芽吹いたばかりの草に包まれるようにして、彼女は優雅なまどろみに浸かって夢を見ていた。
青々とした匂いを含んだ風が、髪をわずかに浮かせて駆け抜ける。そして小さな寝息。木の葉の間から落ちた陽光はぷっくりとした頬や上下する肩をまばらに照らしていた。

「よく寝てるなあナマエ」

仕事の時間になっても現れないから宮殿からわざわざ探しに来てみれば、こんなところで昼寝とは。大急ぎで連れ帰るつもりだったのに、彼女の安らかな寝顔が目に入ると、説教する気は春の夢みたいにすっと消えてしまった。
足音を立てずに隣に行くと、閉じられたまぶたから伸びる睫毛が風に震えているのもしっかり確認出来た。睫毛長いんだなあ、とぼんやり思いながら、草の上に座る。芝に指を入れると、生きているように揺れた。自分の金色の短い髪も草と同じく風に遊ぶ。
彼女はいつもとなんら変わりない服装ではあるのだが、薄い布だけを纏って眠る女の子というものはあまりにも無防備に見えてしまうものだなと、薄目に映しながら思う。
それにどういうわけか、いつもよりもずっと肌が柔らかそうだった。ほとんど触ったことがない女性の白い肌が、目の前で晒されている――そう考えたら思わず手が伸びたのは、恐らく自然な行動だったはずだ。とはいえ一般的な男性と比べ、自分の動きは随分と鈍くおっかなびっくりとしていて奇妙なものだった。まるで怯えながらも切望するような。そう、まさに自分にとって女性は恐怖の対象なのだが、触れたくて仕方がないのだ。嗚呼女性とはなんと崇高なものだろう。

恐怖心を紛らわせようとあれこれ細かいことを考えているうちに、ついに人差し指が彼女の手の平に到達した。つん、と押すと柔らかな感触が返ってきた。思わずにやにやとしたいやな笑みが浮かんでしまったが、指先は情けないことにぶるぶると震えていた。でも、あともう一歩だ。今度は手の平を重ねてみよう、と逸る気持ちを抑えながらさらに手を伸ばした――

「ガーイ、なにしているんですかっ」
「わ!……なんだジェイドか。驚かすなよ」

突如としてナマエの向こう側から沸いた男は、栗色の髪を揺らしたクールな佇まいに似合わず元気よく楽しそうに言った。あわてて手を引っ込めたが、確実に見られただろう。そう思うとひどい罪悪感のようなものが胸に寄せた。自分は眠りこけている無防備な女性に触っていたのだから。

「別に驚かそうとしたわけではないのですが、ナマエに手を出そうとしているのが少し気になりまして」
「別に手を出そうとしたわけじゃ」

言い訳にならない言い訳しか浮かんで来なかったので、ついつい頭を掻いた。

「女性恐怖症克服の練習に」
「ナマエは練習台ですか」

そうじゃないけどそう言われると思っていたので想定通りの苦笑いを返すと、彼は自分よりもいくらか大人びた表情をして「しかし損なスキルですね」と唇から漏らした。彼の眼鏡を押し上げる仕草はどういうわけかなかなかに色っぽくて、少し羨ましいのだ。ナマエもそう思っていたとしたら、少し残念だと思うくらいには。

「では帝国流のお手本を見せてさしあげましょう」

一瞬眼鏡を銀に光らせると、頼んでもいないのに彼は木の幹に身体を預けて寝ていたナマエを腕に抱いた。
あまりの唐突さに目を見開いたまま突っ立っていると、彼は慣れた手つきでナマエの腰に手をまわし、お互いの5本の指を絡ませると、挙げ句の果てには花みたいな色に輝いていた彼女の頬に自分の真っ白なそれをあてて頬擦りしはじめた。
頭の中のどこかの線みたいなものが今にも切れてしまいそうに張り詰めたが、結局切れなかった。拳を握り締めたが諦めた。別に彼じゃなくても誰だってやってのけることだ。出来ないのは自分だけで。自分ではナマエにこうしてあげられない。そんな思いが頭の中の線をこれでもかというほどに駆け巡ったから、自分の惨めさをこの瞬間に少なくとも1年分くらいは感じた気がした。

「いいですか、女性というのはこうやって触るものなのですよ」
「ジェイド……あんたな……」
「おや。怒らないでくださいね。思春期男子を正しい方へ導こうとしているんですから」
「ジェイド……ほんとにやめろよ。正直羨ましすぎて気が狂いそうなんだ」
「気が狂えばあるいはリミッターがはずれて触れるようになるんじゃないですか」
「そんなふうにナマエに触れたくない」

華奢な彼女を腕の中にこれみよがしに閉じ込めるこのおっさんが一体俺にどうして欲しいのかわけがわからなくなったが、ナマエに対する信念だけはぶれなかった。これだけは誉めてやりたいと今にも噴火しそうな頭で冷静に思った。とはいえ彼女に触ろうとすれば指先はいやでもぶれまくるのだから、そんな精神論はまったく役に立ちそうにないし、頭の中や夢の中だけなら好きなだけ触っているのは紛れも無い事実なのだが。

そうこうしているうちになぜか彼と彼女の睫毛が今にもぶつかりそうになっていた。それだけは駄目だ!と思うよりもはやく筋肉が勝手に動いて、どうにかして彼を引っぺがそうと乱暴に腕を伸ばした。

「ってジェイド!いい加減に……!」

その時だ。
彼女が永い永い眠りから目覚め、水面からわずかに顔を出したのは。

「……ん……」と紅く熟した唇から漏れた声を、二人の男は息を殺して聞いた。吐息は薔薇の悪戯な囁きのように鼓膜をほんの少し震わせただけだったが、これ以上に甘美な音楽はないように思われて脳が痺れた。

「ん……ガイ……」
「!」

それにやがて紡がれた二言目に完全に呼吸を忘れることになるとは砂粒ほども期待していなかったのに。

「いやあ不愉快ですね」

次の音が耳に届いたのは、彼女のあの声からどれくらい経ってからだろうか。1秒かもしれないし、1年かもしれないし、一生を過ごしたのちに転生してまた巡り会えて今に至ったのかもしれない。とにかく機械的な時間では到底計ることが出来なかったのだ。
そんな恍惚とした時間に終わりを告げる彼の低い声がもやがかった頭に聞こえ、寝ぼけたように反射的に「え?」と返すと、そのあとにすぐ頭蓋骨がどこかにぶつかる特有の音が聞こえた。

「さ、あとはご自由にどうぞ」

いつの間にか彼は立ち上がっていて、すたすたと行ってしまった。残されたのは、太い木の根のところで頭を抱えて悶絶しているナマエと、草と、風と。ああジェイドに落とされたんだなと理解したと同時に、状況がすっと頭に入った。

「あっ、えっと……ナマエ……お、おはよう」

目覚めたばかりの無防備な彼女と、眠りながら自分の名前を口にした彼女が、現実の世界で一つになって自分の前に現れた気がした。なんとなく気恥ずかしい思いがして、わたわたと髪を撫で付けながら声をかけたが、凍結から解放されたばかりの彼女はまだ耳が上手く聞こえず、視界もぼんやりとしているらしい。ごしごしと目を擦ってから、まるで曇りガラス越しであるかのように、こちらを不思議そうに見つめた。

「あれっ……ガイ……?ん……あれ?なんでここ……」

彼女は生まれたての子のような純粋さを含んだ目をきょろきょろとさせる。現実と夢の世界とを行ったり来たりするようなロマンチックな声は、千年の眠りから覚めて久しぶりに声を出したせいだろうか、少し掠れていた。突然、思いがけない愛情で胸がいっぱいになった。愛しいのだ。現実はちっとも甘くないというのに。

「もしかして、夢に見てた人が今も目の前にいたりするのかな」

しっかりと視線を合わせ、首を傾げて見せる。すると彼女も鏡のように、わけもわからず自分と同じ方向に首を傾げた。
二人の間にある壁を、夢と現実の間にある壁を、どうか取り除いてくれたまえ。願いを聞いてくれそうな星はまだ空には輝いていなかったし、誓うことが出来そうな綺麗な石も見当たらなかった。それに震える指はまだ伸ばせそうになかったけれど、ぼんやりと見つめ合った時間はまた永遠にも一瞬にも思えた。

「いつかこっちの世界でもちゃんと君を愛してみせるから、もう少し待っててくれるかい?」
「???」

頭にはてなマークをたくさん浮かべながらも、彼女は寝ぼけて頷いていた。

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