグリゴリたちの持つ武器と手を凍らし、動きを封じる。これで奴らは武器を振るう事が出来なくなった。疲れて吐き出した息は白くなり、かなりこの場の気温が下がった事を教えてくれた。
「急がなきゃ…」
彼を取り戻すためには、この状況を何とかしなければならない。そのためには彼らの協力が必要となってくるのだから。
未だに白くなる息を吐きながら、蒼空へと飛び上がっていった。
しばらく進んで行くと、青い海の真ん中に船が見えた。激しい金属音と爆音が聞える所から、どうやら戦闘中らしい。その船に近づいて、出来るだけバレないように彼らから見えない位置で着地する。その瞬間、ガシャンという音が聞こえて、膝を突く音とタナトスの呻き声が聞えた。
「…勝負あったな」
そっと様子を覗くと、リカルドが膝を突いているタナトスを見下ろしていた。勝負はタナトスの負け。神の力を持ってしても、彼らのチームワークには勝てなかったというわけだ。
「いいだろう、殺せ。死んで地上人に生まれ変わるなら…それもいい」
潔く負けを認め、自らの命を容易く差し出すタナトス。そんな彼を見ながらリカルドがその銃を向ける。けれどそれを止めたのはスパーダだった。スパーダは鋭い目をタナトスに向けながら口を開いた。
「ラスティはどこにいる…?」
静かに、けれど確かにその声は怒りで震えていた。きっとそれはタナトスのせいだけじゃない。リカルドが彼の事を置いていってしまったからもあると思う。そんなスパーダの様子に、タナトスは鼻で笑った。
「あやつか…。あやつはグリゴリどもに捕まってるだろうよ」
吐き出すように言われた言葉。それは彼の事を指しているのか、私の事を指しているのか…。しかし彼は一つだけ理解してなかった事がある。私と彼が繋がっていた事に…。
「テメェ…」
スパーダの手に力が篭り、その拳は今にも振り下ろされそうな程だった。そんな様子を見ながら、甲板へと足を踏み出す。タイミングを逃してはいけない。
「残念だったな、タナトス」
そっとその場へ姿を現すと、みんなの驚いた声が聞えた。その声に応えるようにわざとらしくウインクすれば、その視線は呆れるようなものへと変わる。いかにも彼らしい言葉を並べてやれば、誰も疑う事無く彼だと思ってくれる。
「アレス!?何故ここに!?」
「だからさぁ、俺はラスティだって言ってんだろ!アレスは女だったろうが!」
みんなに表情が見えないように背中を向けながらタナトスを見下ろす。その顔は先程までのへらへらした彼の顔ではなく、本来在るべき顔。無表情。その顔を見た瞬間、タナトスは何かに気付いたのか、ハッとした顔をした。
「あんたはさ、俺たちと手を組むってことを覚えた方がいいんじゃね?目的は同じだろうが」
無表情を崩し、にっこりとした笑みを浮かべて言うと、鼻で笑われた。その顔はまるでしょうがないとでも言いたげな感じだったが、そこに敵意は存在しなかった。
「言いおるわ。若輩者の分際で…」
タナトスがそう言って組む事を承諾した瞬間、どこからともなく機械音が聞こえてきた。この音、聞き覚えがある。いつだ?いつこの音を聞いた?そう思った時、大きな機体が船の横を飛んでいた。それはスパーダたちと初めて会った時に見たギガンテスに似ているものだった。その機体を見た瞬間、タナトスの顔が怒りに歪んだ。
「貴様!!何のまねだ!搭乗しておるのは、我が一族の者だな!」
体中が痛むにも関わらず立ち上がったタナトスの見る先には、確かにグリゴリが乗っていた。いや、閉じ込められているとでも表現しようか…。
「クハハ!ガードル!お前はもう時代遅れなんだよ!地上を守るいしずえ、だと?我らの力、金や権力のために使わなくて一体どうしようと言うのだ!」
金、権力。それらのために崇高なるタナトスの願いを踏みにじろうとするこいつの心。下品な笑い声、醜い考え。それら全てに吐き気がする。
「おのれ…、枢密院あたりにそそのかされたか?」
「これから我らの長はオズバルド様に取って代わる!我ら一族が表社会に出る時が到来したのだ」
「愚か者!そこへ直れ!」
タナトスがその手に槍を持ち、神の力を持って空中に飛んだ瞬間、その機械に積まれていたレーザーがタナトスの体を貫いた。タナトスの体は何の抵抗も出来ず、そのまま海へと落ちていった。
「兄者!」
「貴様もすぐ、後を追わせてやる!」
下劣な笑い。気持ち悪い。許せない。漸く、彼と地上のために力を合わせようとしていたのに…!
「お前みたいなクズで救いようのない愚か者の長なんて、ブタバルドで充分!だがな、お前は表社会に出ることは叶わんよ。俺が、お前を葬り去るからなっ!」
勢い良くリリーを抜き去り、その刀身を露わにする。曇りの無い美しい刀はまるで奴を叩き切れと叫ぶかのように輝いている。怒り。これは純粋なる怒り。その怒りがリリーをこれほどまで輝かせている。
「アイストーネード!」
機体を包み込むような凍える風。それは機体のプロペラ部分を凍らし、プロペラが動かなくなってしまったために飛べなくなった機体は船の上へと落ちてくる。落ちた機体はそれでも抵抗しようとレーザーの照準をこちらに向ける。
「逃げられると思うなよ?」
力強くリリーを握り締め、一気に走り出す。レーザーの照準は相変わらずこちらに向けられたまま。それでも構わず走る。それを気にする必要はない。この刀があの機体に触れれば奴らは一瞬にして終わるのだから。
「ラスティ!!」
悲鳴じみた叫びと共に、レーザーが発射された。けれどもう遅い!
「第七神、消神!」
そう叫んだ瞬間、リリーは光と闇をその刀身に宿した。レーザーを斬るようにリリーを振るうと、まるでブラックホールにでも呑まれた様にそのレーザーはリリーの光と闇に呑まれた。
「加護よ、愚かなる者に未曽有の苦しみを…!」
一閃。それだけでもう勝負は終わった。リリーでその機体を切りつけた瞬間、リリーが纏っていた光と闇がその機体の全てを呑み込み、初めからそこに何も無かったかのように消し去っていた。これこそ消神。全てのものを呑み込む力。
「照覧あれ」
一度リリーを振るってから、鞘に収めてリカルドを見る。その顔はとても苦しそうで、一心にタナトスが消えた海を見ていた。そんな彼からそっと離れて仲間たちの所へ近づいた。
「なぁ、ウチ、よーわからんかったけどさっきのおっさん、悪い人やったん?」
「いいえ、きっと良い人だったのよ、リカルドさんがあんなに悲しんでいるもの」
「あいつは俺たち以上に地上の事を愛してたんだよ…」
そう、彼はただ地上を愛しすぎてしまっただけ。悪い人ではない。思いが行き過ぎてしまっただけ。
そう考えながら不意にスパーダの方を向くとその灰色の目と視線があった。けれどその視線を見た瞬間、思わず息を呑んでしまった。その瞳は確かに彼の姿を映していたけれど、その感情は決していいものではなかった。そう、その感情は嫌悪。そして疑問だった。
「お前…」
声も明らかな拒絶を含んでいた。瞳も何もかも、スパーダは全身で拒絶の感情を示していた。もしかして、彼は…。
「誰だ?」
静かに発せられたそれは確かな響きを持ってこの場に広がった。波の音だけが、そっと耳に届いていた。