(貴方の謳った世界はきっと、素敵なところだ)



名前が次の研究発表の為のレジュメを印刷していると、扉の開く音がした。色白の肌がそれを通り越して蒼くなったというような姿で、アカギが部屋に入ってくる。
「……アカギさん?何日寝てませんか?」
「十三日」
「仮眠室の鍵を取ってきます」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないから言っているんです!」
今にも倒れてしまいそうな立ち姿のアカギに、心配と苛立ちの混じった怒声を浴びせる。
「いっつもいっつもアカギさんはそうやって」
「大丈夫だ」
「大丈夫なもんですか!人間の限界超えてますよそれ、っ」
印刷室を飛び出そうとして腕を掴まれる。その、普通の男性に見合った力に、名前は刹那ぎょっとした。
「行く行くは人間を超えるつもりだからな」
そう言うと、アカギは名前の使っていた印刷機の隣を陣取り紙の束を脇に置いた。
「……冗談にすら聞こえませんよ」
「本気だからだろう」
一粍も無駄のないように見える動きで、印刷機に紙を差し込む。蓋を閉じれば、ガァガァと喧しい音を立てて機械が動き始めた。
「新世界の神、ですか」
「ああ」
「神だって眠ると思いますけど」
「それも、きっと安らかな眠りだろうな」
印刷機の傷でもその視界に入れているのか、一点を見つめたままのアカギ。名前はその傍らまで行くと、隈のうっすらと見える距離でアカギを見上げた。
「……永遠の?」
「永遠と思えるような…だ」
名前へと顔を向けたアカギは、その更に遠くを見るように焦点をずらした。
「私が作る世界は、誰でも安らかに眠れる。醜い感情も、醜い争いもない故に」
「良い感情も無くなったら、安らかには眠れない気がします」
「原始、無の状態では全てが安定だ。安らかでないはずがない」
「そう、うまく行くんですか?」
視線が戻ってくる。名前は答えを促すように首を傾げ、困ったように笑った。
「君は悲観主義者か何かか?」
「いえ。ただちょっと、現実主義者なだけです」
そうか、と呟いて、アカギは視線を印刷機に戻した。何枚も吐き出される複製の文字列。
「現実も大事だが、理想を追うことは悪いことではない」
「……そうですね。でもその前に」
印刷機の釦にかかっていたアカギの手に、名前の手が重なる。
「安眠も大事ですよ、アカギさん」



意外にも素直に仮眠室へ来たアカギは、蛍光灯の下で大人しく毛布を被っていた。
代わりにコピーを済ませその寝姿を確かめてから、淹れていた紅茶を仮眠室にて啜る名前。
「……随分静かだな」
そっと近づいて見る。胸のあたりが微かに上下する以外に、アカギの生を証明するものは何もなかった。
あまりに安らかに眠っていて、それはまるで永遠の眠りのように見えた。
「……アカギ、さん…?」
そっと、手を伸ばす。触れた薄い唇は、僅かに血の色をしていた。
全てが無になる世界。貴方が神になって、人間のままの私はきっと消える世界。
(貴方の謳った世界はきっと、素敵なところだ)
指先を優しくその唇に押し当てて、名前は小さくはにかんだ。
届かないユートピアと、貴方に向けて。



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