誰にも渡さない(哲良)
おやつや給食で残った「最後の一個」が遠慮の塊なんて言うけど、そんなの万人に通用するわけがない。少なくとも、俺とコイツには。
「くれよ」
「いや、俺ンだ」
皿の上の一枚のクッキーを掴んだまま睨み合う。半分ずつそれぞれの手が押さえつけているせいで、もろい焼き菓子は今にも潰れて崩れてしまいそうだ。
けどそんな事はどうでもいい。いやよくないけど。今ここで退くことだけは男の意地に賭けて許されない。
そうこれは……戦いだ。
「先に取ったの俺じゃん」
「茶請けに出してやったのは俺だ」
「お前が作ったんじゃあるまいし」
「けど金払って買ったモンだ。決定権は俺にある」
抗議しても、さも当然の顔で言い返されて、ぐぬぬと歯ぎしり。もっともらしく言ってるけど屁理屈だろ?家主だからってえらそうに……。
「俺の!」
「俺のだ!」
「しつこいぞ!」
「そりゃテメェも一緒だろうが!」
次第に双方の語気が荒くなる。このままだと喧嘩に発展するかも……ふいにそんな不安が脳裏を掠めた。
でも無視。退かない。諦めない。後のことは考えなくていい。今はただ、こいつに勝つ事が出来れば……!
端から見たらくだらない争いかも知れない。しかし俺達は本気だった。
たった一枚のクッキーでも、食べ物への執念を侮ってはいけない。ましてや相手が常日頃行動を共にしている親友なら、自然と張り合う気持ちが出てきてしまうというもので。
「ゼッッタイ離してやらないからな!」
「その台詞そっくりそのまま返してやんよ!」
――膠着。
お互い一歩も譲らないまま、秒針の音だけが時を刻んでゆく。
ピタリと動きを止めた指先は震えすらも押し殺して、ジッと目標物に意識を注視した。
何もしていないように見えて頭はめまぐるしく働いている。高度な心理戦ってやつだ。
どちらかがモーションをかけたその時、勝負は一瞬で決着する。危うい均衡が崩れた時が最大のチャンスだ。逃しはしないぞと、俺は全神経を研ぎ澄ませた。
(勝算は――ある!)
俺は鋭く良樹の仏頂面を睨み上げた。
こいつには油断がある。自分の方が立場が上という優越感が。
だからきっと隙が生まれる。俺の方から勝手に折れると思い込み、気を抜いた瞬間、
――力ずくで、奪い取る!
変化が訪れたのは数分後のことだった。
まっすぐだった良樹の目線が、チラリと横に逸れた。バカめ!と内心したり顔。
もう集中力が切れたのか、浅はかだな。勝利の手応えをつかみながらも、俺はますます良樹の一挙一投足に意を注いだ。
ここで焦っては元も子もない。ギリギリまで引きつけて引っこ抜く。賢くいこう。気の短い誰かさんとは違うってトコ、見せてやるよ。
「………あ、」
そらきた!間抜けな声が狭い部屋に響く。床の一点を凝視して、テーブルからは完全に意識が離れた様子。則ちそれは勝負の放棄。俺が獲物をどうしようが、文句は言えないということ。
それじゃあ遠慮なく……もらったぁ!と俺は指先に力を込めた。抵抗を失った焼き菓子はスルリと奴の手を抜けて、我が物と収まる……
はずだった。
良樹の次の一声を聞くまでは。
「ゴキブリ!哲志の足下!」
「――ぇええぇぇ!?!?」
……まさしくこういうのを条件反射というのだろう。焦りを含んだその単語を聞くやいなや、俺の足はバネのように床を蹴り飛び跳ねていた。
勢い余って背中から倒れ込む。打ちつけた肩が痛い。それにも構わず首を持ち上げ害虫の姿を探すも、
「バーカ」
気づいた時には、もう手遅れになっていた。
「……ンの、卑怯だぞ!?」
「卑怯もクソもあるか。この程度のひっかけに騙される方が悪い」
仰ぎ見た先、思うさま見下した良樹のにんまり顔が覗いていた。掲げ持ったクッキーは、ニセのゴキブリ発言にうっかり手放してしまったところを悠々と拾い上げたものだ。
たばかれた…隙を狙っていたのは向こうも同じだったのだ。
今ごろ知った所でどうしようもない。油断した演技に油断した、そこでもう決定的にしくじっていたのだから。
恨みを込めて良樹を睨む。けれども大して効いた様子はなく、大げさに息を吐くとあきれ口調でこう言ってきた。
「お前はほんっっと臆病だよな?」
「な…はぁあ!?」
思わず叫ぶと小憎たらしい顔が満足げに頷く。
「たかがゴキの一匹でビビりすぎだっての。幽霊だけじゃなく虫も駄目だなんて、まんま女子じゃねーか」
「…な〜に〜を〜っ!!」
すっかり気をよくしたのかここぞとばかりに揶揄り通され、怒りのボルテージは急上昇。ダンと拳を打って立ち上がると、良樹はこれ見よがしにクッキーをひらひら振ってみせた。
「んだよ、文句あるなら言い返してみろ」
「……かえせっ!」
みなまで聞かず、一直線に飛びかかる。だけど相手も予想済み。単純な動きは苦もなく見切られ、空しくたたらを踏んだ背後でトドメの煽り顔が意地悪く歪んだ。
「返すもなにも…最初からお前のじゃ、ねぇよ!」
言うやいなや、ぽーいと空中に投げられたのを最後に、
あんなに欲しかったクッキーは、ぱっくりと良樹の口の中に放りこまれてしまったのだ。
「……ああー……」
「……ったく、余計な手間掛けさせんなよな…」
絶望にまみれる俺の前で、非情にも咀嚼したものを飲み下す。伸ばしかけた手は何ら対処できずに止まり、だらんと降ろされた。
それを見てフンと鼻を鳴らす良樹。
「残・念!だったな!」
試合終了のゴングだ。俺は目の前が真っ暗になり力なくうなだれた。勝ち誇った笑みが惨めさを際立たせる。敗北感に膝が折れそうになった。
――だがまさにその時だ。脳裏に囁きかけるものがあったのは。
(――いいのか?)
ピクリと良樹が反応を示す。警戒心のない顔。もう終わった事だと、完全に弛みきっていた。
(ほんとにそれで、いいのか?)
だから今度は難なく肩を掴めた。切れ長の瞳がカッと見開かれる。
(このままコケにされっぱなしで、本当に……)
お構いなしに強く押すと、何と言ったのか短く悲鳴が。知ったことかと俺は吼えた。
――いいわけ、ないだろ!
「舐めんな!!」
――ドスンッ
全体重を乗せた攻撃はそのままバランスを失わせ、二人の身体を床に叩き落とした。
視界が回る。激突した額が痛い。
沈黙のなか、それでも俺はシッカリ目的は果たせていた。
「――っは、あっまい…」
「甘い、じゃねえぞこの野郎!」
唇を離すと同時、すかさず飛んできた抗議の声に、にこやかに笑って俺は返した。真っ赤な顔に涙目では、天下の不良も全く怖くない。形成逆転、胸のすく思いがした。
「何でこんな…っ」
「何でって仕方ないじゃん。良樹が勝手に食べちゃうから」
「普通にそこであきらめろよ!」
「やだ」
言ってまた口づけた。確かにまぁ、ちょっと意地きたないかもしれないけど。口腔内に残った甘味だけでもほしい、だなんて。
でも食べたかったんだよどうしても。どんな手を使ってでも。意地は意地でも押し通す。それが心意気ってもんだ。
それに解らせるのには丁度いいしな。俺を甘く見るなよ…ってね。
「やっぱりさ」
「………は、」
息継ぎの合間の荒い呼吸。きゅっと眉根を寄せて仰向けに見つめてくる。
羞恥心でいっぱいの表情は女の子みたいで、俺は苦笑するのを寸でのとこで押し殺した。舌先で掬った砂糖の味が、じわり広がる。
「ケンカなんかしないでさ仲良く分け合った方がイイよな!」
「………同感だ」
応えを紡ぐ湿った吐息。こんな目に遭うくらいなら、大人しく半分に割れば良かったと。
ああ、そっち?言われてみればそのほうが楽だけど……ぼんやり考えながら良樹の顎に指を滑らせ、つたうよだれを拭った。分かりやすく反応を寄越すのが、見ていて面白かった。
「なあ、」
「…んだよ」
「もっかい、しよ?」
「はぁ!?」
今度こそ頭から火を噴きそうな勢いで良樹が絶叫した。予想通りのリアクションだけどさらりと流し、俺は頷く。
「だって、そのほうが楽しいから、さ」
指先についた唾液をはむりとくわえ、努めて優しく語りかける。あまいあまい、二人で共有する味。
最初は食べ物だけへの執着だった。けどぬるい唇の温度とか、背中がぞくぞくする感覚とかも知ってしまって、もっとほしいって思ってしまったから。
だから、溶けてなくなるまで。おいしくいただいちゃっても、いいよね!と返事を待たず噛みついた時には、もう抵抗する力は失せていて。
それを同意と都合よく受け取ると、俺はゆっくり繰り返し、柔らかい内壁をなぞったのでした。
めでたし、めでたし!
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140字題で出たやつを、もったいないのでssにしてみました。