門の外から校庭を覗くと、いまだに泣きながら写真を撮っている卒業生たちが見えた。
その涙の一粒一粒には、単なる水分ということだけでは説明のできない煌めきがあった。卒業。ずっとこのままでいられると思っていた日は確かにあったのに。
柔らかい日差しを浴びて、生徒たちも校舎も輪郭がぼんやりとしていた。でも、空気は春になりきれず冷たく、どこか優しさがない。
彼らには見えない時の流れがそこに横たわっているのを、僕は感じる。校庭を出るまでは、どうにか卒業生のままでいられる。時間は止められていた。
桜の花びらが、目の前をゆっくりと降下していった。10秒ほど、僕はそれをみつめていた。表と裏が交互に光を受けて、薄く小さな欠片がきらきら輝く。
僕は、人の気配を感じて振り返った。今度は、もっと鮮やかな花が僕の目に飛び込んでくる。

「やっと来た」
「あれ、春市くん?もしかして私を待ってたの?」

彼女の胸に付いている花は、桜よりも濃い色をしていた。僕がそれをもらうのは、あと2年も先のことだ。




「帰るなら送っていくよ」と言うと、彼女はすぐに了承した。もう涸れるほど泣いたし、写真も山程撮ったし、緊張や疲れでぐったりしているから、はやく帰りたいらしい。彼女は「仲の良い友達とはまた後で遊ぶしね」と呟きながら、土手をのぼっていく。

ナマエちゃんは、兄貴と同学年で、僕よりも2つ歳上だった。仲の良い同級生の弟だからという理由で彼女は僕に声をかけ、「ナマエちゃんって呼んでいいよ、春市くん」と言ってくれた。

僕はいつしかナマエちゃんのことを好きになってしまっていた。
学校でもたまにしか会えないのに、練習中にグラウンドを偶然通りがかったこともないのに、連絡を取り合うわけでもないのに、苗字じゃなくて名前で呼ぶのは、兄貴がいるからってだけなのに。僕はナマエちゃんが卒業を迎える今日まで、どこにいても、すれ違いもしない日も、ずっとその背中を目で追っていた。

思えば、僕は追いかけてばかりいた。兄貴も、ナマエちゃんのことも。結局追い付けないまま、ふたりには先に行かれてしまうけれど。
最後だから、と思って彼女を待っていたのも、ほとんど僕の自己満足のためだった。この想いはもうしばらく胸に秘めたままだ。

「……あ、ナマエちゃん、待って」

少しでも彼女と一緒にいる時間を伸ばそうとゆっくり歩いていたら、いつの間にか、また僕は彼女に先を歩かれていた。あわてて声をかけると、ナマエちゃんはぴたっと立ち止まる。

「春市くん、いままでありがとう」
「え、なにそれ?」

その小さな背中から不意に放たれた言葉に、僕は眉を寄せた。なんだか別れの挨拶のように聞こえてしまったから。しかも、これが最後になるかのような。

「あ、違うよ。区切りとして言ってるだけだから」

ナマエちゃんは軽く手を振りながら言った。今日、ほんとに卒業して、同じ空間からいなくなるとは思えない。切ないくらいに、いつもの仕草だった。

「春市くんと会ってから、いろいろ変わったよ」
「え、そうかな。兄貴の間違いじゃないの?」

こんなことを言いたいんじゃないのに、と僕は思った。でも僕は、ずっとナマエちゃんのことを見ていたから。いろんなことを知っている。ナマエちゃんが兄貴と同じ大学にいこうとして頑張っていたこと。兄弟そろって背が伸びなかったけど、ナマエちゃんはただでさえ歳下の僕を、男として全然意識していないこと。可愛い後輩としか思っていないこと。

「……そんなことないんだよ」

僕はちゃんと知っていたのに、ナマエちゃんに寂しそうに言われて思わず勘違いしてしまいそうになった。
胸が苦しくなるような優しい呼吸に、唐突に思い出される。いつもナマエちゃんを見て密かにドキドキしていたこと。ナマエちゃんが兄貴と話しているのを見て、焼け付くような痛みを覚えたこと。僕の好きな女の子が、大事な一日の終わりに僕と二人きりでいてくれていること。勝手に待っていたのは僕だけど、彼女も断らなかったこと。

「だってね、春市くんのこと考えると、だんだん、卒業するのが嫌になってきちゃったから」

あ、と僕は声に出していた。卒業。卒業したら僕に会わなくなる。それはちょっと嫌だ、と言ってくれたのは嬉しくて頬が熱くなってしまったけど、それだけじゃなかった。
なんとなく、心のどこかで、まだ受け入れられていなかった。今までずっと追いかけていて、今は目の前にさえいるのに、その存在は、本当はもう手の届かないところにいるんだ。ナマエちゃんは、僕の前からいなくなる。
そういうことが一気にわかってしまって、僕は悔しくて唇を噛んだ。
どうにもならないってわかってるから、どうこうするつもりはなかったけど。
だけど、ナマエちゃんをこのまま行かせたくない。先に行って欲しくない。まだまだ僕は届きそうにない。でも少しは覚えていて、思い出して欲しい。

「え?春市くん?」

気が付くと僕はナマエちゃんの手を掴んでいた。離れないで欲しい、という思いがそのまま行動になってしまった。冷たい手だった。そして小さくて、頼りない。片手だけじゃ物足りなくなって、もう一方の手も掴むと、ナマエちゃんはようやくびくりと睫毛を揺らした。
カーディガンの裾の中に指を入れて、白い手を包み込むように握りしめる。ナマエちゃんは、目に見えるくらい顔を真っ赤にした。
向かい合って両手を繋ぎ、僕もナマエちゃんもどこにも逃げ場がなかった。僕も人のことは言えず、たぶん彼女と同じくらい顔が赤い。目を合わせられなくて視線を逸らすと、耐え切れなくなったのかナマエちゃんはもう一度「春市くん」と僕の名前を呼んだ。

「どうしたの?」

優しい声だった。僕はそれでまたいろんなことを思い出していく。夏の制服。ジャージ姿。みんなとは色が違うマフラー。いつも何かを追いかけるその横顔。
もともと僕は、ナマエちゃんがいなくなったら嫌だと思うばかりで、こんなことになるなんて少しも考えていなかった。ただ、最後に一緒に歩いて話をしたかっただけなのに。でも本当はそれじゃ満足できないって知っていた。
僕は二度と戻れない日のなかにいる。こんな気持ちはもう隠していられないし、僕には遠回りしている時間もないことだって。

「春市くん、ほんとにどうしたの」
「……」
「な、なんか照れちゃうんだけど」
「僕、ナマエちゃんのことずっと好きだった」

じっと見つめて一息で言うと、ナマエちゃんは驚いて僕の目を見つめ返した。繋いだままの両手の、僕に触れている部分が途端にぎこちなくなった。でも、逃げられたくないから、僕はさっきよりもしっかりと握りしめる。

「卒業なんてしないでよ。僕、ナマエちゃんのこともっと見ていたいし、ずっと一緒にいたい。ナマエちゃんにいなくなって欲しくないよ」
「……」
「あ、うん……えっと……」
「……」

ナマエちゃんが返事もなくだんだん俯いてしまったので、我ながらちょっとストレートすぎたかもしれない、と思って言葉に詰まる。つい隠しきれなくなって想いを伝えてしまったけれど、こっちもじわじわと恥ずかしくなってきた。
意識したこともない後輩から卒業式に告白されて、きっとナマエちゃんも動揺している。どう反応したらいいか、わからないんだろう。それに、ナマエちゃんは、本当は兄貴と一緒にいたかっただろうに。
急に、僕はなんて図々しい真似をしているんだろう、と思えてきた。

「あの、ナマエちゃん……」

一言謝ろうと思って彼女の顔を覗き込んだとき、僕ははっとして息を呑んだ。
ナマエちゃんは、涸れたと言っていたくせに、涙を零して、うんうんと頷いていた。
透明な雫が、桜の花びらのようにきらきら光りながら地面に落ちていく。水分だけじゃないその煌めきは、はらはらと散るナマエちゃんの涙は、すごく綺麗だった。

「あ、あれ、もしかして真面目に受け取ってくれた?」

今になって照れてきてしまって、はぐらかすように言うと、ナマエちゃんはまた驚いて「え、え、今の真面目じゃなかったの?」と顔を上げた。

「春市くん、ちょっと、大人をからかわないでよ」
「い、いや、真面目だったよ。ほんと。気付いてないと思うけど、僕、大好きだった、ナマエちゃんのこと……」

言葉にするたびに切なくなってくる。どうしてナマエちゃんと僕は同じ年に生まれなかったんだろうって。無理だとわかっていても、考えてしまう。もしも一緒に卒業していたら、ナマエちゃんは兄貴じゃなくて僕を追いかけてくれただろうか。

「……ありがとう。ちょっとびっくりしたけど……嬉しかった」

ナマエちゃんは目を伏せて、少し笑っていた。胸が苦しくなった。今、僕は耐え難いくらい寂しいのに、この気持ちも夏頃には薄れていってしまうんだろうか。僕は成長し、彼女も成長して、いろんな記憶が今日のことの上に降り積もっていって。でも僕は永遠にこの瞬間を覚えているという自信があった。彼女はそうはいかないとしても、いつかまた思い出したときに、僕の色が少しでも鮮やかであって欲しいと願ってもいいだろうか。

「春市くん、私は……」
「わ、あああ、あの、その、返事はいいから」
「え?」

ぼうっとしていた僕は焦って彼女の言葉を止める。
準備もせず告白をしたものの、僕はその答えを受け取るつもりはなかったのだ。

「えっと、今の僕じゃ、まだ、聞けないから……」

まだ追い付けない。勝てないってわかっている。
僕のそういう気持ちを汲んでくれたのか、ナマエちゃんは声の代わりに息を吐いた。いつの間にか空が橙に滲み始めていたことに、ふと気が付く。今日も終わっていく。名残惜しくとも、届かなくても、もう境界線は越えてしまったのだから。

「ナマエちゃん。僕のこと、もう少し待っててくれる?」

返事はその時に、と口を動かす。彼女は少しだけ困ったように笑った。その表情がどうにもいとおしくて、僕は胸が苦しくなる。

「春市くんのことは可愛い後輩だと思ってたんだけど……そうじゃなくなるのかな」
「うん。もうそれじゃすまさないよ、すぐ追い付くから」

悪いけど、ナマエちゃんには僕の子供じみた願望に付き合ってもらう。僕がもっと成長して、ナマエちゃんの隣に立って、彼女をドキドキさせられるまで。

「か、覚悟しといてね」

今は僕の方が照れてしまっていた。でも、ナマエちゃんも、恥ずかしそうに笑う。
どこからか桜の花びらが舞い、それが風を運んできた。前髪が揺れて、ナマエちゃんと目が合う。今この瞬間だけは、僕はナマエちゃんを離さずにいられた。でもすぐに、止めていた時間が動き出していく。けれども、今、僕らの横を青春が駆け抜けていくのが、僕にはわかった。

「……言い忘れてたけど、卒業おめでとう」

卒業なんて、ただ寂しいだけだし、僕と彼女の距離がもっと広がるだけだ。本当はこの瞬間に時が止まって欲しい。でも止まらないから、その背中は、これからも僕を魅了し続ける。新しい瞬間に踏み出すナマエちゃんの美しさを、僕はまだ知らない。ナマエちゃんは、どんな人になるのかな。いつか振り向いてくれるかな。
僕の時間も、いつかナマエちゃんにぴったりと重なりますように。

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