花を食むライオン | ナノ
※セイ×ファル不健全
※R15






 ひらひらと桜の花びらが舞い、薄いピンクが地を覆う。風は吹いていない。見頃も過ぎて、あとはただ重力に沿って落ちるだけだ。季節は春、から夏に足を入れはじめ、暖かさが増した時期。空気は澄み、早朝のためか人通りはいつもより少ない。階段を下りてすぐ、たっぷりと敷き詰められた桜色のそれらを少し踏んでみると足裏に弾力を感じ、ファルセットは新しい玩具を見つけた子供のようにぱぁっと笑った。きょろきょろと人が近付いて来ていないかを確認し、くるりと回転、背面にそのクッションが来るようにして、一息吸う。体の力を抜いて、花びらをイメージしながら後ろに倒れ込んだ。
 しかし、出たのは柔らかそうな音ではなく、痛みに驚いた甲高い呻きである。
「・・・痛ぁ・・・」
 意外に、固い。考えてみなくとも当然だ、下にあるのは普段から踏み締められている土で、もとより散った桜の絨毯などいかに弾力があろうと薄い層でしかない。背中をさすりながら起き上がり、夢の見すぎかと肩を落とした。黒い影が視界の端に覗きそちらへ視線をやると、倒れた音に驚いたのか野良猫が走って逃げていくのが見え、つい目で追ってしまう。何となくうずうずして、ファルセットは手櫛で髪を解いた。着いていた花びらが一枚、ひらりと去る。頭に寂しさを感じるのは以前からだったが、セイレーンが消えてからは両方の意味で頭上が寒い。もう年かなぁなんて、少しおどけた感じで呟いてみても余計に悲しくなっただけだった。
 バリトンとの会話を最後に、ファルセットは誰かと接するのを避けるようにしていた。近頃は気を許せばすぐにあの自分が出てくるほどにまでなってしまったからだ。いくら一人でいるように努めようと、仕事柄バスドラやバリトンとは顔を合わせなければならないのだが、少しの間でも離れておくための労は惜しまなかった。長年仲間として肩を組んできたバスドラのことだ、意図的に避けられている事は気付いているだろう。バリトンには避ける原因を見られてしまったし、それでも彼らに何も言えない事がひどく辛い。無論二人の事は信頼している、しかしだからこそ、ファルセットは己の中にいる負の感情を抱く彼の事を言い出せずにいた。自分のせいで二人が悲しみの表情を浮かべるのは、もう沢山だった。
 バスドラとバリトンだけではない、他の皆もだ。ノイズに会えば嫉妬に燃える内側の彼の憎悪はまた肥大するだろうし、セイレーンにも余計な心配はかけたくなかった。彼女達は、仮面の彼のことを言えばすぐにでも話し合いたいと申し出るだろう。それだけは絶対にいけない、とファルセットは思う。話し合いですむわけがない、ノイズとの戦いの二の舞にしてはならないのだ。抑えられるのであれば、自分で抑えておくべきである。
 一人納得したがやはり心のどこかで寂しさを感じ、また負の彼が強くなった気がした。これは本当に誰にも会えなくなるなと思ったその時、何かの気配がして上を見遣る。ファルセットはぎょっとして立ち上がった。
「何してんの、あんた」
「きぇ・・・!」
 セイレーンと言おうとしたのに貴様と呼びそうになり、慌てて口を手で押さえる。噛んでしまった舌がじわじわと痛みだし、鉄の味が薄く広がった。階段の上から見下され、相変わらずの間抜けっぷりねとセイレーンは鼻で笑う。それどころではない、ファルセットはつくづくこの人には振り回されっぱなしだと痛感した。元はといえばこれは内側に潜む彼のせいなのだが、今のファルセットは自分を責めようとはしない。どんどん堕ちていっていると自覚し、嫌気がさして眉を顰めた。こんな自分は嫌いだ、と思う。
「セ、セイレーンこそ何故ここに。」
「朝練よ。町なかで練習したら迷惑になるから広いところでしてるの。」
 セイレーンは背負ったギターを指先でトントンと叩いた。彼女は響達と全てを終えた後、弾き語りとしてハミィと共に日々を過ごすようになった。歌姫と言われていた事もあり、町ではかなり有名でいつも大勢の人が彼女の歌を聴きにくる。そんなセイレーンを支えているのは、彼女の真の力を目覚めさせるほどによく理解し勇気を与えているあの白猫だ。唯一無二の親友として互いを大切に思いあい、誰もいない二人きりの時などは一緒に歌ったりもしている。しかし今日は珍しくその相方であるハミィがいなかった。
「白い猫ちゃんはどうしたんです?」
「え?あ、あぁ、ハ、ハミィ?あの子ならまだ寝てるわよ、響とおんなじでねぼすけなんだから、もう。」
 先程までツンと澄ましていたセイレーンの顔が崩れ、まずい事を聞かれたとでもいうように取り乱す。聞いてはいけない事を言ってしまっただろうか、しかしどうしたのかと問うただけだ。ファルセットはセイレーンの顔をまじまじと見つめた。若干、普段よりも顔が赤いような気がするのは慌てふためいているからだろうか。黄金色の目は潤んでいて、妙に色っぽい。こんな彼女を見るのは彼も初めてで、魅了などよりもまず違和感の方が先にあった。聞かされた理由にちぐはぐなところはないが、なんとなく引っ掛かるものがある。
「なにかあったんですか?」
「な、何もないわよ、あのおとぼけにゃんこに限って!あの子には何もないのよ、あの子には。」
 『あの子には』という事はセイレーンの方に理由があるのだろうとファルセットは推察する。尋ねようと口を開きかけたが、どうせなら聴いてよ新曲なのと矢継ぎ早に言われ遮られてしまった。慌てて話を逸らす彼女にますます不信感を抱く、これはどう見ても様子が可笑しい。しばらく会っていなかったが、それでも人が変わるには短期間である。毅然とした態度で冷酷に指揮していた姿からこんなに変化するだろうか。悪として働いていた頃にバスドラが彼女の事を『緩んでいて頼りない』と罵っていたのを思い出し、彼が見たセイレーンとはこれかもしれないと一先ずはそこに当て嵌める。ギターを下ろし構える様は慣れたもので、緩んでいるわけではないのだが、確かに頼りないというかむしろぎこちない。日頃大勢の前で歌っているのだ、客一人に緊張しているわけでもあるまいに。いったい何が彼女をこのようにさせているのかファルセットには皆目見当もつかずにいた。
 狭い位置に立ちながらギターを弾きはじめる彼女を見て、どうせなら座れるもっと広い場所ですればいいのにとファルセットは思った。歌声は素晴らしいものの、歌姫と呼ばれていたそれはどこへやら、歌う時はリラックスを最低限すべきなのにそれも出来ておらず焦っている。冷静になれていないのが丸わかりだ。階段ではセイレーンが歌っているため座る事も出来ず、立って観察する。美しい音色、ブレのないテンポ、明るい歌。少しばかり声が艶っぽい。強張りながらも全身で音楽を楽しんでいるのがよくわかるが、反対にファルセットは苛立ち始めていた。静めようと内側の彼を抑えつけても黒々とした闇がそこかしこから滲み出る。目を背けても音は入ってくるのだ、今すぐにでも耳を塞ぎたくて仕方ない。

 セイレーン自身もかつては愉快な音楽を煩わしく感じファルセット含む三人と共に身悶えしていた。故に彼の険悪な表情には見覚えがあるが、今はいっそう憎憎しげで陰欝な顔付きをしている。それを見て思い出すのはあの頃に感じた悲愁の記憶だ。責めるような眼差しは今でも目蓋に焼き付いている。『まさかセイレーン様が。』自分はミューズではないと何度言っても頑なとして信じようとしなかった彼らを思い出す度、セイレーンは暗然とした気持ちになった。それを紛らわすように歌に集中した所で、突然体がふらつき力が抜けそうになる。ギリギリ足で踏ん張りをきかせ意識と体勢を保つが、それでも息は荒く体は火照ったままだ。その事を彼に気付かれまいとすればする程、篭る熱は上がっていき理性に薄く靄が掛かる。良い事も悪い事も、消化せず毎日溜めていけば耐え切れない程にまで大きくなるもので、それが限界を過ぎれば破裂しネジが飛ぶ。ギターを弾きながらセイレーンは声を掛けた。
「ねぇ、ファルセット?」
「はい」
 返事の語調はいつもと何ら変わりないが、余程この音楽が嫌らしく、何も考えまいとしているのか視線を逸らしたままのファルセットは上の空だ。共に過ごした月日は短いが元は上司だったのだ、セイレーンは彼が何かを抱えているのは見てわかった。ギターを下ろしながらぼんやりとした頭で軽軽しく、ついでに、とでも思う。彼女は今、己が身の事しか第一に考えられぬのだ。姿勢を正して、腰を低くし久方ぶりに猫の構え。一呼吸置いて、息をすぅーっと大きく吸った。
「こっち見な!!!」
「はっはいぃ!!!」


  がぶっっっっ!!!!!!!



「ぁいっ!!? えっ?! ちょ??? あの・・・ぉ・・・!!!!」
 ファルセットは思わず口元を押さえた。階段上にいたはずのセイレーンが目の前にいる、というだけの事でも頭が追いつかない。下がろうとしてバランスを崩し、ファルセットはセイレーンに押し倒される形になってしまった。桜の花びらが舞い、一瞬だけ二人を隠す。背中を強く打ち、痛みに顔をしかめた。うら若き乙女とはいえ増量した分は増量した分だ、更なる重力で勢いがついた。しかもこれで二度目なのだ、背中には大きな青痣が出来ているに違いない。ひゅう、と口笛が聞こえ、ファルセットは通り掛かりの野次馬が指をさしながら冷やかしているのを見た。『可愛いネコちゃん、お盛んですな。』だって?背骨が酷く痛む、そんな可愛いものではない。手の平にぬるりとした感触がし、口から離して見る。血がついていた。
「ち、血・・・!?」
 三銃士ともあろう者が、口元に円形の歯型をつけられ血で怯むとはなんとも間抜けだ。そんなファルセットの滑稽振りなどセイレーンは丸っきり無視して伸し掛かったまま、血のせいか或は興奮で赤く染まった彼の頬を れる、と舐めた。ひぃと出た声はさながら女である。陽気にあてられたのだ、おそらく、きっと。と理由づけている間もファルセットは顔を万遍なくべろべろと舐められた。『知っているか、ファルセット。』いつぞやバリトンが話していた猫に関する雑学が頭を過ぎり、まさか、と冷や汗をかく。

『猫の発情期は、冬から春の始まりと春の終わりから夏の終わりにかけて、2シーズン。その間に数回発情するのだ。』
『・・・・・・・・・だからなに。』
 バリトンは捕らえた野良猫の肉球をふにふにと触りながら、刈られたばかりの桃色の頭を食い入るように凝視した。誰かの特等席であるそこには何もなかったが、見ているものはだいたい察しがつく。ファルセットは彼が伝えた事と薄くなりつつある頭を少し恥ずかしく感じ、荒らされた髪を整えた。
『・・・バリトン、セイレーン様にはまだ発情期なんて来てないよ。多分。変な事言うのやめて。』
『猫の1歳は14から25歳にあたる。ちょうど成熟してこれから発情する歳だ。』

 可憐だったはずの少女の瞳は鋭くぎらぎらとしていて、狂気に囚われているようにも見える。女性特有の柔らかな、しかし幼さの残る肌がぴったりと密着し、ファルセットはまるで地肌どうしで触れ合っているような感覚がした。滑らかな白い手が激しく貪るように彼の体中を撫で回す。このままではいけないとセイレーンを制するため押し止めようとするが、小さく膨らんだ胸に腕が当たりぱっと手を引っ込めた。なんてことか!これが始めとなって、彼は腰が抜け全身のどこにも力が入らなくなってしまった。一向にされるがままである。あの日バリトンに何を以てどうすれば雌猫の様様な行動を止める事が出来るのかだとかを聞いておけば良かった、と後悔しても既に遅い。ひっぱたかれるのも毛を抜かれるのも、何よりこんな暴行紛いの事も全て無かったかもしれないのに、ファルセットは何もしようとはしなかったのだ。知識がないのだから、いくら頭を働かせても同じ場所をぐるぐると回るだけで対策は浮かびやしない。そもそも、今の彼女は猫に戻れないはずではなかったか。彼は完全に困惑していた。
 だがセイレーンは彼の心中を知る余裕などなく、野生の本能に従うばかりだった。赤く官能的な舌が頬を舐めながら移動し、桃色に隠された耳を髪ごとくわえる。
「ぅ・・・!・・・・・・セ・・」
 声が漏れ、名前を呼ぼうとした所でファルセットは薄紅色の唇にその口を塞がれた。勢いに乗ったまま荒荒しく舌を吸われ、二人の乱れた吐息が混ざり合う。ファルセットの頭は朦朧としてきて、最早抗う事なく快楽に流されるだけになっていった。ついには翻弄されるまま、全てを捧げてしまっても良いかもしれないとも思い始める。
 もがく事は疲れるのだ、ならば沈んだ方が楽になれる。いつかの時もそうだったではないか、ファルセットは自問した。あの闇に向かい呑まれた時、背負っていた黒い雲は跡形も無く消え、一人でも怖くなどなかったし何をしても苦しくなどなかった。歎くのも憤るのも全て遠くのどこかに置き忘れ、何も感じる事なく安寧の中に浸るだけ。諦めれば後は、そうだ、あの自分が全てを引き受けてくれるのだ。
 何かが近付き、聞き慣れた声が甘く優しく語りかける。怖いことは何もない、安心していいよ、お前を裏切りはしないよ。惹かれるこの声に従い、過去にも彷徨っていた闇に足を踏み込めば周りには誰もいなくなるが、ファルセットはそれを気にする必要はないということを分かっていた。なぜなら、あの間暗い中をずっと一人でいても平気だったのは、満ち足りた気分でいたのは、仮面を被る彼が側にいてくれたからだ。柔らかな翼に包み込まれ、ずっとその腕で抱いてくれていたからだ。影がゆっくりと人の形を成して浮かび上がり、妙なる声色で再び耳打ちをする。お前は共にいてくれるか、離れないでいてくれるか。目を合わせれば、互いの同じ瞳には恍惚とした同じ顔が映っていた。色、形、大きさ全て同じなのに、体温だけは感じられない冷たい手がファルセットの手に重ねられる。しかし心の内側から押し寄せた波は安らぐ淡い乳白色でも熱情の炎の色でもなく、墨を垂れ流したような暗鬱とした色だった。
『お前自身が動くんだ。』
 穏やかな低音が染み込み、諭すように何度も頭の内で輪唱する。ファルセットはハッとして目を見張った。丘の上で共に進みたいと言ってくれたのに、思い出の場所で守るように抱き寄せてくれたのに。大切な仲間が、救いの手を差し延べてくれているというのに、自分は何をしているのか。(あああ、僕は、僕は彼らを裏切ろうとしてしまった!)こんな事ではいけない、夢を見ている場合ではない。ファルセットは重ねられた手を跳ね退け、驚いているのか顔を歪めている彼を強く突き飛ばした。


 現実へと引き戻される。深呼吸し不規則な息を落ち着け整えた。汗で体がじっとりとして気持ち悪い。そういえばと、年若い娘に組み敷かれ喘いでいた自分の惨めな姿を想像して、ファルセットは羞恥と焦りで血の気が引いた。どうやら中途半端ながらも脱がされていたようで、胸元に寒さを感じ服の襟を寄せる。外気に晒された肌の部分はほとんど唾液塗れで、袖で顔を拭った。余りの情けなさに泣きたい気分だ、ファルセットは深く息を吐いた。体の上に重みはない。上半身を起こし前を見れば、セイレーンが少し離れた所で座り込んでいる。尻餅をついたらしく、腰をさすっているあたりからするとどうやら突き飛ばされたようだ。刺激で目が覚め正気に戻った彼女の琥珀が、威嚇の眼差しでファルセットを睨んだ。
「痛いじゃない!」
「ひっ!す、すみません!!」
 突き飛ばしたのは悪いが先に襲い掛かってきたのは向こうで、何故こちらだけが謝らなければならないのだろうとファルセットは疑問に思った。はっきり言うと腑に落ちない。ファルセットが一人悶悶とする中、さっきまで自分が何をしていたか忘れたようにセイレーンは遠慮なく彼に近付き、その瞳をじいっと見つめた。綺麗な桃色は一点の曇りもなく澄み切っているが、そこに先程まであったはずの何かが無く、ぽっかりと穴が空いている。清らかなそれは寂しくもあり、セイレーンは哀れみの目をした。彼は、何か間違った事をしたらしい、そしてその事に気付いていないのだろう。無邪気さはときに残酷で、無くしたものなど何も知らぬとでも言うような顔でファルセットはきょとんとしている。セイレーンは彼の手を掴み、俯いて、このままじゃ可哀相だから教えてあげると呟いた。誰が可哀相なのか、ファルセットは全くわからない。
「ノイズとの戦いで悲しみから目を背けるのは間違ってるって気付いてから私、だんだん猫に戻りつつあるのよ。」
 バリトンの言っていた事は正解らしい。だからあんな事をしたのかとファルセットは合点がいったが、思い出してまた顔が赤くなる。彼の脈拍も体温も上がっているのにそれに気付いていない彼女は変に鈍いのではなく、真剣なのだ。
「あの頃はハミィを憎んだ自分が嫌で、響達にはセイレーンの名で呼ばないでって言ったわ。
 でも今は、セイレーンでも構わない。私はあの自分を受け入れる事にしたの。そうしないとあの私がノイズみたいになるかもしれない。悲しむかもしれない。」
 顔を上げ、視線を手からファルセットの目に移す。今の言葉に心当たりはないか、そう思ったからだ。しかしセイレーンが見た彼の表情は、何の事かわからない、といった風であった。伝わりにくくとも、少しは期待したのだが。何も感じていない、純粋で濁りのない瞳に惨たらしさを感じて、彼の手を責めるようにぎゅっと強く握る。この男は無意識に、今はもう全てから解放されノイズとは無関係だとでも思っているのだろう。あまりにも呆気ない。ずるずると纏わり付いていたしがらみである仮面の彼は、いとも容易く見捨てられてしまった。それをわかってやれるのは、同じ境遇にあった猫と鳥しかいない。猫の目つきをしたセイレーンは胸が締め付けられる思いだった。彼のように別の存在として形成されたわけではないが、彼女も以前自分自身に捨てられ、そして捨てたのだ。昔を思い出してか、または同情によるものか、少女の両目には涙が溜まっていた。今、仮面をつけたファルセットはどんな顔をしているのか。それは慰めてやりたいセイレーンにも、見えていたファルセットにも見えない。それでも、仮面の彼の想いが捨て猫と同じである事は彼女にはわかった。全て
から忌み嫌われ突き放された危険色の、または濡れ羽色の鳥でもあるという事も。
「ピーちゃんはね、寂しかったんですって。一言で表せるほど簡単な思いではないけど、それでも、寂しかったんですって。
 ファルセット、あなた泣いてるわ。」
 的外れな指摘をされファルセットは狼狽えた。泣いてるだとか、あの鳥が寂しいだとか。話が見えない。見当違いもいい所で、彼は何故セイレーンが泣いているのかもどうすればいいのかもわからなかった。突然の事に対応出来ず、涙声で話す彼女の頭をとりあえず撫でる。泣いてるのはあなたじゃないですか。そう言った時、ファルセットの視界は歪み、声は震えていた。喉がひくつき、どこも痛くないのに胸の奥だけは苦しい。あれ、と思うと頬を熱いものが伝い、それに続いてぼろぼろと涙が流れた。沢山、沢山溢れ、大きな雫が落ちていく。
「馬鹿ね、自分で自分を否定したら誰だって悲しいに決まってるじゃない。」
 悲しい事など何もない。今のファルセットの気分は晴れ晴れとしていて、いっそ清清しいといって正解だった。内側で存在を主張していた影が微動だにせず、大人しくなっている。それは因縁に決着をつけ奴が消えた証拠だとファルセットは思っていた。深い沼に連れ込まれそうになり突き飛ばした時に、あれはその暗い暗い底へと消えていった。負となる感情を生み出すものはいない。ならば何故彼は泣いているのだろう。ファルセットは表と裏は結局一重である事にまだ気付いていない。が、それは漁りまさぐれば簡単に見え、わかるものだ。彼のどこか奥深くで、黒い影が小さく見え隠れしている。燃え盛る怨恨や憤怒をそれは漂わせていたはずなのに、帯びているのは憂いだけだった。(この涙は、僕のものではない。)
 涙は悲しみに暮れた仮面の彼のものだ。
 ノイズが離れてから影はファルセットしか拠り所がなかったのに、その存在を受け入れてもらえず突き放された影の想いとは如何なるものか。自身を生み出したもの達に唾棄すべきと言われ忌避された鳥の想いとは。認めたくないと抹消されそうになった猫の想いとは。憤慨、とそれだけで表す事など不可能なくらいに多くの感情が縺れ絡まり混ざり合っている。反感、侮蔑、悲嘆、嫌悪、忿懣、様様なそれらが集う中にも、必ず寂しさはあった。
 全てを授けた負の塊である鳥に飲み込まれてから、途方に暮れ消滅に恐怖した時、初めてファルセットに助け出された。例えそれが意図せずにされた行いであっても、絶望のような運命をわかっていた影は嬉しく思い、初めて希望の存在を知り、求めたのだ。後に、分裂させられた仮面の彼は孤独を感じ、笑顔の片割れに憧れ、引き込もうとした。そしていらぬと拒絶され手を振り払われた。永遠に独りと、再び絶望に打ちのめされた影は今涙している。当然の結果だと誰が彼を嗤おう。愚かな仮面が自ら正しい行いをする事は出来ない。負の念はその存在故に歩めないからだ。誰も悪くなどないのだ、仕方ないと諦めるしかない。手を伸ばし救い出す事が出来るのは本人のみ、他は傷の舐め合いで、仮面の彼は堕ちるだけ。唯一の居場所から切り離された影の涙は、拒まれようと同じ肉体から流れ出る。
 ファルセットはセイレーンを見た。年齢も背丈も小さなこの人は、なんでもお見通しなのだと思い知らされる。それと同時に、彼女はもっと早くに多くの事を乗り越えたのだと思うと、ファルセットは頭が上がらなかった。
「悲しみを受け入れて、前に進んでいく事を私達は選んだだけよ。悲しいならそれを糧にして成長していけばいいし、後悔した分だけ間違いを犯す事は減るわ。ノイズがそれをしてくれるの、ピーちゃんのおかげなのよ。
 目を背けては駄目。永遠を願うのも、幸せに向かっていくのも、多種多様で良いと思うわ。それぞれに合っているやり方があるもの。でも、見ない振りをするのは間違ってる。」
 セイレーンはファルセットを抱きしめ、白に赤が差す頬を擦り寄せた。一つに溶け合う涙を流しているのは、猫か少女か、仮面か男か。視界に黒が映り、ファルセットは目をやった。彼が見た黒は、先程一人だった時に去っていった黒猫ではなく、近付きたくとも出来ずにいた己自身だった。正面から向き合えずいつも後ろから手を伸ばすだけだった影が、目の前にいる。これだけだ、これだけが彼に出来る唯一の、闇を持たずして救いを求めるかたちだ。脆い仮面の向こうの顔は、あの禍禍しいものではなくファルセットの表情をしていた。吊り上がっていた眉も目も垂れ、虚勢を張ることなく悲しみをいっぱいに湛えている。大粒の涙が影の瞳から止め処なく溢れ、こぼれ落ち、同様にファルセットのそれも止まることを知らず流れ続けていた。
「助けてあげたいと思うでしょう。それでいいのよ、手を差し延べるだけで、あなたは救われるのよ。」
 言葉は深深と心に刻まれ、ファルセットは自分を責めた。何度間違いを犯しただろう、何度酷い仕打ちをしてきただろう。余りにも哀れで、なんとかしてやろうと思っていても、してきた行為は彼を苦しめるものだった。ごめんねと、心の中で呟く。仮面の彼は首を振り、ファルセットを見て泣きながら笑った。


「痛っ」
 後から口周りが痛みはじめ、噛まれた事をファルセットは思い出した。傷口に塩を塗り込むも同然で、ひりひりと痺れさせる涙が少し恨めしい。小さな悲鳴に何事かと思ったセイレーンが彼から離れ、ファルセットの顔を見て笑う。その可愛らしさが気に障り、見えない自分の顔を照れ臭く感じて両手で口元を覆った。
「酷い顔よ、みっともない。」
「・・・そうですかぁ?」
 笑いつづける彼女を見て、ファルセットはそんなに不格好だろうかと心配になってきた。多くの失態を繰り返してはきたが、一応それでも国に仕える銃士であり面目というものがある。セイレーンは吹聴はしないだろうが、だからといって醜態を晒し続けるのはあってはならない事だ。誇りと威厳を持ち慎み深くあるべき、とぴしっと引き締めたいのだが、気になる口元から手は外せない。
 それよりも、ファルセットには気になる事があった。具合が悪いというか、調子が出ない。沸き上がる何かが胸を焦がし、涙はもう出ないが視界は曇ったままで、頭がくらくらと麻痺している。整えたはずの呼吸も儘ならず、言うなれば病にかかっているような感覚だった。異常なくらいに急速な心臓の拍動が熱を作り、発散したいのに捌け口が見つからない。燃え立つ熱は内側で反射し彼の脳を否応なしに強く揺さぶった。この経験をファルセットは今までにした事がなかったが、奥の根本から感情が出てくるという経験は潜む影の存在を知ってから何度もしていた。つまりこの強い思いは内側の彼のものなのだ。
 正ではないが、暗澹とした負の念でもない。黒黒とした感情はすぐにわかったのに、これを何と呼ぶべきかファルセットは思い付かなかった。仮面の彼は何を考え感じているのか、影を見ればわかるかと思いちらと目を移すが、桜がひとひら舞っているだけで既に誰もいない。照れ隠しのような高い笑い声が聞こえた気がして、次に口は艶めかしい猫撫で声で彼女の名を呼んでいた。こんな声を出す事もまたこれまでに無く、彼自身信じられなかったがそれは表には出なかった。蕩けるような情感の篭った視線がセイレーンの琥珀を釘付けにする。濃く染まった瞳は桃色ではなく、二人を取り囲む純情な淡い桜色とは似ても似つかない。清純であるはずの情景が淫靡な空気の立ち込めるものへと変わり、咎めの邪魔立てをしようにもファルセットは全身のどの部分も己の意思では操れなかった。瞳に映るそれをオペラ色の薔薇咲き誇る舞台とでも言おうか、主役の花は色を深め、肉欲に餓えた獣を蜜が欲しいかと誘う。本来の役者を一人残して。
「これが何なのか俺にはわからない。こんな気持ちは初めてだ。」
「こんな気持ちってどんな気持ちなのかしら。それより、あなたやっと受け入れてもらえたんじゃないの?」
「そんな事は過ぎた事だ。既に主導権はこの俺にある。」
「随分と横暴ね。優位になった途端、手の平をかえしたみたいに。」
「猫の貴様だってそんな媚びた目つきをしていなかったくせに。」
「一皮剥けたあなたもそうなんでしょ。」
「そうだ。でもこれは何なんだ、人はこれを何と呼ぶ?憎しみや悲しみなどではない、もっともっと強い、お前だけに対する感情だ。お前は俺に何をした?何をきっかけに、俺の胸は高鳴るようになった?」
「あなたの目、恋をしている目よ。ファルセット、あなたまさか恋した事ないの?」
 恋!!
 だなんて!(僕だってした事ありますよ!)それは茨のように危機迫るものや前途洋洋と進むものなど様様で、誰もが通るだろう道だ。ファルセットも多く恋慕の情を抱いてきたが、彼が経験した中には肉体に異常をきたすほどのものは無かった。愛憎は表裏一体とは聞くが、影の憎しみを裏返した愛情がこれほどまでに深いものだとは。ますます手に負えなくなるかもしれない、ファルセットは先行きが思いやられた。現に今は影が敵対心を持たないだけで、ああ、彼はこれを恐れていたのに。
 恋??とは、なんぞや。肉体を駆使している影のファルセットは首を傾げた。否定してきたそれを実際に体験した事がないのだから無理もない。粋がっている割にやけにうぶで、上手くいけば従順に育つかもしれないとセイレーンは舌舐めずりをした。
「痛いのキモチイイでしょ?」
 息が詰まりそうだ。死因:窒息死、などと、冗談ではない。セイレーンの事を考えると、胸が苦しく顔が燃えるように熱くなってくる。獲物を前に鋭く光る眼に、蛇に睨まれた蛙の如くファルセットはどきりとした。蛇というより彼女は猫か、なら自分は鼠かと思い、不意に野次馬の言葉が思い出される。『可愛いネコちゃん、お盛んですな。』だって?
 子猫というには、あまりに狂暴すぎる!!!






ライオン:ネコ目ネコ科ヒョウ属に分類される。狩りの方法としては、獲物の口と鼻を顎で塞ぎ窒息させるものもある。
バリトンの『ネコの発情期について』(うぃきさんより)
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