痛みと共に眠り続ける
「これはまた、酷いことになった」
廃図書館の窓から街の光景を見ていたコアは眉間に皺を寄せた。
人間達が異常に犯され、人間同士で醜い殺し合いだとかなんだとかをしている光景。
「こんなことを繰り返して、誰も何も満たされないっていうのに」
本当に、馬鹿馬鹿しいーーそう吐き捨ててやる。
「‥‥もうこりごりだよ、こんな世界」
コアは部屋の中を振り返り、本の中に埋もれた。
こんな世界から目を背けて、いつか迎えに来てくれる終わりの日まで、ずっとずっと、独り世界の理から逃れてここで静かに暮らそうと決めたいつかの日。
独りでいれば、異常も正常も関係ない。
人間関係を築く必要もない。
ああ、それはなんてーー‥‥
(幸せだ‥‥)
そうして本の山に囲まれて眠りに就いた頃、外は静けさを忘れ、残虐と歓喜に満ち溢れた声と、誰のものかもわからない悲鳴が止まることなく鳴り響く。
「でも、これは一体?!この街はおかしいのか?」
ヴァニシュがその光景に言えば、ディエは肩を竦め、
「どこだって似たようなもんだろ」
「い、いえ‥‥今まで見たものより異常ですよ!だって‥‥」
街の外に目を向けながらヴァニシュは、
「こんな辺境の地なのに、街の外からあんなにも人が集まって来て‥‥それで、全員‥‥」
街の住人だけでなく、むしろどこからどこまでが最初からこの街にいた人々なのかはわからないが、ぞろぞろ、ぞろぞろと街の外から人が集まり、この街に入った瞬間いきなり殴り合いや刺し合いなんかを始めて。
だが、それは意思を持っていると言うより、何かに操られているようなーー誰の目の焦点も合っていなかった。
「うっ‥‥」
ディエを追っている間、彼が殺めた異常者を弔うことで血生臭さには慣れたが、過去のトラウマである性的行動にはやはり吐き気がしてしまい、ヴァニシュは口に手を当てて、これ以上は見ていられず光景から目を背ける。
だが、ヴァニシュは一つのことを考えていた。
あの日から忘れてしまっていたシャイのこと。
彼女が再び姿を現し、彼女のことを思い出したこと。
魔女の老婆が血文字の手紙で残した『あなた、ご友人に魔女が居ますね?』ーー今でも引っ掛かっていたあの一文。
「魔女の、退屈しのぎ‥‥人の中に溶け込んで生き、自分が魔女であることを忘れ‥‥自分で振り撒いた異常に堕ちる‥‥」
魔女の老婆からの手紙。ヴァニシュはそこまで思い浮かべ、深刻な表情をした。
ぽんっと、頭の上にディエの手が置かれ、
「‥‥どうした」
と、特に顔色を変えることなく彼が聞いてくる。
「ディエさん、本当にシャイさんを覚えていませんか?」
「さっきの女か?知らねえって言ったろ」
「‥‥私、彼女を捜さないと‥‥!なんだかこの状況は、嫌な感じがする」
シャイがお伽噺の中の魔女だとは思いたくない。しかし、あまりに不可解なことが多く‥‥
だが、それよりも。
あの日、ヴァニシュがディエを刺した日、倒れそうになった彼の体を真っ先に支え、抱き締めたのはシャイだった。
そんな彼女は今、ディエにその存在を忘れられている。
それは、ロスも同じだ。
彼も最愛の女の子に忘れられ、偽りの日々を過ごしている。
それは、どんなに寂しくて、どんなに辛いことなのだろう。
先程のシャイの悲しげな、悲痛な表情が、ヴァニシュの胸を締め付けた。
「何を思い詰めてるか知らねーが、これじゃ帰るのも厳しいか。事態が落ち着くまでお前は宿に籠ってろ」
「大丈夫です、彼らに私の姿は見えないでしょうから。私はシャイさんを捜して来ます」
「だから、なんなんだよあの女は」
ディエに問われ、
「たぶん、あなたが言っていた‥‥あなたを助け、異常者と正常者の話をしてくれた誰か、のはず。その忘れてしまった誰かーーそれが、あなたを‥‥システルさんと同じくらいあなたを愛した優しい女性、シャイさんです」
それを聞いたディエは一瞬目を丸くし、
「お前、なんで今までその女のことを黙ってた?」
「黙ってた訳じゃない、私も昨日まで忘れてたんです。ロスさんもシャイさんのことを忘れていた。でも、急に昨日、私は思い出したんです、彼女のこと。だから、見つけてあげないと‥‥いや、私なんかより、あなたに忘れられていることが、どれだけ彼女にとって辛いか‥‥」
焦るように言うヴァニシュにディエはため息を吐き、
「別に。俺が思い出せないってんなら、そこまでどうとも思ってなかった女ってことだろ、いいからお前はーー」
言い終わる前に、パンッーー!と、頬に平手打ちをされ、微かな痛みが走る。
ヴァニシュを横目で睨めば、
「だから!システルさんのこともだけど‥‥あなたのそういうところが嫌なんです!全然、人の気持ちを考えてあげてない‥‥!少しだけでもいいから考えてあげなよ!彼女達の気持ちを!そんなだから‥‥やっぱり本当は、私もいつまでも‥‥あなたを赦せない。だから、お前なんか‥‥死んでしまえば‥‥」
「‥‥」
そこまで本音を言い掛けて、ヴァニシュは口元を押さえ、ディエが今どんな表情をしているのかも確認せず、その場から走り去った。
ーーその一方で、宿の風呂から上がったクッティは、肩から先のない自分の右腕があったであろう部分を見る。
リアーー否、赤髪の魔王。
あのハサミでざくり、ザクリと、骨ごと肉を斬り落とされた激痛。
右目を抉り落とされた‥‥痛みと不快感と恐怖と。
だが、お陰で。
(ふふ‥‥あとはもう、何を失なったって怖くない。この身体は、痛みすらもはや感じない。僕の心は死んでいるんだから。だが‥‥あの魔女をもうすぐ殺せる‥‥!)
クッティは自分の口から漏れ出そうになる歓喜の声に自らの左手で蓋をする。
(僕を、あの深く暗く冷たい海に投げ捨てた女!まずはお前を‥‥殺せるんだ!!!)
こんなに嬉しさを感じたのは生まれて初めてかもしれないと、クッティは思った。
全部全部、殺すと決めた、あの島に関わった、全部を。
「クッティー、あがったー?」
女湯の脱衣室からマーシーの声がして、
「ああ。今から着替えるところ。さあ、着替えたらさっそくお医者さんのところに行って、マーシーを診てもらわないと」
「‥‥でも、珍しいね。クッティ、近頃どの場所でも病院は信じないって言ってたのに」
マーシーが不思議そうに言えば、
「君を、助けてあげたいんだよ。心から、本当に」
死んでしまった心を胸に、クッティはどこかの街で聴いた、美しい鎮魂歌を頭に巡らせていた。
・To Be Continued・
毒菓子