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日が沈み、辺りは真っ暗になっていた。
名無しは、この時間―黄昏時が一番好きなのである。
真っ暗と言ってもまだ、空には夕焼けの赤みが残っている。
それがだんだん消えていくのを見つめれば、一日の終わりが近い事を感じるのだ。
やがて、赤みも無くなり、本当の漆黒が広がる。
ぼんやりと空を見上げてみれば、満月が懸かっているのを見つけた。
ひんやりとした、まるで氷のような色の月。
それでもその光は優しくて、身に沁みてくるような気がして―。
「まあ…。なんて綺麗なんでしょう」
名無しは呟くと、自室に一度戻る。
再び、戻ってきた名無しの手には二胡があった。
彼女の唯一の楽しみであり、趣味であった。
二胡を教えてくれたのは、今は亡き貂蝉という戦姫である。
二本の弦を弓で弾く―。
柔らかい音色が廊下に溢れ、響いた。
それはまるで、虚空を流れていく雲のように。
辺りに広がり、やがて静かに消えていく。
「おや、美しい音色が聞こえると思ったら―」
貴女が弾いていらしたのですね、名無し殿―?
ふとそんな声が聞こえて、見ればそこに郭嘉が立っていた。
片方の手には杯を持ち、足取りはふらふらとしている。
美女、酒、ともに目が無い―そんな噂を聞いていた。
ただそれだけであり、名無しは郭嘉とあまり話をした事が無かった。
「美しい夜に、美しい戦姫が二胡を奏でる…。実に、絵になる」
「そんな―。私はただ弾きたくなっただけで」
「ははは、謙遜していらっしゃるのですね」
郭嘉はそう言うと、笑みを浮かべた。
柔らかい笑みだったので、名無しもつられて微笑む。
ゆっくりと彼は隣に座ると、空を見上げた。
「その二胡は、どなたに教わったのです?」
「貂蝉殿でございます」
「ほお、それはそれは―。なるほど」
一言だけで、納得してしまう。
そして郭嘉は、何かを考えているかのような顔を見せる。
表ではニコニコしていても、裏では何かを企む―。
武将にとって、軍師という生き物は良く分からない。
「すまないが、先ほどの続きを聞かせてくれないだろうか」
「ええ、いいですよ」
名無しは答えると、再び、弦に弓を当てる。
するり、と先ほどまで弾いていた曲の途中が流れる。
途端、何処からか―否、近くから笛の音色が聞こえてきた。
見れば、何と隣に座っている男が横笛を吹いているのであった。
驚いた目を向ければ、「ふふっ」と笑っているかのような目を見せた。
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