風が葉を揺らす音が心地よい。
わたしと小松田さんのあいだに通る風が、水色に見えた。
地面に落ちた手ぬぐいが、少しだけ移動していた。
「気づいて、たのか」
「……当てずっぽうでしたけれど」
「いつから、」
小松田さん、もとい、鉢屋くんが顔に手を添え、べりっと変装を解いた。
愛らしい小松田さんの顔の下に隠れていたのは、なんとも微妙な顔をした鉢屋くんの顔。
…まあ、不破くんの顔なんだけれど。
「…風が吹いたときです。小松田さんの匂いじゃなかったもので」
「…匂い?」
「小松田さんは優しい匂いがします。…けれど鉢屋さんは、優しくて、…優しくない匂いがするんです」
意味がわからない、というように顔が歪められた。
わたしも意味がわからない、と心の中で呟いた。
言葉には表せないのだ、ひとの匂いなど。
「…そっくりですね。すごい」
顔、声は当たり前だけれど、わたしに対する仕草や言葉、すべてがそのまま小松田さんだった。
あのとき、風が吹いてこなかったら確実に気づけなかっただろう。
「…あなたの顔が変装のものじゃないのはわかっていた」
「……」
「あのとき、顔の皮のめくれ目を探していたんだ。…見つからなかったけれど」
あのとき、とは、保健室で鉢屋くんがわたしの顔を触っていたときだろう。
……調べられていたとは。
「あなたは本当に苗字さんと真逆だ。笑うし泣くし、なにより、彼女は、」
「……」
「…人がどう思うかなんて、気にしない人だった」
きゅっとひそめられた眉。
惜しむように、または懐かしむように伏せられたまぶた。
その姿がきれいで、美しかった。
「…好き、いや、憧れですか。…尊敬していたんですね」
「…名前さんほど、忍に最適な人間はいないよ。学園長もそう仰っていた」
鉢屋くんのいう、『苗字さん』と『名前さん』は、わたしじゃなくて、でもわたしで、でもやっぱりわたしじゃなくて。
悲しくなる、求められているのはわたしじゃ…ないから。
「ごめんなさい。わたしがいたから、」
「…違う。そうじゃない」
伏せられていたまぶたがゆっくりと開き、わたしの目と視線が交差した。
鉢屋くんから目を合わせてきたのは初めてだろう。
「学園長、土井先生、…小松田さんにさんざん言われたんだ。あなただけを責めるなと。あなたはすべてを抱えこんでいるのだと。
初めて見たんだ。…学園長と土井先生のあんな姿を。初めて見た。小松田さんの、あんな顔を」
「…そう、ですか」
「だから、…だから、あなたが学園を出て行くのを私は許さない」
繋がっていた手がぱっと離された。
そういえば、ずっと握っていたんだっけ。
「……あの方々に恩返しもせず出て行くなんて、許さない。…許さない」
わたしは俯いた。
さきほど強く思った、その言葉。
誰かに言われれば決心がつく。
…よかった。
鉢屋くんが言ってくれて。
わたしには、勇気がないから。
「…ごめんなさい、ありがとう」
鉢屋くんに隠しても意味はない。
わたしは心からお礼の言葉と謝罪の言葉を告げ、笑顔を見せた。
鉢屋さんが小さく頷いて、空を見上げた。
そして、
「助けていただいた皆さんのため、わたしは学園で、一生、恩返しをしていきます!」
一瞬で消えた鉢屋くんに向け、わたしは叫んだのだった。
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