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処女作集:翔べない蝶

(2011/05/29)

濃姫と光秀


冷たい鎌を首に感じながら、すぐに訪れるであろう死を静かに待っていた。上総之介様、今、濃めもあなたの元へ参りまする。夫を殺された怒りも、悲しみも消えた。復讐心はどこへいったのか。濃姫の心は行方知らず。
「帰蝶、嘆かないのですか?」
帰蝶。そう呼ぶのも、今は光秀一人になっていた。すべて、捨ててきたから。夫のために、すべてを捧げ、葬ってしまった。故郷も、その父さえも。
「嘆くことなんかじゃないわ。これは、当然の報いなのよ」
薄く笑う濃姫。たとえ死の間際といえど、その美貌は変わらない。報いという言葉を、光秀はすぐに否定した。
「これは報いではなく、必然なさだめ、ですよ。何だって、最後は骸になってしまう」
魔王も、蝶も、もちろんこの死神も。織田はすでに崩壊していた。光秀が謀反を起こすずっと前から、織田は崩壊している。所詮魔の者は、人の世で生きるには規格外過ぎたのだ。内側から壊れていた。誰もが信長のためにと、たった一人で奮闘していた。ならば、外を叩けば、すぐに崩れてくれる。智将の一面を持つ光秀が、それに気付かないわけもなかった。
蝶(あなた)にはもう、飛ぶ場所がないでしょう。ならば翅はもう必要ないはずだ。そう言って、光秀は濃姫に刃を向けたのだ。濃姫は四肢に傷を付けられ、もう立つことすらできなかった。首を刈ってしまえばもう終わり。そこにきて、光秀が急に鎌を下ろした。
「いえ、やめました。飛べぬ蝶を殺しても、おもしろくありません」
濃姫の声が怒りに震えた。
「何、同情かしら? そんなものいらないわ。私に惨めを晒して生きていけというの」
「はい」
にっこり、と戦場に似つかわしくない笑み。さらりとした銀髪を靡かせながら、光秀が自然に笑っていた。狂気を感じさせないほどの、やわらかい顔。言葉が出てこない。濃姫の視界が歪み、頬を滴が滑り落ちた。嘆く、ことなんか、ないのに。
「死んだほうがいい。そんなことを考える人間なんか、殺しても快感にならない。私が、いつも言っていることでしょう」
濃姫の名も使えず、今までと打って変わった陳腐な生活をしていく。ろくに歩けず、ろくに動けず、飢えに飢えて苦しみもがく。親愛なる蝶のその姿を、想像するだけでも愉快だ。
(愉快なはずなのに、こう、胸が痛むのはなぜでしょうね)
川のように、人間の体から真っ赤な血液が流れていく。あちこちから広がる、人間が焼ける嫌な臭い。死屍累々の、修羅の巷。炎が立ち上るここは、本能寺。魔王は討たれ、魔王の子も倒れる。蝶は身を隠して生き延びて、死神は姿を眩ませ生死不明。




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