寝起きしている時計塔の最上階には申し訳程度の窓がある。そこからは加音町がよく見渡せるし、風がよく通り光もそこからでないと入らない。以前まではそこでセイレーンがよくうたた寝をしていたのだが、度重なる失敗でそんなことをしている余裕はなくなった。それだけならまだしもセイレーンは彼らを裏切り、あろうことか4人目のプリキュアになってここを出ていってしまった。今その窓辺にはセイレーンではなくファルセットが日がな一日立ち尽くし、なにもすることがない日にはなにをするでもなく窓の外をぼんやりと眺めている。セイレーンが太平楽に眠る姿を見るたびに苛立ち、隙あらば蹴落としてやろうと思っていた(実際一度蹴落としたがセイレーンは何事もなかったかのように戻ってきた)バスドラは、今日もまた物憂げに窓辺に肘をつくファルセットの背中をちらりと見た。ファルセットがなにを考えているのか、いかなバスドラであろうと想像は難くなかった。互いにまとまる気のないような上下関係ではあったが、セイレーンに一番真摯に尽くしていたのがファルセットであったことは疑いようのない事実である。
のそりと隣に立つバスドラに、ファルセットが視線だけを向け、気の抜けたような作り笑いを浮かべた。ここからはなにが見えるんだ。大きな顔を窓から覗かせ、バスドラはわざと気づかないように問う。遠くが見えますよぉ。とおーくが。そう答えるファルセットの顔は眠っているようだ、とバスドラは思った。前からあった目の下の隈が濃い。ごまかす気力もないほどセイレーンに入れ込んでいたのかと、感慨のようなものを覚えないでもなかった。そういう感情と縁を切るために送り込まれた彼らである。あぁ、あと、音符を探しています。先程よりかは幾分しゃきっとした声でファルセットは言った。音符?バスドラは眉を寄せる。こんな場所から見つけられるはずはないだろう。いえいえ、こう見えてぼくは目がいいですから。見つけるだけなら得意なのですよ。冗談ともつかないその言葉にバスドラは乾いた笑い声で答えた。確かにこの男は音符を見つけるのは上手かった、と、4人でそれをしたときのことを思い出す。それもまた忠誠心がさせたことならば。セイレーンは本当に馬鹿なことをした、と思わざるを得ない。
ふと、視線を落とす。肩にかかるファルセットの鮮やかな桃色の髪の毛の、一房だけがやけに長く伸びている。バスドラは手を伸ばしてそっとその髪の毛を手に取った。どうしたんです。いや、髪の毛がな。自分の容姿を鼻にかけるあまり我褒めの過ぎるバリトンとは違い、ファルセットは見た目には大して頓着しない。ここだけ長いぞ。切らないのか。なにをです。意外なことのようにファルセットが言うので、バスドラはまばたきをした。このままだとだらしがないぞ。人間界には、なんだ、髪の毛を切る仕事をしている連中がいるだろう。唐突に饒舌になるバスドラを、ファルセットは不思議そうに見上げた。しばし目を合わせたあと、いいえ、と優しくほほえむ。このままで平気です。どうせ誰も気にしませんよ。バリトンに見つかったらうるさいぞ。それでもファルセットはかぶりを振る。変わってしまうのは嫌です。今持っているどんな些細なものでも。ぼくがもしも変わってしまったら、次に、ぼくは見つけてもらえないかもしれない。そう言ってファルセットは痛いように笑った。そうか、と口の中で呟き、バスドラはそっと手を下ろす。髪の毛がそれに合わせて柔らかく揺れた。
見つけてもらいたい相手がいるのか。視線を窓の外に向けながらバスドラは問いかける。間を置かず、ファルセットが頷く気配がした。たとえどんなに離れても、ぼくはあのひとを裏切れない。いつか、あのひとはぼくを。突然糸のように張り詰める空気に、バスドラははっとファルセットを見た。ファルセットもまた、同時にバスドラを見上げる。ゆっくりと。真っ赤に爛れた夕焼けが真横から射し込み、ファルセットの桃色の髪は夕焼けを透かしてまるで血のように赤々と燃え上がった。なんの表情も浮かべていないファルセットの顔の右半分に影が落ちる。まるで禍々しい仮面のように。バスドラは目を見開く。だが、次の瞬間にはファルセットはまた窓の外に顔を向ける。いつものファルセットの、穏やかな、優しい横顔。ほんの一瞬。まばたきほどのその異変に、手のひらに浮いた汗をごまかすようにバスドラもまた遠くを見た。気のせいだろう、と、汗の手のひらを握る。変わらずにいれば、いつかあのひとはまたぼくを呼ぶ。やけに確信に満ちた声でファルセットは言った。ぼくはあのひとを裏切れない。わかっている、とバスドラは頷く。セイレーンは全く馬鹿なことをした。目の奥まで赤く射られながら、バスドラは彼女の不在を初めて恨んだ。
ファルセットは首を回し、そろそろごはんの時間ですねぇと伸びをした。今日のごはんはなにかなぁ。バリトンを呼びながらのんびり歩み去るファルセットの後ろ姿を見送り、バスドラは詰めていた息を吐いた。再び窓の外を見る。おもちゃのような町並みに、人間たちは幸せそうに行き交っていた。その感情と縁を切るために送り込まれた彼らであったはずだった。それでもあの女は行ってしまった。一体この世界になんの未練があって、そちらを選ぼうというのだろう。あの女を、自分はやはり憎んでいると思いながら、バスドラはファルセットがそうしていたように窓辺に肘をつく。遠くが見えるとファルセットは言った。馬鹿馬鹿しい。窓の向こうには息が詰まるような人間の世界があるばかりだ。爛れた夕焼けに染められた息が詰まるような人間の世界を、ファルセットは毎日のように眺めている。飽きもせずに。さてはセイレーンに代わる好い女でも見つけたかとバスドラは少し笑った。あんなにもあの優しい男が望んでいるのに、どうせならばそうであってほしいと思った。








しらない合図しらせる子
バスドラとファルセット

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