部屋を出てなんとか中庭まで辿り着いたものの、ナマエの足取りはふらふらだった。

「お、おーい、大丈夫か?」

付いてくるギーヴはそんな彼女の腕を支えてやればいいのに、どうしてもそれが出来ないらしく、付きつ離れつで彼女との距離が平行していた。
ペシャワール城塞にはいくつも中庭があるが、今彼らがいるのは木々に覆われた小さな林のような庭だった。足元には丈の短い草も生えている。今夜は月が明るいから、何かにつまづくこともないだろう、とギーヴがぼんやり考えていると、さっそく彼の目の前でナマエは足がもつれさせて転がっていた。

「……いたた」
「いきなりかよ。まったく。起きられるか?」

溜息を付きながらギーヴがナマエに手を伸ばすと、彼女は緩慢な動作で少し起き上がってその手を取った。熱い。とギーヴが感じた瞬間、ナマエは起きる気をなくしたのか、彼の手を握ったまま、力が抜けたように倒れた。
その重みで、まったく無防備だったギーヴは体勢を崩し、ナマエの上に馬乗りになってしまった。
自分の髪が彼女の上気した頬に触れた。艶っぽい唇。潤んだ瞳。そう言ったものが目に入り、ギーヴは激しく動揺した。
こんな状況なんてこれまでいくらでもあったのに、動揺している自分にまた驚き、心が揺れる。

「なっ……いや、その、悪い!」

声を上ずらせてあわてて彼女の上から身を引いたが、当のナマエは何が起きたのか理解していないぼんやりとした表情のまま、身体を起こした。
どうやら平静を失っているのは自分の方だけらしい。悔しいが、こんな自分を彼女に見られないですんでよかった、と同時に思う。
女性との夜なんて飽きるほどあったし慣れきっているつもりなのに、どういうわけか、きっと、ナマエのせいで顔も赤くなっている。
なぜか突然ナマエに色気があると思ってしまったからなのかもしれないし、それ以前に彼女に好意を抱いていたからなのかもしれない。
いずれにせよ、自分は今この少女を苦しいほどに意識していた。恋心を抱く対象として。

「ごめんなさい、ギーヴ……私、今度は眠くなってきて……」
「……!?」

そう言って、ナマエは頭の重さに身を任せ、ギーヴの方に倒れ込んだ。
バランスを崩したギーヴは、彼女と一緒に草の上に仰向けになってしまった。普段ならこんなことにはならないが、この時は精神的にも身体的にも、いろいろなことがどうかしていた。

「……この状況は、いろいろマズイよなあ」

独り言が闇に落ちた。遠目に見れば、短い草の上に、若い男女が抱き合って寝転んでいるように見えるだろう。草の香りが鼻につく。静かな夜は、自分の鼓動がやけに聞こえてくる。
ギーヴの胸の上に乗って、ナマエは気持ちよさそうに眠っていた。
もともと彼女は酒に弱く、少しでも飲めばいつもこんな調子だったが、今までは例の軍師がいつも警護していたから、こうはならなかったのだが、今日はその保護者も眠りに落ちてしまっていた。

「しかし、さすがに警戒されなさすぎて泣けてくるね」

自嘲気味に鼻を鳴らして、ギーヴは少し笑う。自分の呼吸と一緒に、彼女の身体も上下する。あたたかくて柔らかくて、優しい匂いがした。こんなどこにでもいるただの少女が敵の刃を相手に戦っているなんて、俄には信じられなかった。
静かに手を伸ばし、髪を撫でる。ふわりとした手触りが指先を通り抜けていき、月の光は溢れるようにその上を伝った。

「ナマエ。もし俺じゃなかったら、もっと緊張したり、こんなことされたら顔赤くしたりしてたか?」

返事はないが、ギーヴはナマエに話しかけ続けた。聞こえていなくていいけれど、彼女に聞かせたくて、声に出す。

「なあナマエ。おぬしの一番は俺ではないのだろう?」

頭上にちりばめられた無数の星が瞬く。その明かりで彼女の唇は白く輝いていた。伏せられた睫毛が風に小さく震える。繊細で、触れた瞬間に壊れてしまいそうだと思いながらも、ギーヴは彼女の背に手をまわして少しだけ力を込める。

「……ナマエが、俺のものだったらいいのに」

聞く者のいない言葉は、夜に吸い込まれるようにして消えていった。闇がさらに深くなったような気がする。誰にもみつからないこの場所で、気になっている女の子とふたり、肌を寄せあっていて。そして彼女は浅い呼吸をして、その吐息が彼の頬にもかかる。彼らを見ているのは星と月だけだ。
ギーヴは少し身を捩って、ナマエをさらに深く抱いた。
髪を撫でたり、頬を撫でたりとまるで恋人のように触れてみた。しかしそうしているうちに、彼女の答えを聞いたわけでもないのに、奇妙なほど心が満ち足りてくる。

「ん……まあいっか。今は、俺だけのものだし」

手に入れたいと思っているけれど、彼には越えられない線があり、そのギリギリでたゆたうことが精一杯で、そして不思議と、こんな自分に満足し、これだけでも幸せだと思ってしまっていた。



***



「ギーヴ。昨日はどこへ行っていた?解散したときに、姿が見えなかったが」

翌日、例のパルスの軍師に会うと挨拶もせぬうちにそう訊かれ、彼は思わず面食らった。
しかしいずれ何か言われるだろうと覚悟はしていたので、用意していた言葉を即座に返す。

「ああ。散歩にでかけたら酔っていたのでそのまま草の上で寝てしまいました」
「それで?」
「それでって……」
「ナマエとは一緒だったのか?」

ギーヴは頭を掻くふりをしてうつむいた。そうして口元が歪むのを隠したのだ。
まったくこの人は執着のないように見えて、嫉妬深いのだから、と、なかば呆れ、関心して。

「……ええ、まあ。ナルサス卿だけが独占するのはもったいないと思いまして、少しお借りしてました」

顔を上げたギーヴは不敵な笑みを浮かべ、相手を見据えていた。今度はナルサスがやや驚く番だった。

「んで、できればもう少し一緒にいさせてほしいんですけど」
「……おかしな趣味だな、おぬしも」

おぬしも、とは自分も含めて言っているのだろうか。ナルサスは表情こそ笑ってはいたが、それは爽やかさとはかけ離れていた。

「はあ、俺もいるからと油断して酒を許したのがよくなかったな」

視線をはずしながら言うナルサスを、ギーヴはじっと見つめていた。
この人は、言葉の節々に「ナマエは自分のもの」という雰囲気をいつも滲ませているが、それも戦略のうちなのだろうか。
狙ってやっているとしたら、ギーヴもそれを刷り込まれているおかげで昨夜ナマエに手を出せなかったのだから、本当の策士だと思う。

「ナルサス卿。嫉妬したり束縛はしたりするくせにはっきり自分のものだとは主張しないのですか」
「……いや、してるつもりだが」
「ならさっさと首輪をつければいいでしょう。いつまでも放っておくと他の者に攫われてしまいますよ」

自分も、いつまでも負け犬でいるつもりはない。ギーヴがさらりと言ってのけると、ナルサスは珍しく驚いて目を丸くしていた。

「ふ、悪かったな。覚えておくよ」

それでも、彼の横顔は涼しい。宣戦布告なんてせずにこっそり彼女を奪っていくべきだ、とでも言いたげな表情だった。

とはいえ昨夜に続き、この瞬間もギーヴを満足させていた。
自分は何かに本気になったり負ける戦いをわざわざ仕掛けるなんて苦労はしない側の人間であったのだが、たまにはこういうのも経験してみると愉しめそうだ、と。

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