無断で借りた兄のパーカーとジャージを店の裏で脱いで、ささっと自分の服に着替える。
兄としてはふたつ上だけど、自分とは一番遠い存在だと思っている一松兄さんの真似が意外と様になっていたから、思わず笑いが零れてしまった。
ほんと、僕って結構なんでも出来るんだよね、と口には出さずに思いながら、壁にもたれてスマホをいじる。

「……はあ。でも、兄弟の中なら一番世渡りうまいし努力してるつもりなんだけど、どうして抜け出せないのかなぁ」

鬱屈とした感情が胸につかえていたので、大きな溜息と共に吐き出した。いつも、うまくやっているのに、ある時点から壁にぶつかって進めなくなる。昔からそうだった。詰めが甘いのか、もともと能力がないのか、僕のせいなのか、誰かのせいなのか。

むき出しになっている指先と耳を冷たい風がかすめていく。あの女の子が出てくるまで、仕方ないからこれくらいは我慢しよう、とニット帽を深くかぶり直した。



やがて彼女が店から出てきた。「あ、礼ちゃん」と声をかけると、一瞬驚いたような表情をして僕の方を見た。彼女は一松兄さんのことを知らないけれど、さっきの僕があまりにも別人のようだったから、混乱しているのかもしれない。

「急にごめんね、ちょっと話したいことがあってさ……」

さっそく本題を切り出したのはいいものの、内心ではかなり余裕がなかった。珍しく緊張して、胃がぎちぎちと痛む。
うわ、まじで怖い。掲げた手も少し震えていた。
ていうかこの子、まさかとは思うけど、僕が大学生じゃないことすでにみんなに喋ったりしてないよね?僕がなに言いたいかわかってくれてる物分りのいい子だといいんだけど……。
彼女の無垢な瞳をみつめながら、僕は背筋がぞくぞくするのを感じた。
僕がやっと手に入れた今の社会的な地位がどうなるかは、全部この子が握ってるんだ。僕を生かすも殺すも、もはや礼ちゃん次第。

「ねえ、よかったら何か食べながら話さない?」
「うん。別にいいよ」
「ありがと。食べたいものとかある?なかったら僕のチョイスになるけど」
「じゃあトド松くんにお任せします」

なんとか自分のペースに持ち込むことができて、とりあえずほっとして息をついた。

「あそこの交差点のお店とかどうかな〜。見た目もおしゃれだし、味も美味しいって評判なんだよ」

もともと決めていた、すぐに行ける距離のお店を提案すると、彼女は「じゃあそこで」と承諾してくれた。




「好きなの頼んでいいからね」

向かい合わせにテーブルについて、僕はそう言いながらメニューを彼女に向けて差し出した。
さりげなくデザートのページを開いたのは、僕の所持金があまりないからご飯とかおごりたくないという理由だったんだけど、彼女は目をきらきらさせて「お、美味しそう……ねえ、パスタも食べていい?」とページをめくって微笑んだ。

「い、いいよ〜」

ひきつった笑顔で返しながら、これも秘密を守るための必要経費だ、と文句を呑み込む。
それから彼女はパスタとケーキとドリンクを注文して、僕はコーヒーだけを頼んだ。

「でさ、今日付き合ってもらったのはさあ……」
「あの、大学生じゃないっていう件なら誰にも言ってないよ」
「え……」

たぶんもう僕の言いたいことだいたいわかってんだろうなあ、と思いながら口を開いたんだけど、まさか本当に僕の欲しい答えが返ってくるとは予想していなくて、目を見開く。
まだバイト先の誰にも言ってないってことがわかって安心したもの、準備していた言葉が飛んでしまい、一瞬頭がまっさらな状態になった。

「あ……そ、そう、その話〜」

もっとぼんやりした子だと思っていたのに、意外と見透かされているのかも。
午後を過ぎた可愛いカフェは頭の軽そうな人たちの会話で賑やかな雰囲気に包まれながら、本当はあちこちで腹の探り合いがなされている。僕たちもそうなのかもしれない、と少しだけ緊張する。

「実は僕、昨日言ったとおり、ほんとは大学生じゃなくて……あ、わけあってそう言わないとあそこで働けなくってね、ほんとに個人的な理由なんだけど」

そんなのただの見栄だろ、と自分の声が聞こえたけど、僕は無視した。
彼女は運ばれてきた紅茶に口をつけながら、僕の話を聞いていた。自分の心臓の音がどくどくと鼓膜に響く。

「みんなには黙っててほしいんだ。だから、お願い、僕の秘密はきみの心の中に留めておいてくれないかな」
「……どうして?理由は、何?」
「え、えーと……」

嘘をつく理由も、僕が何者なのかも、あえて言わなかったのに、そこを突かれて固まってしまった。
うまく説明できそうになかった。だって本当にただの見栄で、虚栄で、邪心でしかない。僕をよく見せるために、ちょっとズルして嘘ついてるだけ。見せかけだけの自分のことを、口にするのが恥ずかしかった。
背中を嫌な汗がつたう。沈黙が一秒伸びるごとに寿命が一年くらい縮んでいくような心地がしていた。

「……ごめん。面倒な理由だったら、私、聞かない方がいいよね」

先に口を開いたのは彼女だった。しかも、何も悪くないのに謝られてしまった。
ずき、と胸が傷んだ気がする。でもそれより、沈黙から解放されて僕はほっとしていた。

「う、うん……まあいろいろあるんだけど、悪意があるわけじゃないんだよ」
「じゃあ何も聞かないけど、トド松くんがそう言うなら黙ってるよ。誰にも言わないから」

また、ぽかんと間が空く。僕はしばらく何も言えなかった。彼女があまりにも理解が早いというか、優しすぎて。

「え、いいの……?あの、これからも僕、みんなの前だと大学生って言い張るかもしれないけど……」
「うん。ちゃんと話あわせるから大丈夫だよ」
「あの……本当にいいの?なんでそんなに優しくしてくれるの?」

ここは、ありがとうって素直に言うべきところなんだろうけど、自分のこともろくに信用できない僕が、何も知らない他人のことを信じる気にはまだなれなかった。
秘密を守ってくれる、とは聞こえがいいけど、実際は弱みを握られているようなものだし。本当は、僕のことを卑怯なヤツだと見下しているかもしれないし。

「……トド松くんって、みんなが言うとおり本当におしゃれで、私も知らないお店とかも知ってて、すごいよね」
「えっ?えーと……」

急に話が変わって、僕は首を傾げた。彼女は柔らかい笑みを浮かべて、食器を撫でている。

「私、今までちゃんと喋ったことなかったけど、ずっと、トド松くんってどんな人なのなって気になってたの。だから誘ってくれてちょっと嬉しかった」

え?え?ちょっと待って?なんかいつの間にか僕の時代きてた?バイト女子内での僕の評価メチャクチャ高かったりした?
わけがわからないけど、とりあえず彼女の言葉をそのまま耳に流し込んだら、僕の身体がつまさきの方からぶるりと震えた。意外かもしれないけど、賞賛に対する耐性があまりないのだ。
でも、僕のことなんかなんにも知らないのに他人の評価を鵜呑みにするなんて、ほんっと最近の女の子ってペラいな。あそこでバイトしてるのもどうせファッションのつもりなんでしょ……と思った後で、盛大なブーメランだと気付いて僕はグラスに付いた水滴をみつめた。

そして、褒められて喜んでしまっているのに、僕は、彼女のことを騙してるのかもしれないとぼんやり思って、ちょっと胸が痛んだ。
きみの前に座っている僕は、本当は成人してからもニートに甘んじていて、兄たちからはドライモンスターとか呼ばれるし、薄情でがめつくて他人に興味がないのに、人一倍他人の評価を気にしてる、冷え切ったうわべだけの人間なんだよ。

「どういう理由かわからないけど、困ってるなら協力するし、トド松くんが嘘ついてることも、誰にも言わないから心配しなくていいよ」

こんないい子いるんだなあ、なんて、僕は他人事のように考えていた。
後ろめたさのない笑顔は、彼女の言ってることは本当だ、と言葉以上に物語っている。そんな気がするんだけど。

「ありがと、礼ちゃん、優しいんだね」

でも、さすがに彼女の賭けるものが少なすぎる、と僕は思っていた。大事な秘密を預けた人なのに、僕はまだ彼女のことを何にも知らなかった。

「ねえ、僕の秘密知ってるの礼ちゃんだけだからね。礼ちゃんは僕を裏切らないで、なんてね」

精一杯目を輝かせて言って、そのあとは彼女の顔を見なかった。
人間がみんな悪意しかもっていなかったら、今の世界を作り上げることは出来なかっただろう。「善い人」はたくさんいる。たぶん、悪い人の方が少ない。そんなことはわかっている。
だけどここまでいい人だと、なんか裏がありそうだよね〜と、根拠もないのに疑ってみて、結局、珍しく女の子と連絡先を交換しなかった。

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