――明確な日付までは、思い出せない。
だけど、その日のことは、脳細胞に刻み込まれているかのように鮮明に思い出すことができる。あれは、一年程前のことだった。
「・・・息が白いや」
――季節は、真冬。
街を歩けば、まだ訪れないクリスマスを前に、浮足立っているカップルが目に映る。軽蔑しなければ、羨ましいとも思わない。私には、"恋愛"というものが、よくわからなかった。
手袋をはめているにも関わらず、指先には血の通っている気がしない。懸命にこすり合わせれば、幾分かマシになった気がする。マシになっただけで、寒いことに変わりはないのだけれど。
自宅までは、もう少し。ようやく温かい我が家に帰れると思えば、図らずも安堵の息が漏れた。
家に着いたら、私の為に留守番をしてくれている、愛らしくも勇敢な相棒のロコンに温めて貰おう。明日は予約が入っていなかったから、久しぶりに公園へ散歩に行くのもいいかもしれない。
そんなことを考えていた矢先、
「・・・・・・え?」
目の前で、電柱にもたれかかるよう、座り込んでいる人を発見してしまった。
ここは一本道。この道を通らなければ、私は自宅に帰ることが出来ない。
「あ、あの・・・」
声を掛けてみるも、返事はない。ただの屍・・・だったら困るので、その人へ恐る恐る近寄り、私もしゃがみ込んだ。
「・・・大丈夫、ですか?」
――これが、彼との出逢い。
彼は私が声を掛けたことに気が付いたのか、うつらうつらと瞼を開く。
切れ長の大きな瞳。髪と同じ、常盤色の瞳。青白い肌は少し赤みがかかっており、揺れる黒目は少しとろんとしている。
――酔っている。確実に。
「あの・・・」
「・・・すいません、今は何時でしょうか?」
「午前一時を少し過ぎたところですが・・・」
「・・・そうですか」
「ご迷惑をお掛けしました」と立ち上がる彼だが、足元が覚束ない。顔や態度に出るタイプではないのか、一見わからなかったが、相当飲んだらしい。ふらふら、ふらふら、歩く彼に言い知れない不安が過ぎり、私はつい声を掛けていた。
「あの・・・私の家が近いので、酔いを覚ましてから帰られた方が良いと思いますが・・・」
「・・・・・・・・・」
「失礼は承知の上ですが・・・今の貴方は、危なくて見ていられないです。どこかで倒れて凍死してしまいそうですよ」
「・・・すいません」
結局、私は彼を自宅へ招くことにした。足元が覚束ない彼を軽く支えながら歩いたのだが、細い見た目によらず、程よく筋肉が着いているのがわかる。
モデル顔負けの端正な顔立ちだし、職場やプライベートでは相当モテるのだろう。顔の良い幼なじみに挟まれて育った私は耐性が着いているので、一般的な女の子のように取り乱すことはなかった。
「着きましたよ。狭い部屋で申し訳ありませんが」
「いえ・・・」
鍵を開けて自宅に入ると、ロコンがきちんとお座りをして出迎えてくれた。見知らぬ人物へ吠えそうになったロコンを宥め、ベッドは気が引けたので、ソファに彼を横たえる。
「今、お水を持って来ますね」
「・・・・・・・・・すいません」
"ありがとう"と素直に言えないらしい彼に、プライドの高い幼なじみを思い出し、クスリと笑ってしまった。きっと、彼もプライドが高いのだろう。
私はキッチンで冷蔵庫からおいしい水を取り出し、グラスコップに注いで、彼に差し出した。ロコンは今だに彼を警戒しているようだが、致し方ない。相棒はとんでもなく人見知りなのだ。
水を早急に飲み干した彼は、少し意識がはっきりとしたようだ。相変わらず常盤色の瞳はとろんとしているが、先ほどよりは酔いが醒めたらしく、瞳に光りがある。
「・・・おかわりは?」
「・・・お願いします」
「吐き気があれば、そこのロコンに洗面所へ案内してもらってくださいね。私は水を持って来ますから」
ロコンは指命を与えられたことが嬉しいのか、彼を見張るようにソファから少し離れた位置に待機している。微笑ましい光景に目を細め、私は再び水を用意しにキッチンへ向かった。
リビングに戻ると、彼は何故かロコンを凝視している。見られているロコンは居心地が悪いのか、お尻をむずむずとさせていた。
「あの・・・?」
「ああ、すいません」
彼は私から水を受け取ると、再びロコンに視線を戻す。
「・・・うちのロコンが、どうかしましたか?」
彼は口をつけたグラスをテーブルに置き、思案するように口を開いた。
「いえ・・・随分と毛並みがいいので」
そんな彼の疑問に、私の答はすぐに出る。
「私、フリーのブリーダーなんです。ロコンは毎日毛繕いをしているので、そのせいでしょうね」
「・・・そうですか。それに、そのロコンは随分と強いようですが」
彼もまた、トレーナーなのだろうか。最強の幼なじみ二人に(有無を言わさず)鍛え上げられたロコンは、見た目の愛らしさによらず、相当な実力を持っているらしい。
「強くて美しいモノは好きです」
「そう、なん、ですか」
微笑む彼があまりにも可愛らしかったので、私は言葉に詰まってしまった。男の人に"可愛い"なんて失礼だけど、冷淡なイメージを持つ顔立ちだからこそ、余計にそう見えたのだろう。
「・・・そういえば、貴女のお名前は?」
あ、と思った。
ここまで世話を焼きながら、私達は互いの自己紹介すらしていない。
「名前です。名乗ってなくてすいません、すっかり失念してました」
「ふふ・・・私はランスといいます。失念していたのはお互い様ですよ」
「そうですね」
私達がクスクスと笑い合っていると、構って貰えなかったのが寂しかったらしく、ロコンが私の背中にぐりぐりと頭を押し付けてきた。
「あぁ、ごめんね、ロコン」
「・・・そのロコンは、随分と貴女に懐いているようですね。言い付けにも酷く従順ですし」
「躾は怠りませんでしたから。といっても・・・飴:八割、鞭:二割で、相当甘やかしてしまいましたが」
「そうなのですか・・・私の手持ちは全く私に懐かないので・・・」
苦笑する彼――ランスさんは、腰に着けていたモンスターボールを手の平で転がす。
「よかったら、ランスさんのポケモンちゃん・・・毛繕いしましょうか?」
「いいのですか?」
「構いませんよ・・・あ、でも時間が時間ですし、ランスさんも帰宅しなければならないですよね。仕事もあるでしょうし」
「・・・明日は非番なんです。おかげで、今日こんなに飲まされたのですが」
「そ・・・それはご愁傷様です」
ランスさんの口元は笑っていたけれど、目は全く笑っていなかった。おそらく、その"飲ませた相手"に対して苛立っているのだろう。報復さえ考えていそうな気がする。
「・・・で、では、毛繕いしますので・・・ポケモンを出して頂いても?」
「ああ、はい」
ランスさんがボールから出したのは、ゴルバットだった。確かに懐いていないようで、他人の私はともかく、トレーナーであるランスさんも睨んでいる。
「躾はしたんですがね」
そう言うランスさん。だけど、このゴルバットの様子だと、鞭が八割――もしかすると十割鞭だったのではないかと思う。
とりあえずゴルバットを呼び寄せて、毛繕いを始めた。毛繕いをされるのが初めてなのか、最初は強張っていたゴルバットも、次第に大人しくなっていく。約一時間程が経過した頃には、すっかりゴルバットの警戒心も薄れていた。
「ランスさん、終わりましたよ・・・あ、」
待っている時間が暇だったのか、酔いも相まって、ランスさんはすっかり夢の中へ旅立ってしまっていた。しかも、私のロコンもランスさんの足元で眠っている。こっちはふて寝だろうけれど。
「・・・ご主人様、寝ちゃったよ」
ゴルバットにそう言うと、彼は困ったように首を傾げた。どうやら、こうなるとランスさんは起きないらしい。
私は苦笑して、寝室から持ってきた厚手の毛布を彼に掛けた。寝るのに邪魔だろうと、被ったままのキャスケットもテーブルに避難させる。
すうすうと静かに寝息を立てるランスさんは、やっぱり、可愛かった。
彼との出逢い
(まさか彼に恋心を抱くなんて)(この時の私は予期すらしていなかった)
2011.04.21
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