「お疲れー」
「おー、お疲れさん」
「気ぃつけて帰れよー」
「また明日ー」
マネージャーのヒビキがブンブンと手を振りながら帰っていくのを見送ってから、白石達と一緒に歩き出す。
いやー、今日の練習もハードやった。
「あ」
時間を確認しようとポケットに手を突っ込んだ所で足が止まる。
「しもた」
「どうした」
「着替えん時に携帯忘れてきてしもた」
「アホか。どないすんねん」
「取ってくるわ」
「ほんま謙也は無駄が多いな」
「やかましわ」
やれやれ、とオーバーに肩をすくめる白石を置いて学校へとUターンする。浪花のスピードスターの俺にかかれば部室まで一瞬もかからんっちゅー話や!
部室に着くと、細く開いた隙間から光が漏れていた。さっき施錠したはずなんやけど、誰かいるんやろうか。何となく、こそこそと隙間から中を覗く。見慣れた部室の奥にある姿見の前に、誰かが立っていた。
(…ヒビキ?)
あの後ろ姿は、ヒビキや。さっき別れたばかりやけど、ヒビキも忘れもんか?
安堵の息を吐いて、声をかけようとして、止まる。
ヒビキの様子がおかしい。そう直感的に感じた。
(…なんやろ…なんで、何もせんと鏡の前に立っとるんや?)
「………、………、」
ブツブツと、ヒビキが低い声で何かを呟く声が聞こえる。あまりに小さな声で内容は分からなかったけれど、なんだか嫌な感じがした。
「………」
ええい!俺は何をビビっとるんや!
相手はあのヒビキやろ!
ちゃちゃっと中入って携帯取ってくればいいだけやないか!
そう自分を叱咤激励しつつ、再度口を開きかけた時、
鏡の中のヒビキと目があった。
「!」
鏡の中のヒビキは無表情だった。俺は今までそんな顔のヒビキを見たことがなかった。前髪の影から見えるガラス玉のような目に見詰められて、俺の身体は硬直していた。
にやり
ヒビキの口角がつり上がり、歪んだ笑みを作る。半月のように細められた両目が、楽しそうに俺を見ていた。
「…っ!」
ゾワッとした悪寒が背筋を駆け上り、俺は反射的に扉から離れた。まずい。なにかがおかしい。怖い。
(やばい)
逃げようと振り返ると、
すぐ目の前にヒビキが立っていた。
「うわああっ!?」
「うえっ?!」
驚きすぎて尻餅をつくと、目を見開いたヒビキが心配そうに俺を見下ろしていた。
「ど、どうしたの!?大丈夫!?」
「なっ、なんっ…!」
口が上手く回らない。心臓が破裂しそうだ。部室とヒビキを交互に見ると、ヒビキは小さく首を傾げた。
「……なにか、こわいものでも見た?」
何故だろう。
いつもと変わらないはずなのに。どこも違わないはずなのに。どうしてこんなに違和感があるんだろう。
「謙也?」
「―――っ見てへん!なんっっも、なかったで!ほんまに!」
ぶんぶんと首を横に振る。必死過ぎやろ、俺、とか思いつつ奥歯が上手く噛み合ってない気がする。
「ふうん…そっか」
ヒビキはそう呟くと、にっこりと笑って「そうそう」と言った。
「これ、忘れてたよ」
「あ、」
差し出されたのは俺の携帯。
何で、とか、どうして、とか聞いてる余裕はなかった。ただ、それを受け取って、「おおきに」と返すしかなかった。
「ほ、ほな俺は帰るで!白石待たせとるしな!」
「うん、またね」
「おん!」
ぴらぴらと手を振るヒビキに背を向けて走り出す。
振り返ったりはしなかった。
見ちゃった。
「……見られちゃった。」