ではご褒美に甘いモノを

ふっ、と短く息が溢れた。ダメだ、見つかってしまう。苦しかった。それでも激しい動悸を隠そうと、必死になった。すぐそばに人がいた。見つかったら、逃げ切れる気がしない。木陰に隠れて、必死に気配を殺した。倒れそうになる足を、無理やり立たせた。
バタバタと足音が聞こえる。それが聞こえなくなったところで、そっと顔を出した。誰もいなくなったことを確認してから、その場に座り込んだ。早く帰りたい。そう思った。屋敷に帰ったら、まず体を洗おう。汗や血を洗い流して、新しい衣に袖を通そう。酒に溺れて寝てしまうのもいいかもしれない。実に自分らしくない。いったい誰に影響されてしまったのだろうか。それから、それから、
「何をしているんだ、お前」
はっとして、顔をあげた。同時に武器を構えた。しかし足に力が入らなかった。立ち上がることもできない。まともに戦えるはずがなかった。あぁ、私はまだ、死ぬわけにはいかないというのに。
男の下品な目の光に、恐怖で動けなくなってしまった。武器が手から滑り落ち、抵抗もできなかった。

陸遜は飛び起きた。寝汗がひどい。夜着が汗で体に張り付いていた。何が何だかよくわからない。とりあえず、脳裏に浮かぶのはぼろぼろな自分の姿だ。吐き気を催した。それを堪えて、陸遜は寝具から出た。口を押さえながら水を探して、それで体を拭いた。朝からひどく疲れていた。それでも仕事がある、休めはしないのだ。
「どうしたの、陸遜。元気ないんじゃない?」
宮中に向かうところで、凌統と会った。うっすらと汗をかいているあたり、一度走り込みでもしてきたのかもしれない。
「気のせいですよ、凌統殿」
手に抱えた竹簡が落ちないように気を付けながら、陸遜は得意の笑みを浮かべた。それが気に入らなかったのか、かえって心配になったのか、凌統は黙って彼の頭をくしゃくしゃと撫でていた。何するんですか、と片手で手を払う。身長差が、恨めしい。いずれは、と思う。自分だって、けっして背が低いわけではないのに。
あ、と凌統が思い出したように付け足した。
「呂蒙殿が、あんたの話をしていたよ」
「呂蒙殿が?」
「そう。知らなかったよ。あんたら、そういう仲だったんだね」
「どういう意味ですか、凌統殿。あまり私を茶化さないでください」
「悪く言っているつもりはないって。俺は、陸遜の味方だって」
「凌統殿……」
「だから、無理しないでさ、俺らに相談でもすれば楽になるかもよ、ってこと。甘寧なんかに聞くより、俺のところにおいでよ。あ、やっぱり呂蒙殿か」
「からかわないでください!」
「おっと、怒んないでよ。それじゃあね、陸遜」
逃げるように去っていく。その方向は幕舎で、これから調練をするのだろう。飄々として、けれど真面目な凌統に、陸遜は悪態も言えなかった。この地点で遊んでいそうなのは、甘寧くらいだ。もしくは、姫様方が各々の想い人の話で盛り上がっているはずだ。想い人の話か。陸遜は唇だけを動かして、呂蒙の名を呼んでみた。気恥ずかしかった。呂蒙を頼ればいい。凌統の言ったことを思い浮かべた。少しだけ気分が晴れた気がする。早く仕事に区切りをつけて、今日は呂蒙に会いに行こうと思った。

上司もなかなか人使いが荒い。つくづくそう思う。いきなり仕事場に現れては、有無を言わさない物言いで仕事を押し付けてくる。そんなこと、間諜にでもやらせればいいのだ。それなのに、それなのに!
気持ちでつけられた護衛を二人ほど伴い、陸遜は都城を出た。それほど遠くない場所だ、明日には戻れるだろう。それでも気は重い。馬に跨がり、言葉もなく、ひたすら道を進む。何もない道だった。そのはずだった。
帰ったら、滞った仕事をしよう。間諜の情報をまとめて、次の戦のことを考えよう。今はまだ、戦が必要なのだから。そういうことを考えている方が、こんな雑務でしかない仕事より余程いい。これで本職が滞ったとしたら、次は何と言われるのだろうか。本当に気が重い。
そんな雑念が悪かったのだ。矢が空気を裂く音で意識が戻った。護衛の二人が剣を抜いたが、それは頼りないものだった。矢に対しての調練は受けていないに違いない。剣を振っているだけで、これが呉軍かと思うと頭が痛くなった。あてにならないものは、早々に切り捨てた。狙いは陸遜だ。双剣で矢を切り落とし、手綱を握り、逃げ出した。逃げ切れるか、必死になった。死なない、私は!
はっとして、視界が白くなった。まず馬が前足を折った。それで陸遜は地面に叩きつけられるように投げ出された。全身が痛いなど言う暇もなしに、顔を隠した男が剣を降り下ろしてきた。何とか直撃は避けたが、足を切られた。浅手だが、鋭い痛みに声が漏れそうになった。気力で男を切り伏せた。すぐに後ろの敵が追ってくる。足をかばいながら、陸遜は木陰へと身を隠した。ついていない日だ、では片付けられない事態だ。
剣には毒が塗ってあったのかもしれない。しかし、即殺できるようなものではない。代わりに体が痺れる。
これは、今朝見た夢だ。足はうまく動いてくれない。今も立っているのはギリギリで、すぐに座ってしまいたかった。もし見つかったら、という恐怖があった。
バタバタと足音が聞こえる。後ろで構えていた弓兵だろう。消えた陸遜を探している。ざわざわとした音、それが聞こえなくなったところで、そっと顔を出した。誰もいなくなったことを確認してから、陸遜はその場に座り込んだ。嫌な予感がしてならない。まだ危急の最中だ。武器を手にした。立ち上がることは難しい。護衛はいない。どうすればいい。
「何をしているんだ、お前」
はっとして、顔をあげた。下品な笑いを浮かべる男だった。夢の通りだ。命運は、ここで尽きるのか。
「嫌だ……!」
双剣を力の限り、薙いだ。毒の回る体では、頼りないものだった。いとも簡単に弾き飛ばされ、陸遜は満身創痍となった。
(死ぬのですか、私は、ここで)
振り上げられた敵の刀に、陸遜は絶望した。

「何をしている」
鈍い音と、男の短い悲鳴が聞こえた。陸遜の視界に、大きな影ができていた。頼りになる、大きな背中だった。
助かったのだ、と思うと、急に力が抜けていた。
「あ、おい、陸遜!」
そのあとのことは記憶にない。

寝具の上で、陸遜は状態を起こして竹簡に目を通していた。凌統はそんな彼を、呆れたように見ていた。
「少しくらい、仕事も休んでりゃいいのにさぁ」
「そういうわけにはいきません。それに、何もしないでいるのはつまらないですし」
「あー、気が詰まるよ。ならさ、碁でも打たないかい」
「そうですね、構いませんよ」
凌統の碁の腕はたしかだ。陸遜は竹簡を片付け、場所を作った。
ぱちぱちと石が並んでいく。久しぶりではあるが、忘れてはいなかった。さすがの凌統は余裕の表情だ。陸遜が焦りだした頃だった。
「お、邪魔したか」
「呂蒙殿!」
ガシャンと、陸遜が碁盤を払いおとした。碁石が散らばり、凌統は唖然とした。咄嗟に、そこまでしなくともいいではないか。呂蒙もそれを奇妙な目で見ていた。被害者は、おそらく凌統だ。誰かの、いや、陸遜の、冷ややかな視線を感じた。半ば自棄になり、凌統は場を後にした。
「陸遜、お前なぁ」
「お気になさらず」
それよりも、と陸遜は先を急がせた。まったく、と甘やかすのも、今だけの話だ。
結局、夢は夢だった。だからこうして、陸遜は呂蒙に救出され、ここにいる。実に満足だ。呂蒙の背に手を回し、陸遜は不快な気分など忘れていた。






---------------

タイトル 薄声

無駄に長かったが、なんか、こねたにいれてもいいレベルだったかもしれない



 

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -