きっとそれは未来の約束



※ネームレス、さらっと救済


「……白のフリル」
「……は? ……はぁ??!!」

 これが現役警察官で、爆発物処理班の元エースで、現捜査一課強行犯係所属で、高校時代からの恋人で。
 ───現わたしの夫との出会いの会話である。

***

「お前根に持つねぇ」
「当然でしょ。付き合ってもない男子に下着見られたんだから」
「あの年頃の男子なら自然と見ちゃうだろ」
「全く反省してないね!? 変態!!」
「その変態と結婚したのはどこのどいつだ?」
「…………………………わたしです」

 むぅ、と二の句が告げなくなり夫が作ってくれた酢豚を口に含めながらじとっと睨むが、怯むことはなくそれどころか口元にからかいの意を込めた笑みを浮かべるばかり。
 わたしが夫に口で勝てた試しは一度もない。高校のとき、初めて出会ったあの日も言いくるめられて、あ、こいつ変態だと思ったのは彼の親友である萩原君に諭されてからだった。

「あ、そうそう。来週の火曜予定空けとけよ」
「なんかあった?」
「いいから空けとけ」

 自らが作った料理を咀嚼しながら押し通す陣平にため息をつきつつ頭の中で予定を組み立てる。今のところ緊急な用事もなければ友人との約束もない。

「ご馳走様でした、美味しかった」
「お粗末様。風呂入ってくる」
「ゆっくりしてきてねー」

 二人同時に手を合わせ、食器を洗っている間に陣平がお風呂に入る。それは結婚してからのルールだ。夫の仕事は土日祝日関係なく、いつ出動するかわからない職場で、現場で事件が起きればそれがデート中であっても非番であっても彼はそちらを優先する。寂しくないって言ったら嘘になるけど、この国に住む人を守っている彼が好きなこともあって、いつもわたしは送り出すだけ。
 「いってらっしゃい」といえば、「いってくる」と返ってくる。「おかえりなさい」といえば、優しく目を細めて「ただいま」といって抱きしめてくれる夫が、わたしは大好きだ。……恥ずかしいから滅多に言ってやんないけど。そんなことを言ってみろ、控えめに言ってわたしにとったらとんでもない事態を招くことになる。

「風呂お先」
「ああ、じゃあわたし入るね」
「明日早いからもう寝るわ、おやすみ」
「おやすみ〜。なるべく起こさないように潜り込むね」
「ん」

 考え事をしていると風呂から出たらしい。しっとりとした色香を放つ陣平は新婚じゃないのに酷く惹き付けられる。一言だけ残して寝室へ向かう後ろ姿を見送り、とっとと洗い物を済ませようとスポンジを泡立たせた。
 つけっぱなしのテレビから流れる連続ドラマのお決まりゼリフを聞きながら最後の皿を拭いているとふと何かの気配を感じ、振りかえ───ろうとしたけど腹部に回された逞しい両腕によりそれはできなかった。この家にいるのはわたしと彼しかいない。必然と彼が仕掛けたことだとわかる、が。

「陣平?」

 明日早いんじゃないの、とか。甘えたさんだね、とか。咄嗟に何も言えずとりあえず顔だけでも振り向かせて彼を見ようとしたのが、間違いだった。

「なあ……」
「ひ、」

 陣平の吐息が、耳に、当たってる……!
 こいつわたしが耳に弱いことを熟知してるくせにわざとやるのやめろって言ってんのに……!! 背筋がぞわぞわするからやめろって!!

「じんぺ、やめ……」
「はーーーー……俺の奥さんまじえろい」
「は……? え?」

 え……え……? えろい……?
 ……もしかして、わたしの反応見るためだけにあんな色気出したの!? からかわれたってこと!?

「っ、からかうの禁止ー!」
「おっと」

 どうにかして腕の拘束から抜け出したくてじたばたもがくけど、現職の警察官に敵うわけがなかった。いつもなら安心する両腕であるけれど、からかいスイッチが入った陣平の両腕は頑固拒否させていただきたい!
 もがくわたしにからから笑いながら頭をぽんぽんと撫でてくるけれどそんなのには懐柔されないからね!

「ほらほら明日早い人はもう寝るの!」
「へーへー、お前も早く来いよ」
「わかった、わかったから耳元で話すのやめてー!」

 未だに笑って耳元で話すのをやめない。くそ……ぜったいいつかぎゃふんと言わせてやるんだから……!
 ……去り際、額にキスを落とした程度じゃ、許さないんだから。


 ──前から思ってたけど、陣平って気障だよね。
 ──うるせぇ。襲うぞ。
 ──ひぇ。

***

 わたしの夫、松田陣平は人々の安全を守る警察官である。以前は警視庁警備部機動隊爆発物処理班に所属していたエースで、今から七年前と三年前に起きた同一犯の爆弾魔を追っていた。親友である萩原君の命を脅かした犯人が許せず、転属を希望したけど頭を冷やすようにと、現在の所属、警視庁刑事部捜査一課強行犯係に配属されたのだと、苦い顔をした本人から聞かされた。その時の彼は執拗に爆弾魔を狙い続け、犯罪とかよく分からないわたしでさえ初めて彼を『怖い』と思ってしまうほどにぎらぎらしていた。

「松田のこと、少し見ておいてほしい」
「……うん。わかった。萩原君も気をつけてね」
「大丈夫。きちんと君のもとに松田を無傷でお届けするよ」

 彼らの仕事が忙しくなる前に萩原君に呼び出されて、言われた言葉。そう言っていた萩原君もなんだか目元に隈があって、疲れてそうだった。あとから聞いた話だけど、同じ爆弾魔から爆破予告が警視庁に送り付けられ、陣平も萩原君も捜査や防衛に追われていたらしい。
 家に帰宅しても、心ここにあらずという感じで、見えない敵を常に睨んでいて、夕飯を食べている間もずっと無言で、何も喋らない。
 萩原君に見ててとは言われたけど、何を注意しておけばいいのか、何を言えばいいのかわかんない……。

「……あの、じんぺー」
「……んだよ」
「なんでも、ない」
「……そ、俺はもう寝るぜ」

 かたりと食器をシンクに置いて、陣平は言葉少なく寝室へ向かってしまう。その後ろ姿は自信たっぷりな普段の彼とは全然違う雰囲気に、陣平が万が一にでも死んでしまうと思ってしまったわたしは、何も言えなくなってしまい、結局その日はお互い無言で床についたのだった。
 十一月七日。陣平と結婚してから仕事を辞め専業主婦になったわたしは気分を紛らわすために大型のショッピングモールに来ていた。まあ、まさかそこで件の爆弾魔が引き起こした事件に巻き込まれるとは思ってもなかったんだけど。
 ただちょっと騒がしいなぁ、と思って、そろそろ帰ろうかと踵を返した時、きちんと防護服を着た萩原君が勢い良く走っているのが見え、目を瞬かせる。と、次の瞬間には避難勧告が出されてわたしは終始事態を飲み込むことができずに警察によってひとかたまりにさせられていた。

「あの、松田君の奥様でしょうか」
「え? ええ、はい……あなたは、」
「捜査一課の佐藤と申します。伝言を、預かっておりまして」

 伝言……? と首を傾げると佐藤と名乗ったショートカットの警察官が一瞬表情を歪め、つむいだのは、

「『俺がいなくても、泣くなよ』……だそうです」
「……えっ?」

 理解が追いつかなかった。俺がいなくても、って……なによそれ……遺言みたいじゃない……。
 ──みたい、じゃなくて……本当の遺言なの……?

「ど、して……」

 どうして死ぬ気で生きようとしないの。帰ってくるって、ぜったい、戻るって、あのとき約束をしたのに。破るつもりなの。もうなんだか彼への想いが溢れに溢れ、佐藤刑事が爆弾の解除に成功したのと、犯人を逮捕できたと知らせてくるのをどこか遠くのように聞きながら、わたしの頭の中は疑問符で埋め尽くされてしまっていた。



 それから。どうやって家に戻ったのかわからず、ただただリビングの床にへたり込んでいた。脳は何か霞がかったかのようにぼんやりしていて、家事などは一切できなくなっていた。
 自分の呼吸音と時計の音、それ以外は何も聞こえない静寂に待ったをかけたのは、陣平が玄関を開け帰ってきた音。出迎えはできなかった。どんな顔をしていいのか、わからないもの。
 背後から、ためらうように名前を呼ばれた。振り返らないわけにもいかず、一度深呼吸をしてから振り返ると、陣平は、酷く驚いた様子だった。

「どうしたんだよ」
「……?」
「泣いてる」

 気づかずに泣いていたらしい。手を頬に当てると生暖かい何かがある。

「……もう、つかれたよ」
「え?」
「じんぺー、はさ、わたしが…おもりじゃないの…?」
「おいどうしたって!」

 職業柄、万が一のことがあるかもしれないということは、この人と籍を入れる時からわかっていた。
 それと同時にわたしがどれだけ愛されているのかも、どれだけ自身を犠牲にして周囲の人間を守ろうとする強い正義心があるということも。でも、この時のわたしはそんな当たり前のことでさえも考えられない程疲れきっていた。

「わかんないよ! しなないって、生きるって言ってくれたあの言葉は、嘘だったの!?」
「!!」
「じんぺーはいつも自分勝手! 勝手に人の下着は見るし、勝手に人の弁当のおかずを食べるし、勝手に一人で決めて進むし、勝手に……っ、し、しのうとするし……!」

 もう訳がわからなかった。落ち着かせようとする暖かな両手を、初めて拒否した。振り払われると思ってなかった陣平は目を見開いて、わたしの咆哮を聞いているだけ。

「ばか、ばかばかばかっ! やだよ、わたし、まだ一緒に、やりたいことだっていっぱいあるのに……!」

 物分りのいい妻でありたかったのに、万が一の覚悟ができている強い妻でありたかったのに。陣平が遺した言葉が全てそれらを壊していく。もう体裁とかいい年した大人がとかそんなことは考えられない。

「陣平がいなくなったら、わたし泣くよ! 泣くに決まってるじゃない!」

 彼は、何を思ってあの言葉を刑事さんに残したのだろうか。
 散々喚くだけ喚いて、わたしは息を整えようと胸に手を置いた。陣平は、動かない。

「……そう言って、佐藤にもひっぱたかれたな」
「ひっぱたかれた……? あの刑事さんが?」

 あいつ、力強いのわかっててやってやがる……とぼやきながらゆっくり、わたしの目の前に屈む。

「……悪かった」
「……それは、何に対しての謝罪なの」
「ぜんぶ。お前を悲しませたこと、すべて」

 まだ残る涙を手で掬いながら、陣平は続けた。

「──確かに、俺はあの時死ぬ覚悟で捕まえる気だった。萩原と俺を狙った犯人を直々にな」
「………」
「でも、できなかった。なあ、なんでだかわかるか?」
「し、知らないよ……」

 だよなあ、と言って、陣平はわたしを抱き上げた。そのまま向かう先はソファーの上。先に彼が座って、膝の上に乗せられる。

「──お前がいたからだよ」

 もう一度お前がいたからと続ける。

「一見心も体も強そうに見えるけど、本当は人より繊細で不器用で、人の痛みには人一倍敏感なお前を、遺していけるわけがなかったんだ」
「……わたし、を」
「まあ、それを思ったのは佐藤に伝言を頼んだあとなんだけどよ」
「だめじゃん、それ」

 罰が悪そうに視線をどこかに向ける陣平に、いつの間にか涙は止まっていて、逆に笑いが出てきた。背中に感じる体温は間違いなく、わたしの大好きな人のもの。
 既に気持ちは落ち着いていた。つくづく陣平は凄いなぁ。

「……泣かせて悪かった。今後は、そういうのは絶対になしにするから」
「うん……わたしも、怒ってごめん」

 肩口に額をぐりぐりしながら、息をつく陣平はほっとしたようにわたしを力強く抱きしめてくれた。ちらりと時計を見れば日付を跨いでおり、捕まえた犯人の事情聴取が明日あると言っていたから、そろそろ寝た方がいいのでは。
 ……でも、もう少しだけ、寄り添っていたいと思うのも事実で。
 ふわふわの天然パーマに手を添えて、労いを込めて撫でていく。いつも、彼がわたしにしてくれていること。ずっと守ってくれるこの手。

「だいすきだよ、陣平」

 そんな夫が、私は大好きなのです。


181030






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