「最底辺」からようやく片脚くらいは抜け出せたかな、と思った矢先、想定しうる最悪の状況に僕は直面していた。
殿上人の集うスタバァコォヒィーに、兄のうちの一人が現れたのである。ニートで童貞で言動がイタくて、ここでは本当に他人であって欲しい僕の兄。
せっかく今の地位を手に入れたのに、彼らが僕の身内だとバレたらすべて水泡に帰すことになる。それにもしも兄たち全員にこのことが知れたら、冷やかすレベルでは到底すまされない仕打ちをするに決っている。



「トド松、お前、こんなところでバイトしてたのか?」

あわててカラ松兄さんを連れて一度店の外に出ると、兄さんはサングラスを外してぼんやりと僕のエプロン姿を眺めた。
こんなふうに素になるカラ松兄さんは珍しいし、余程驚いたんだろう。ただそれよりも僕の方がビビってしまっていて、どう返事をしてよいか、うまく考えがまとまらない。

「い、いや、なんというか、これは……」
「そのパラダイス・グリーン、似合っているな。すごいじゃないか。さすが、俺のブラザーだ」
「あ、う、うん」

いや、これ、不幸中の幸いだ。
カラ松兄さんは空気読めなくてイタイ人ではあるけれど、単体で悪意をもって僕を貶める人ではない。まあ、他の兄たちもそんな悪魔みたいな人たちではないけれど。しかし大挙してここへ来られたら、僕はもうお終いだ。ひとりひとりじゃ大したことはできないくせに、彼らは複数対僕の構図になると途端に質が悪くなる。
カラ松兄さんだけなら。
カラ松兄さんなら、頼めばきっとここだけの話にしてくれるはず。僕を悪いようにはしないと思う。だって大切な可愛い弟じゃん。

「ねえ、カラ松兄さん。悪いんだけど、僕がここで働いてること、みんなには黙ってて欲しいんだ……」
「ん?ああそれは別に、いいけど……」
「ほら、兄さんたちに言ったらどうせ揃って来るでしょ?でも六つ子なんて珍しいから、お店のみんながびっくりしちゃうからさ。だからカラ松兄さん、お願い!僕の頼み、聞いてくれる?このことは、僕と兄さんだけの秘密にして?」
「フッ。わかったよ、ブラザー。俺は与えられた使命は必ず遂行する男……松野カラ松だ」

わかったのかわかってないのか微妙な言葉を口にしつつも、カラ松兄さんは僕の言う通りにしてくれそうだった。とりあえずほっとして、息を吐き出す。
もしも来たのがおそ松兄さんとかチョロ松兄さんだったら、ちょっとめんどくさいことになってたかも。勝手にバイトを始めて、あまつさえ大学生などと偽っているなんて知れたら、絶対に制裁がある。ほんと、不幸中の幸い。

「ところでトド松、さっき注文したラテがもう出来てるはずだから取りに行ってもいいか?俺を喚んでいるはずだ」
「えっ、いや、ダメ!ちょっと待って……」

ああっ。やっぱりわかってない。せめて行くならサングラスかけて行ってよ。
店の中に戻りかけた兄さんを制止しようとあわてていると、自動ドアが開いて店員の一人が出てきた。
やばい……と思ったら、それは礼ちゃんで。

「礼ちゃん……?」
「トド松くん、そのお客さんが注文してたこれ、出来たから持ってきたけど……」

今世紀最大のファインプレーだ、と僕は天を仰いだ。神さまと礼ちゃんに感謝しなくちゃ。「あ、ありがとう!」と言いながら急いでカップを受け取って、カラ松兄さんの手に握らせる。

「はい!兄さんテイクアウトして!ラテのトールサイズのなんだっけああもう寒いしこれ持って帰りなよ!あ、あと、なるべく次から駅前店の方行ってね!」



「トド松くんの、お兄さん……?」
「あ、う、うん。まあね」

カラ松兄さんを帰したあと、息を切らしながら、僕はそれしか言えなかった。
礼ちゃんは僕が変な客に捕まっていると思って助けにきてくれたのだろう。本当は実の兄を都合のいいように丸め込んでいたんだけど。
これでよかったのかな。自分を守るための嘘がどんどん足場を狭くしていることに、気付かないふりをしなければ、やっていられない。
でも、破綻していく感じがする。僕をとりまく景色が、そういう音を立てている。



***



いつも通り仕事を終えたけれど、ロッカールームに戻ってきた僕はかなり疲れきっていた。
カラ松兄さんの来店、という事件のせいで、だいぶ精神を擦り減らしてしまった。もうはやく帰りたい。
そう思っていると、同僚の女の子たちから「あ、ねえ、トッティ〜」と声をかけられたので、僕は笑顔をつくって「ん、なに?」と首を傾げる。

「来週なんだけどさ、また合コンしよっかなって思ってるの」
「へえ〜そうなんだ」
「トッティもどう?あ、できたら大学の友達とか連れて来られないかな?人数ちょっと足りなくて」

またこの誘いか、と思ったら胃のあたりがギュッと苦しくなった。合コンに誘われること自体は嬉しいし僕の自尊心を満たしてくれるのだけれど、その度に虚言を吐かなければならないのが後ろめたい。
何かを手に入れるのに、僕は毎回何かを失っている。正常じゃないんだって。
それでも一応連れていけそうな人はいないかと考えたけれど、男の知り合いなんていないし、兄さんたちは論外だし、僕に為す術はなかった。

「あ、あの、僕……来週はちょっと予定があって」

誘いを断るべく泣く泣く口を開いた僕は、無意識に礼ちゃんの方をちらりと見ていた。彼女もこっちを見て、一瞬目が合う。
彼女に僕の愚かな嘘が知られてしまったあの日、僕は女の子たちに「また合コンしよ」と声をかけられて、適当に承諾したのを覚えている。

今、僕の心の中にはちょっとした変化があった。

「そうそう、来週は礼ちゃんとデートするからさ」



***



「いやいやいや、トド松くん、なんでまた嘘つくの」
「んー、どうやって断ろうかなと思ってたら礼ちゃんが目に入ったから。話合わせるの上手で助かったよ。ありがと」

あのあと、ロッカールームで起きたやり取りを思い出して、僕は可笑しくて口元を緩ませた。
急に「礼ちゃんとデートする」と言い出した僕に、礼ちゃんはすごく驚いたみたいだったけど、すぐに「あー、そう、友達の男の子の誕生日プレゼント一緒に選んでもらうんだ。その人トド松くんみたいなスイーツ男子なんだけど私には好みがよくわからなくて!」と誤魔化していた。

「もう、ほんとにやめてよね。ていうか私を巻き込まないでよ、びっくりしたんだから……」

街灯が時々切れている暗い夜道を歩く。
文句を言いつつも、礼ちゃんは僕の言葉を退けずに調子を合わせてくれていた。彼女はなんだかんだ、いつも優しいのだ。

「ねえ、勘違いじゃなかったら、礼ちゃんは僕のこと守ってくれてるんだよね?」

僕にお姉さんがいたなら、こんな感じで甘えていたのかもしれない。どこか脆くてひとりで立っていられない僕を守る姉がいたなら。
彼女はマフラーに顔をやや埋めて、「トド松くんのへたな嘘にのってあげただけだからね」と素っ気なく返した。

「じゃあほんとにデートして嘘じゃなくしようか?それならいいでしょ?」

礼ちゃんは、「そんなのへりくつだよ」と言いながらも、結局予定をあけてくれることになった。

こうして僕はほとんど無理やりデートの約束を取り付けた。


疲れちゃったから寄りかかる。
へこんだから励ましてもらう。
甘え上手な末っ子としてうまくやってきた僕にはどれも容易いことだけど、なぜか礼ちゃんに関わるとき、僕は少しだけ勇気を出さねばならなかった。
嘘がバレてて引け目を感じているのはもちろんだけど、それだけじゃない。いつの間にか、僕は礼ちゃんという存在に背中を守ってもらっている気分になっていた。手を握って、ずっと傍にいてもらいたい。彼女に見捨てられたら、本当の意味で僕はひとりぼっちになってしまいそうだと思っていた。

next
8/14

back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -