・鉢屋が潔癖症



暗闇のなかにあるひとつの光。真っ黒な景色にぽつんと浮かぶ白い点。鉢屋三郎にとって彼女はそういう存在だった。三郎は、除菌用具と彼女以外に触れることができなかった。触れようとも思わなかった。三郎は、潔癖症であった。
十分に一度は部屋の掃除、からだを洗う、服を着替える、ひどいときは絶対に部屋から出ようとしない。また、埃等に触りたくないがゆえ部屋の掃除を疎かにする、風呂に入れない、空気に晒された食べ物が、つまり食事ができない、コップに汲まれた水を飲めない。
三郎は自分でも呆れるほどの潔癖症だった。手を伸ばせばどこにでも除菌用具があり、三郎はそれに触れるたび、「世界は俺と名前だけでいい」と強く思うのだった。つまり、三郎と、彼女だけの世界、二人きり、埃も汚れも雑菌もなにもない、ただただ清潔な世界。三郎には、これ以上の幸せはなかった。
ぱかりと携帯を開き、手袋をした手で三郎はボタンを押し、携帯を耳に当てた。彼女に電話をかけたのだ。数回コールが鳴ったあと、『はい』と愛しい声が聞こえてきた。三郎は瞬時に頬を緩め、「名前」と呟くと、呪文のように彼女の名前を復唱した。電話の向こうの彼女は苦笑の声を零しながら『三郎、また何かあったの?』と訊ねる。三郎は一度口を閉ざしたあと、うん、と短く返事をした。


「放課後に、女に呼び出されたんだ。たしか同じクラスの奴だったけど、そいつが、う、で。俺の腕を掴んできやがった!しかも、なんかあいつ勘違いしてて、あたしを好きなんでしょ、って、!俺は、名前が好きなのに!あいつに掴まれた腕が汚くて、いや、あいつの手が汚くて汚くて汚くて汚くて。もうそれが嫌で嫌で嫌で!人が嫌がってんのにあいつは嬉しそうで、殺しそうになった。でもそんな俺を雷蔵が助けてくれたんだ。……けど、名前、おれ、」


うっすらと目を潤ませた三郎。携帯を持つ震えた手を片方の手で強く握った。すぐに手を離すと、近くにあったスプレーの除菌用具をひっ掴み、自分の周りへふっかけた。しゅっしゅっ、と噴き出される音を聞いた彼女が、『さっき不破くんからメールがきたよ。気にしないでって』
名前の言葉に三郎の手が止まった。実は三郎は、女から助け出してくれた雷蔵の手に除菌スプレーをかけてしまったのだ。それも、バケツをひっくり返したように。三郎は逃げ出した。雷蔵、ごめん、ありがとうと言いながら。
三郎は泣きたかった。あの女ならまだしも、双子同然の雷蔵にあのような態度をとってしまったから。けれど、泣けなかった。三郎にとって、涙も菌に入るのだ。今目に浮かぶ涙にさえ吐き気がする。

三郎は携帯をぎゅうと握りしめて、名前、と呟いた。『なあに、三郎?』と優しい彼女の声音に、三郎の心があったかくなる。三郎はか細い声で呟いた。


「名前、会いにきて、今すぐ会いにきて。そして俺を抱きしめて、キスして、俺を消毒して、このままじゃ、気持ち悪い。名前で俺を洗ってくれ。早く来いよ、ぜったい。からだの隅から隅まで名前で、名前で、…名前、おまえで」


そこでぶつりと電話を一方的に切り、三郎は再び除菌スプレーを部屋に振りかけた。すぐさま手袋を取ると、その手にもスプレーをかけた。除菌スプレーを傍に置くと、三郎は目を瞑った。


「名前、だいすきだ」




スプレー




三郎は、除菌用具と彼女以外に触れることができなかった。三郎が好んで触れようと、触れたいと思うのはいつも彼女だった。
触れたい。
抱きしめたい。
キスしたい。
そう思うのは、思えるのは、名前だけ。



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