「だーれだ?」
不意をついて視界を塞いだ。誰もいない屋上、木立を鳴らす風の音だけが静かにそよいでいた。
「……あー……」
一拍、間を置いて返ってきた迷うような生返事。後ろから抱き寄せた頭がぎこちなく身じろぎした。
手のひらを掠める睫毛の感触はせわしなくまばたきを繰り返している。
「なんだこりゃ」
たっぷり逡巡した後に良樹が下した結論がそれだった。真面目に答える気はない。ふざけてるなら怒るぞ?…けして本心ではない怒気を水面下に隠して。
「お前ノリ悪いな」
「や、悪いもなにもさっきからここにいたろ?」
「そーだけど」
「そーだけど……って意味分かんねぇ」
純粋な戸惑いを発露する声音に、知ってる、と呟いた。こんな脈絡もない思いつきの行動で振り回すなと、お前は言いたいんだろう。その裏にある感情の機微には気付きもしないで。
「…何の用だよ」
「ん?」
「まだるっこしい真似してないで、言いたい事あるならハッキリ言え」
ほら。今度は苛立ちの籠もった言葉を投げ掛けてきた。バカだなぁ、言えば済む問題ならわざわざ遠回りなんてしないのに。
「別に?」
「じゃあ離せよ」
素っ気なく答えると、強気な語調に不安の色が混じる。見え隠れする恐怖。コントロールを奪われたことへの――。
ああそうか。俺は今こいつの世界の一部を支配してるんだ。じわりと湧いたその実感が言い知れぬ胸の高鳴りを呼び起こした。
「やーだよーだ」
「……いつも思うけど変なやつ」
わざとおちょくってやると諦めた声で良樹の身体の力が抜けた。ろくに抵抗もなく降参されて、危機感の欠如に苦笑してしまう。
無防備な背中を自分の方へともたせ掛け、頭上に広がる青空へと目を転じた。きらきらと真昼の太陽が輝き、かすれた白い雲が浮いている。
この天然の空の色は、誰かさんの瞳の色を映したみたいだ。遠く透き通ったその果てを見つめながら、ひとつひとつ言葉を紡いだ。
「そういうお前は随分変わったよな」
「あ?」
「二年に上がったばかりの頃は、そりゃもうやさぐれてて誰も近付けようとしなかったじゃんか」
「うっせぇやさぐれとか言うな」
「ほんとだよー。そっからお前と友達になるの大変だったんだからな」
「悪かったな愛想なくて」
「でも友達同士になってからは学校にいる時間も増えて……普通にみんなとも仲良く出来るようになった」
「……まあな」
ちょっとだけ恥ずかしそうに肯定する声を聴きながら、俺は回した腕の力を僅かに強めた。まんざらでもない様子の言葉に、ちくりと心が痛んだ。
「驚いたよ。直美や篠原はまだ分かるとして、鈴本や篠崎とも知らない間に話すようになってるし、森繁なんていつ仲良くなったんだ?」
努めて明るい声でそう続けた。腹の底でくすぶる黒い感情はひた隠しに。
「い、いや、他はともかく篠崎は委員長だからさ、必然的に話す機会はあるっていうか、別にそんな親し」
「すごいよ」
遮って、額を髪に押し当てた。照れ隠しなんて聞きたくない。放った一言は笑い声を含んでいて、皮肉なもんだと自分の外面の良さに溜め息が出た。
さらさらと短い髪の心地よさに目を細め、数秒反応を待つ。
さすがにおかしいと思ったのだろうか、良樹は言いかけた言葉を訝るように変えた。
「お前…怒ってんのか?」
少し頭を浮かせて良樹を見る。よく判ったな、半分だけ正解だ。尤も、素知らぬ振りは続けるけど……。
「怒ってなんか……本当にすごいって、思ったんだよ」
引き結んだ唇を吊り上げてうそぶいてみる。ふん?と胡乱気な声には耳を貸さず、矢継ぎ早に続けた。
「ひとりぼっちだったのが半年足らずでさ、いっぱい友達が出来たんだ。もっと誇っても良いと思うぞ?」
出会った頃と比べ、良樹の世界ははるかに広がった。学校に居場所も出来た。それはとても喜ばしい事なのだと思う、……けど。
「これからも色んな人と知り合って、関係築いていってさ。そーやってお前が成長してくの側で見ててさ、ほほえましいなーなんて思っちゃったりして」
こいつの分かりにくい優しさも、今では理解してくれている人も沢山いる。俺の他にも、何人も。
「お前は俺の母親かよ」
だから、いつか、いつかは、
「たはは、かもなー!」
――俺の存在は良樹にとって、必要のないものになってしまうかも知れない。
(あぁ、やっぱダメかな?こんなコト考えちゃ…)
他人と仲良くされるのが嫌だなんて、正直に言ってしまえばどんな顔をされるだろう。目の届かない所に行ってほしくない、何とかして繋ぎ止められないかと必死で模索したり。
いっそのこと、俺以外は見えないようにしてやりたいと、身勝手な夢想ばかりが膨らんで。
そんなことしたって何にもならない。せっかく開けた道をふさいでしまえば、確実にこいつを苦しめるのだと、頭ではわかってる、理解ってる、でも、
(あんま、遠くに行かないでくれよ)
なにがあっても離れたくはないと、そうひっそり願うことくらいは、許してくれないだろうか。
じっとり汗ばんだ髪の匂いを吸い込んだ。
鼻孔を近付けたそれがさんさんと光を反射して、眩しさで涙が出そうになった。
もうすぐチャイムが鳴る。昼休みが終わる。二人だけの時間も。
「………哲志」
呟くように良樹が呼んだ。向こうもそれに気付いているのか、いい加減外せと催促の意味を含ませていた。
やっと名前を呼んでくれた、そう不思議な感慨を覚えながら、けれども戒めは解かぬまま。
「いいよ、サボっちゃおうよ」
繰り返す呼び声を打ち消して、腕の中の温もりを心に刻みつけた。
諦め切れなくて、ごめん。でも今は、今だけは。
想い叶わずとも、俺だけの世界にいてください――。
「……ったく、勝手にしろ」
ややあって良樹が呻いた。わけが解らないと心底呆れた響き。解らないなりに、気の済むまで付き合ってやろうという、温かな心の表れだ。
ずるいやり方だけど、利用させてもらおう。その代わり、これが終わったらもうただの親友に戻るから。
首元に顔をうずめて、シャツの上からバレないように口づけた。
晴天の片隅で、消えかけの月だけが、不安定な慕情の目撃者だった。
***
5月23日がキスの日だったので。束縛+目隠しが書きたかっただけ。