02-3
 明るい。この窓からの日差しは悪くないなと珍しく思った。
 のそのそとベッドから起き上がる。そして窓から見えた景色が案外よかったもので、散歩に出ようと思った。
 そもそも、こんな時間から動くことがないから珍しさもあってだろう。
 自室を出る。人の気配はない。
 コウは帰ってこなかったのかもしれない。まぁいいか。
 部屋の鍵を持って、寮を出る。
 少し肌寒く身が震えた。
 寮から出て道なり。草木の手入れはきっと誰かがしてるんだろう。
 散歩コースのように、石畳をたどっていく。そうすると、水の落ちる音が聞こえた。
 多分噴水だ。
 そんなものもあるのか、と俺はそっちに足をむけて。
 そして歩みを止めた。
 どんな距離でだって、視界に入ったのなら間違えるはずがない。
 噴水、その縁に座り込んでいるあの人。
 少し、背を曲げて猫背のようで。色素の完全に抜けたような、細い銀色の髪もそのままだ。いや、記憶の中よりも長くなっているような気がする。
 うつむいているから、その瞳が開いているのかどうかはわからない。
 あの人が、いた。
 なんで、どうして、こんな時間に、こんなところに。
 そう一瞬で廻ったけど吹き飛んだ。だって、あの人なのだから、どこで何をしていたっておかしくない。
 どうしよう。
 どうしようどうしよう。
 どうやって接触しよう。
 会う、って決めた。けど、けどどうやって会うかまではまだ完全に決めてなかった。
 それでも、俺は近づかずにはいられなかった。
 何か月ぶりだろう。
 自分の心が息を吹き返すみたいに、脈打つのを感じた。
 俺はじっとあの人を見てしまう。
 ここは引き返したほうがいいのかもしれない。
 けど、足はあの人の方に向いていた。
 一歩、二歩。距離を縮めてもあの人の視線はこちらへ向かない。
 じーっと水面をみているだけだ。水面をみて、何が面白いのかくふりと笑みを漏らしている。
「おはよう」
「っ、おはよう、ございます……」
 あと数歩。
 そんな距離で、目の前のあの人はこちらに視線向けず言葉を落とした。
 そして、それ以上会話はない。
 彼の目の前を通り過ぎるだけの人。それにはなりたくない。
 だから声をかけた。話しかける言葉は何でもいい。彼から接触してくれた今をつぶしたくない。
「何、してたんですか?」
「……面白い」
 面白い。
 何がだろうか。それが何か俺にはわからない。
 けど、それでいいのだと思う。
 ふと、彼が顔を上げた。そして流れ落ちる先を見つめ、視線を動かした。
 そして俺に一瞬止まって、また違う方向を見る。視線向けた一瞬でさえ、ほら。
 ああ、ほら。
 彼の世界に俺は、今いなかった。
 いなかった。
 その事実に打ちのめされる。ある程度覚悟はしていたのだけれども、それでも。
 これは、キツイ。
 俺の世界の中心は、彼でもうできあがりつつあるというのに。
 その彼に認めてもらっていない。
 でも、でもそれはあたりまえだ。
 俺は、彼とこの姿で会ったのは今日が初めて。初めてなのだから、ここから。
 ここから、間違わなければ。
「あの、俺はセッキ。あんた、は?」
 名前。
 まず名前。覚えてもらいたい。そして、教えてほしい。
 俺は何も知らない。
 彼の通り名さえ。いや、聞いてはいると思う。
 けれど彼から教えてほしくて、彼に関することは意識的にシャットアウトした。
 答えてくれるだろうか。
 先ほど投げた言葉に応えはない。ある程度、想定した範囲だ。
 ここでしつこく食い下がると、彼は離れていってしまう。それは、今まで彼を視ていて知っている。
 だからもう、聞かない。
 知りたいけど。
「トーゴ」
「へ?」
「俺はトーゴ」
 その声は気の抜けるような声だった。
 けど、あの人は、彼は、トーゴはしっかりと名前を紡いでいてくれた。
「あれ、違う?」
 そこで、彼は俺を始めてみた。
 ああ、また。
 またこの水の瞳を見ることができた。
 ただそれだけに、俺の心は跳ね上がる。


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