寝起きしている時計塔の最上階には申し訳程度の窓がある。そこからは加音町がよく見渡せるし、風がよく通り光もそこからでないと入らない。不幸を望んで生きる身であれ実際がところは非力な猫であるセイレーンは、そこがことのほか気に入っていた。人間界での猫はおしなべて日向でうたた寝をするような生き物であったし、その習性が染み付いたのかどうかはわからないが、特になにかしようと思わないときのセイレーンはその窓辺でうたた寝ばかりしている。頃は新緑。渡る風も心地よい。いつものようにとろとろとまどろみかけたセイレーンの瞼が、視界をよぎる色にはっと開く。ファルセットががま口の中身を数えながら側を通りすぎた。ふと、目が合う。今から買い物に行くんですけど。じっと睨むようなセイレーンの視線を受けてもなおにこやかにファルセットは言った。どうです、一緒に。なんであんたなんかと。面白いものを買ったんですよ、とにべもないセイレーンを無視してファルセットは目を輝かせる。一緒に行きましょう。あまりに屈託なく言うので、セイレーンはしぶしぶ立ち上がると彼のあたまに飛び移った。器用に箱座りをして、また目を閉じる。
ジャーン、と調子の外れた高音でファルセットが指したのは真新しい自転車だった。前に大きなかごがついている。なによこれ。どうしたの。毎日のお買い物は疲れるなぁと思っていたら。嬉々としてスタンドを外しながらファルセットは言う。周りの人間がこういうものに乗っていたので買ってしまいました。買ったってあんた。メフィスト様はいいって言ってくれましたよぉ。いつものぞろっぺえではなくピンクのシャツとインナーに細身のパンツという格好のファルセットは、セイレーンをあたまに乗せたまま楽しそうにサドルにまたがり、ペダルを踏み出す。最初はゆらゆらと頼りなく進んでいた自転車は、そのうちスピードに乗ってするすると走り出した。揺れるわね。けっこう速いのでしっかり掴まってください。なるほどと彼の頭皮に爪を立てると、爽やかな陽気にはそぐわない噛み潰したような唸り声がした。セイレーン様、もう少し手加減を。フンとセイレーンは鼻を鳴らす。
ファルセットはすぐに気を取り直し、やけに高音のとっ外れた鼻唄を奏ではじめた。セイレーンの首周りの豊かな毛とファルセットの桃色の髪の毛に風が絡んで通りすぎていく。曲がるときには必ず律儀に曲がりますよぉと声を上げるファルセットのおかげで、おちおち昼寝もしていられない。退屈そうにあくびをするセイレーンの視界の端をスーパーがよぎった。買い物に行くんじゃなかったの。せっかくセイレーン様が来てくださったので、少しお散歩でも。前肢で耳の後ろを掻きながら、悪くはないわねぇとセイレーンは目を細めた。どこか遠くへ行きましょうか。あ、海なんていかがです。海。セイレーンは眉間にしわを寄せる。メイジャーランドの七色の海が不意に思い出されたからだ。あの窓から見える人間界の海は、澄みきった青を湛えて悠々とうねっている。それにさえも目をそらしてきたセイレーンだった。あんな光景は、それに連なる記憶は、毒にしかならない。思い出はすべて、今の彼女を傷つけて苛む。
やめておくわ。沈黙を挟み、セイレーンはぽつりと呟く。遠くになんて行かれないもの。だったら行きたくなんてないわ。どうせ行くなら、とセイレーンは一瞬息を切る。舌にわざわざ苦味を乗せるような、その言葉。戻って来られないくらい、遠くじゃないと。言いながら馬鹿馬鹿しいとセイレーンは自嘲ぎみに笑った。それ以外の場所なんて行くだけ無駄だわ。まったく馬鹿馬鹿しいと思う。なにを下らないことを言っているのだろう。セイレーン様は。言葉を選ぶようにファルセットは訊ねる。怖いのですか。その、戻って来られなくなるのが。怖い?いぶかしげにその言葉を繰り返し、セイレーンはゆるゆると進む道の先を見た。そうかもしれない、と思ってしまったからだ。今はただ、自分の中に渦巻く絶望が、どこにもゆけずに朽ちてしまうのが怖かった。メイジャーランドから遠く遠く遠くに来て、それでもなお、振り向いてしまいそうになることが、怖かった。
気を取り直すように首を振り、あんたは、とセイレーンは問う。お気楽な顔して、怖いものなんてあるの?ぼくですか。ぼくは。不意に口をつぐむファルセットに、セイレーンは一瞬なんとも言えない寒気を感じてまばたきをした。沈黙は、恐らくはほんのわずかだったが、それはまるで永遠にも感じられた。怖いものはたぁくさんありますよぉ。それを打ち破ったのはファルセットの場違いなほど明るい声で、セイレーンははっとする。バスドラとバリトンが喧嘩するのも怖いですし、メフィスト様に叱られるのもとっても怖いです。それになにより、セイレーン様に嫌われるのが今は一番怖ぁいです。わたしに。セイレーンはぼんやりと繰り返した。ええ。セイレーン様に嫌われてしまったら、ぼくはどうしたらいいかわかりません。セイレーンはうつむいて足元を見た。ファルセットの柔らかな桃色の髪の毛。自分は、と思う。それを怖いと思ったことがあっただろうか。バスドラやバリトンや、メフィストや、ファルセットを、棄てていくことを。怖いと、思ったことが、あっただろうか。
帰るわよ。毅然とした声でセイレーンは言った。どこへですか。そしてその言葉に、かき集めた虚勢は崩れる。そうだ。わたしには帰る場所なんて。遠く遠く遠くに行きたいと願った日から、そんなものは。言葉を失うセイレーンの足元で、ファルセットがほほえむ気配がした。じゃあ、帰りましょうか。ゆたりとした青空は端の方がうっすらと赤く染まりかけている。今日の晩ごはんはなににしましょう、とのんびり問いかけるファルセットの髪の毛に、セイレーンは言葉を選べないまま静かに頬をすり寄せた。遠く遠く遠くに来てしまった。本当はもう、とっくに戻れない場所にいるのかもしれない。それでも思い出してしまう。それを、ひどく悲しいと思った。ファルセットは優しい。優しすぎる、と思う。いざとなったら。わずかに冷たさを増した風に吹かれてセイレーンは目を閉じる。彼のような男の方が、わたしたちを(、わたしを)、残酷に棄ててゆくのかもしれない、と思った。どこにも行かれないくらい遠くへ。戻って来られないくらい、遠くへ。










しらない合図しらせる子
セイレーンとファルセット

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