1か月以上前からそれぞれのこころに舞い落ちては儚く揺れていた行方の知れぬ期待感たちは、今日である種の死を迎えたのかもしれない。
終わりでもって変容したそれは、春の訪れと同じように花を咲かせたものもあれば、冬の木枯らしでもぎ取られる葉のように音もなく散ったものもある。
年中行事の中でも異様な盛り上がりを見せる2月、3月の男女の駆け引きの最終戦が、今年もやってきた。


男の子たちは一様に照れて頬を少し染めながら、バレンタインデーにプレゼントをくれた女の子にお返しを渡していた。
教室の隅、廊下で、無数にやりとりがあったが、わたしの目からは、それが「義理への義理のお返し」なのか、「本命への義理のお返し」なのか、「義理への本命のお返し」なのか、「本命への本命のお返し」なのか、皆目見当もつかなかった。
興味がないと言う方が正しいのかもしれない。
わたしは一人の男の子へしかプレゼントを渡していないし、彼が返してくれるものもまたこころからのプレゼントだということを、確信しているからだ。

ところがこの日、わたしの彼氏さまは休み時間の度にすぐに教室を出ていき、授業が始まるぎりぎりにやっと戻ってきて、を朝から繰り返していた。
人当りがよく、なんでもそつなくこなし、気配りもできる人気者の彼がバレンタインデーにたくさんの女の子からチョコレートをもらったことは、わたしもよく知っている。
鞄をはち切れんばかりに膨らませ、まんざらでもない様子でいた彼だったけれど、わたしからのプレゼントがいちばんだと本当に嬉しそうにはにかんだあの笑顔。今もとてもよく覚えている。



「だから大丈夫だ」と朝からずっと自分に言い聞かせ、なるべく目を背けていたのに、不運にもわたしはその場面に遭遇した。

別の教室へ移動しているとき忘れ物に気が付いて、もと来た廊下を戻って行ったときだった。
階段の踊り場で、やわらかな磨りガラスの光を受けた男女が二人、向かい合っているのが見えて、わたしは反射的に壁にはりついて身を隠した。

「バレンタインデーはどーも。あれ、美味しかったよ」
「ありがとう。お礼なんていいのに」
「いやあホントにこんなので申し訳ないんだけど」

恐る恐る角から顔を出すと、階段の上で、女の子は「ううん、嬉しい。ありがとう高尾くん!」とこちらまで照れてしまうような笑顔を浮かべ、彼からお菓子を受け取っていた。
学校の売店でも買えるような、どこにでも売っているお菓子だったけれど、あの子にはそれ以上の意味を持つんだろうなとわたしは思った。

胸の中がもやもやする。
あたりまえだ。あれが「義理」だとわたしにはわかるけれど、こんなところ、見ていて気持ちのいいものじゃない。
さっさとここを通り過ぎて自分の教室から忘れ物を回収して移動しないと、高尾くんみたいに早く走れないわたしは授業にも間に合うかどうかぎりぎりだ。そう思って嫌な汗をかいているときだった。

「わたしね、高尾くんのことが好き」と言う女の子の声が頭の上から降ってきて、わたしは硬直した。
これ以上ここにいてはいけない、と天からお告げがあったような気がした。わたしは猛スピードで階段に接した廊下を走り抜け、自分の教室へ駆け込んだ。







あのときの女の子は「誰かが廊下を走っていった」くらいにしか思っていないだろう。
でも鷹の眼を誤魔化せたかどうかわからない。こんなとき、あれは本当にやっかいだと思う。
案の定、その後授業中に高尾くんからメールがきた。

「今日練習の後一緒に帰ろー!待ってて!」

別に、いつも待ってるでしょうが、と思ってわたしはため息をついた。
先の現場を目撃したわたしが怒って先に帰ると思ったんだろう。ということは、彼にもどこか後ろめたい気持ちがあったのかもしれない。全然そうは思いたくないけれど。あのとき高尾くんの顔を見なくて本当によかった。






「いやーナマエちゃん、遅くなってゴメン。練習伸びちゃってさ。寒いのに、待っててくれてありがと」

高尾くんはいつも通りの軽い調子で、体育館近くに座り込んでいたわたしのところに駆け足でやってきた。吐く息が白く、寒さで鼻を少し赤くする高尾くんはまるで子供みたいで、そんな彼を見ていると、自分が随分と小さく思えた。

「うん、じゃあ帰ろ」

マフラーに顔をうずめながら、すたすたと歩きだしたわたしにすぐに追いついて、高尾くんは横から覗き込むようにして背を屈める。

「……やっぱ怒ってる?」
「……怒ってるんじゃないけど」
「じゃあなに?」

甘えるような小さい子をあやす様な絶妙な声色にわたしが弱いのを、彼は知っているから、本当にやっかいだ。
スピードは緩めずに歩きながら、マフラーにさらに顔を隠した。

「……嫉妬」
「……えっ、ほんと?」
「なんでちょっと嬉しそうにしてんの、バカ」

ほんの少し明るい声を出した彼の肩を、ばしっと叩く。
こういう調子のいいところが、ずるいなあと毎度思う。
でもただのお調子者ではないというのは、彼と付き合うことになる前から気付いていた。よく見えるその眼で、人の感情の機微すら察して、さりげなく気を遣う。こういう彼に絆されて、何かあっても許してしまって、結局のところいつも丸く収まっている。

「今日、女の子にお返し渡してたの見てたっしょ」
「……うん」
「一応言っとくけど、丁重にお断りしたからね?」
「……うん」
「まあナマエちゃんというかわいい彼女がいながらお返しっていうのも、どうかとは思ったけど、もらったもんは返さないと、と思ってさ」

高尾くんは高尾くんなりに女の子たちに気を遣ってきちんとお返しをして、わたしにも気を遣って「義理」だとわかるようようなお返しを選んで、わたしの見えないところで女の子たちに配っていた。

「そうだよね。高尾くんは別に悪くないよ」

そこまでやっていたのに出くわしてしまったのは、本当に運が悪いとしか言いようがない。
高尾くんの友達のバスケ部の眼鏡の彼を見習って、わたしもラッキーアイテムとか持ち歩いた方がいいのかしら。
とにかく、間が悪かったのはわたしのせいで、わたしが勝手に感情を昂らせているだけで。

「高尾くんは何も悪くないのに、嫉妬してる自分が嫌なの」

足を止めて、低く噛み殺すように呟いた。
こんな自分が、高尾くんの前では本当に小さく、惨めに思えた。わがままを好きなだけ言って、解決策は高尾くんに丸投げ。
それなのに、嫌な顔を一つもせず、わたしに目線を合わせてくれるいつもの高尾くんがそこにいるから、もっともっと、甘えてしまいたくなるのだ。

「嫉妬させちゃったのはゴメン。俺ももっとナマエちゃんに気を遣うべきだったな」
「だから、高尾くんはじゅーぶん……」
「あーわかったわかった。そもそも、バレンタインに俺がみんなから貰わなきゃこうはならなかったんだよな」

一人でふんふんと納得し始めた高尾くんを見て、わたしは顔を上げ、髪を揺らした。

「違う。プレゼントは貰っていいんだって。受け取ってもらえなかったら、わたしだったら絶対泣くよ」
「でもチョコ渡せても渡せなくても、俺の彼女にはなれないじゃん?」

「ねえ?」と顔を傾けて微笑まれ、わたしは胸のあたりがぎゅっと詰まった。すぐさま眼を逸らす。ああ、またいつもの高尾くんのペースだ、と思った。

「でも、渡したいの。そういうものなの」
「じゃあバレンタインのときの俺は間違ってなかったってコトね」

1か月前も、今日も高尾くんは正しい。そんなのは一番近くでずっと見ているわたしが誰よりもわかっている。

「ね。手繋いでいい?」

高尾くんは機嫌をとるような甘い声で言って、返事を聞くよりもはやくわたしの右手を掠め取ろうとしていたが、気配を察知してサッとかわす。

「嫌」
「えー。まだ許してくれないの?」

素直になれないわたしは頬を膨らませた。高尾くんも、わたしがとうに彼を許しているのはわかっているだろう。それでもわたしのぶすくれた態度に付き合ってくれる。余裕すら見せて彼は少し吊った猫のような眼を細めて。

「じゃあわかった。今週一週間女の子と喋らない」

ぽん、と手を叩いて言った彼に、わたしは眉を顰めた。

「別にそんなことして欲しいわけじゃ……」
「喋らないし、気にもしない。ナマエちゃんだけ見てるよ」

それは、確かに嬉しい。いつもみんなと一緒にいる高尾くんが、わたしだけに、と思うと動揺して頬が熱くなった。今日はまさに高尾くんが他の女の子を見ているのに思い切り嫉妬してしまったんだから。
でも、それは高尾くんじゃない。違うんだ、とわたしはゆるゆると首を振った。

「……それは、困る」
「どうして?」
「高尾くんは、いつもみんなのこと見てて、気配りができて明るくて優しくって……そういうところが、わたしは好きだから……だからわたしだけに、じゃだめなの」
「でもそうするとナマエちゃんが嫉妬しちゃうじゃん」
「でも、わたしは、高尾くんのそういうとこが好きなんだってば!」

矛盾だらけで、自分でももうなにがなんだかわからなかった。でもとにかく好き。高尾くんが、みんなに優しい高尾くんが、大好きで、ほんとうに自慢の彼氏なんだ。
そう思ったらムキになって、大きな声で叫んでいた。
はっとして口を抑えるもすでに遅し。高尾くんはしばらく眼を丸くしていたけれど、やがて「ぶっ」と噴きだすと、おかしそうに笑い始めた。

「ふはっ、ナマエちゃん、そんなに俺のこと好きなんだ」

げらげらと笑って涙さえ浮かべる高尾くんの前で、わたしは両手を握りしめて、恥ずかしさで下を向いてふるふると震えていた。
ようやく笑いのおさまった高尾くんは、黙って地面と睨めっこをしていたわたしの頭をぽんぽんと叩き、「かーわいい」と漏らす。上げられないままの顔が熱くなった。

「まあ、俺も実際ナマエちゃんしか見てないけどね」

高尾くんはわたしの髪を指に絡ませたり、さらりと流したり、もてあそびながら言った。髪の一本一本にも神経が通っているように、彼の感触がくすぐったく、気持ちよかった。

「来年は、嫉妬させないようにするから」
「どうやって?」
「んーそれは1年かけて考えるわ」
「期待しないでおくね」

高尾くんはまた少し笑った。穏やかな声色に、絆され、癒されて、許してしまう。
小さなわたしのわがままも、嫉妬も、彼の前では全部お見通しだった。それゆえの包容力の大きさにいつも惚れ直している気がして本当に悔しいけれど、やっぱり大好きなんだと思う。




高尾くんはわたしの家の前まで送ってきてくれた。
この、一日の終わりに別れる瞬間は、本当にいつも苦しい。もっと高尾くんと一緒にいて、いろいろな顔を見せて欲しいと願うのが、わたしだけでないといいのになと思う。

「機嫌、なおった?許してくれた?」
「……まあまあ」
「あーなんかすっきりしないな」

歯切れの悪いわたしの返事に、高尾くんは髪を掻き上げ、そして「イイコトを思いついた」というふうに眼を細めた。

「じゃ、仲直りのキスしよ」
「えっ」

恥ずかしげもなくそう言うと、彼は少しだけ屈んで、「はい」と笑うと眼を閉じて静止した。
その無防備な表情にわたしの胸が高鳴る。ほんとうに、こんな顔を見せるのはわたしの前だけにして欲しい。
とはいえ、自分からキスなんて(仮にも自宅の前で)出来そうにない。わたしは高尾くんの肩を叩いて、眼を開けさせる。

「……ちょっと、なんで高尾くんが待ってるの」
「えー、だって俺はナマエちゃんに怒ってないし、ナマエちゃんが同意してキスしてくれないと意味ないだろ」

眉を寄せて物足りなそうに唇をとがらせる彼に、わたしはため息をついた。その息があまりにも熱いので、こんなにどきどきしているのかと自分でも驚いた。

「……背高くてできないよ」
「お、する気あり?」

嬉しそうに笑う高尾くんに、今日もわたしの負けみたいだ。

「あー、はい、ありあり。だからいつもみたいに、してください」

少し上を向いて、高尾くんの顔をじっくりと眺めた後で、わたしは眼を閉じた。
暗闇は怖い。
次に眼を開けたときには、高尾くんはいなくなっているかもしれないし、もし唇に何かが触れたとしても、それが本当に高尾くんのものなのか、わたしにはわからない。
でもわたしの高尾くんは、必ずこたえてくれるだろう。

「……仰せのままに」

声が聞こえたと思ったら、すぐにキスをされた。
唇を押し付けるだけの子供みたいなキスだったけれど、これ以上ないくらいに心臓の鼓動がはやくなり、幸せだとこころから感じた。
眼を開けたとき、高尾くんがすぐそこにいて、ふわりと微笑んでくれた。

「ナマエちゃん、大好き」

わたしは息ができなくなる。世界一大好きな人がわたしだけを見てわたしだけに言ってくれているのだ。
嗚呼、もう。どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。

「じゃあ、また明日!」

惚けているわたしにぶんぶんと手を振り、高尾くんは来た道を戻っていく。
ぼんやりと幸せの感触を噛みしめて手を振り返そうとしたわたしだったけれど、突然、現実に引き戻されたような感覚に襲われ、眉を寄せた。
ちょっと待て高尾。何か忘れていないだろうか。

「ちょ、ちょっと、高尾くん!今日わたしに何も……」
「帰ったら鞄の中見てみなー」
「え?……え?」






部屋に戻ったわたしは、鞄を開けて驚いた。まったく、いつの間に仕込んだのだろう。
本当にこういうときの彼はやっかいだなと思う。
女子高生のいつもの鞄からころんと零れ落ちたのは、雪のように真っ白で上質な小さな箱だった。
淡い青で染められたリボンがかかっていて、これはわたしだけにほどかれるのを待っている。
あの女の子に渡していたものとは、申し訳ないくらいに全然違った。

高尾くんが、高校生の制服を着た自分がこんなところにいていいのだろうかと珍しくどきまぎしながらこれを買っている姿を想像して、なんだか嬉しくて、ため息が出た。
大切なものを壊さないように、ゆっくりとリボンをほどいて箱を開ける。
中からはパステルカラーの色とりどりのマカロン。それと。
春みたいだ、とわたしは思った。


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