寝起きしていた時計塔の窓から差し込む陽が懐かしい。うすぼんやりと輝く水鏡を前に、ゲーム盤を挟んで石畳に直接腰を下ろしているファルセットを見ながら、メフィストはふとそんなことを思った。ファルセットはしかつめらしい顔をして、手元の兵士を前にひとつ動かす。普段はおっとりとした優しい顔をしているので、真剣に考え事などしていると、まるで別人のように見えてしまうことがままあるのがファルセットという男だ。光源の具合か、たまさか斜め下から照らされて顔の半分に影を浮かべている今などは、部屋の暗さも相まってまるで死人のような見目をしている。なぜかいつでも寝不足気味にげそりと隈を浮かせた目元が、この暗く磯臭い灯台の中で今日はいよいよ鬼気迫って見えた。悪のノイズに染め上げられてもなお匂やかな陽の光が似合ってしまうように思えるのは、振り捨てたはずの郷愁なのかもしれない、と思う。地に埋められて輝くはずもないのはファルセットだけではない。バスドラも、バリトンも、セイレーンだって。
メフィストが物憂く指差した先で駒がゆるゆると動いた。馬をなのめに擦らせる。いつでも王へと食いついていける、との陽動のつもりだったが、ファルセットは自陣の馬を動かした。黒の兵士がかたんと倒れる。やるではないか。口髭を歪ませてそう言うと、ファルセットは盤に目を落としたまま唇だけで笑った。バスドラもバリトンも、こういった手慰みを好まない。形ばかりたしなむだけでさして強くもないファルセットを相手にするしかないのには、いささか感じるものがないのでもなかった。所詮は砂上の楼閣、あめ玉でできた玉座に座る紙の冠の王である。砂上の楼閣で指す手慰みとはいえ、“殿様に花を持たせる”までもない滑稽な勝負はまさに今の状況そのものだった。あたまの奥がちりちりとむず痒い。伝説の少女戦士たちの、宝石のような瞳に射られるたびに弱くなるようなメフィストの変化に、あるいは、彼らは気づいているのかもしれない、と思う。いつか終わってしまう、と感じていた。終わってしまったら、どうなるのか。その先は模糊なるノイズにまぎれて見ることができない。
法皇を動かしてファルセットの兵士を蹴転がす。ファルセット。盤に集中しているふりをしながら、メフィストはやはり物憂げに問うた。勝つと思うか。わずかな沈黙を挟み、それは、とファルセットは言った。白い駒の上で手をうろうろと動かしながら。勝つでしょう。たぶん、負けなければ。最もだ、と思ったので、ファルセットが兵士長に指を伸ばすのを黙って見守った。一手。一手。また一手。静かな室内には呼吸の音さえ響くようだった。あの少女たちとも。メフィストは目を閉じる。こんな風に戦うことができたら。誰も傷つかないまま終われるのではないか。いつか。いつかの終わりを迎える、その前に。メフィスト様。その言葉に、メフィストははっと目を開いた。ファルセットが訝しげにこちらを見ている。どうぞ肩の辺りで手のひらを広げるのは、もう指してしまった、という合図らしい。慌てて盤を見下ろす。歯抜けの目立つ黒い駒の、女王を、進めようとしてふと手を止める。代わりに遊軍のようにぽつりと立っていた法皇を動かした。白の馬を取る。
考え事ですか。やはり盤から顔を上げないまま、ファルセットは兵士をひとつ動かす。見透かされたようで、メフィストは不覚にも動揺した。貴様が存外にやるのでな。ひねり出したその言葉にファルセットは顔を上げ、わずか眉をひそめた。メフィスト様。そして自分の耳を指差す。その仕草に、メフィストもつられて自分の耳を差した。どうした。最近よく聞こえなくて。ファルセットは苦笑する。音量、上げすぎじゃないですか。そうだったかな、とメフィストは既に興味をなくして頬杖を突く。そんなこともあるだろう。不幸の歌姫が正義の戦士になってしまうようなご時世だ。いつまで続けるのだろうな。胸の内で呟いたつもりだった言葉は、そのままため息のように溢れた。ファルセットは顔も上げない。メフィストの言葉が本当に聞こえていないようだった。そんなこともあるだろう。メフィストの気持ちそのもののように、兵士長がだらしなく盤を這う。盤上では膠着すらままならないのに、メフィストはすっかり手詰まりだった。彼の周りのありとあらゆることに。
水鏡がちかちかと数回瞬いた。そろそろ魔力も限界のようだ。どこへ行ったやら、姿の見えないバスドラとバリトンも、そろそろ戻ってくる頃だろう。倦みきったメフィストの様子に気づいたのか、ファルセットが顔を上げる。もう終わりにしますか。そうだな。メフィストが手を振ると、駒も盤も一瞬で消え失せる。恐らくは永遠につかない勝負だ。だったら永遠のまま消してしまうのが一番いい。腕を上げたな。半ば本気でそう言うと、ファルセットはにこりと笑った。優しい男だった。今もそうであるなら、それはとても不幸なことだろうと思う。勝つと思うか。だからもう一度訊いてみた。いつか終わってしまうものならば。終わってしまう前に、永遠になることができるなら。ファルセットは少し考えるような仕草をして、やはりにこりと笑った。先ほど動かした兵士で女王を取れば、白のチェックメイトでしたよ。メフィストは目を見開く。それと同時に魔力が切れ、玉座の間は暗闇に閉ざされた。暗闇の中でメフィストはさっきの盤を思い出そうとした。しかしどうしてもうまく思い出せない。暗闇は瞳の奥で永遠に広がっていくようだった。分け合うことすらできないものならば、
「しらないほうがよかった」









しらない合図しらせる子
メフィストとファルセット
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