「冬獅郎書類出来たよ」
「あぁ、ご苦労だったな」

はい、と目の前の冬獅郎に書類を手渡す。冬獅郎は手に持っていた筆を一旦置き、私の書類を受け取っては誤字等が無いか確認をするなり「もう上がっていいぞ」と告げた。しかし掛軸時計を見てみると、其処に刻まれていた時刻はまだ夕刻にも至らなくて。

「冬獅郎が終わるまで此処で待っててもいい?」
「…いや、今日はもう自室に戻って休め」

「今朝雛森に付き合わされて疲れただろ?」なんて、私の事を心配してくれているのか、そう言って冬獅郎は私の頬を擦った。そんな些細な優しさと指から伝わる熱に、胸がギュッと締め付けられる。私は微笑みを洩らしながら「それじゃ今日はもう上がらせて貰うね」と紡いだ。

「また明日な」
「うん」

踵を返し、冷めた扉に手を掛ける。そしてスッと扉を開けたその瞬間、何故か「…○○」なんて冬獅郎に引き留められた。くるりと振り返り、軽く首を傾げる。

「なに?」 
「…いや、その、今朝…さ、雛森に何か言われたか?」

眉を顰めながら尋ねてくる冬獅郎に、私は疑問符を浮かべ「え?ううん」と応える。すると冬獅郎は安堵したのか、顰めていた眉を緩め、ホッとしながら「…そうか」と紡いだ。そんな目の前の彼に、軽い不審感を抱く。

「引き留めて悪かった、気を付けて戻れよ」
「あ、うん…」

けれど彼に「何で?」なんて深く追求出来ないまま、私は渋々執務室を後にした。

静まり返った廊下に私の足音ばかりが虚しく響く。誰も居ない廊下を歩きながら思い出すのは今朝の事。
あの後、私は桃ちゃんと他愛の無い話をして昼までと言う限られた時間を過ごした。今のところ桃ちゃんの私に対しての態度も、私の桃ちゃんに対しての態度も、私と桃ちゃんの仲も、何一つ変わっていない。
ただ変わった事と言えば、それは私が桃ちゃんに向ける、笑顔で。心から笑えないのだ、どうしても。

「…人は哀しい生き物、か」

不意に私の脳裡に今朝桃ちゃんが言い捨てた言葉が過った。
分からない。何故突然私にそんな言葉を言い捨てたのか、そして、言い捨てた彼女のこの言葉の意図が。
なんてそんな事を考えていたら、気が付けば私は己の自室の前まで辿り着いていて。ああそう言えば私、久しぶりに部屋に戻ったな。
そう思いながら私は扉に手を掛け、ガチャリと開ける。しかし、私の視界に飛び込んで来たのは、私が見慣れている筈の部屋では無かった。
え、と躰が硬直する。扉を開けた瞬間、まるで鼻を突くかのように襲い掛かって来た強烈な血臭に顔を歪ませるも、目の前の光景に、眼を見開かずにはいられなくて。

「…嘘、でしょ」

一歩、また一歩と、恐る恐る部屋に足を踏み入れる。足場が無い程に酷く荒らされたこの部屋は、以前の面影をすっかりと無くしてしまっていた。
机はボロボロの状態で逆さまに引っくり返され、クローゼットの中身は全て剥き出しにされ、小物や窓硝子は割られ、お気に入りだったカーテンや衣服等もビリビリに切り裂かれ、羽毛布団も無惨に破かれたせいで羽毛が床一面に散乱されており、終いには白かった筈の壁には真っ赤な紅の血で大きく、尚且つ乱暴に『死ね』と沢山、殴り書きされていて。
しかしそれは壁だけでは無かった。部屋全体に、その血が夥しい程に付着されていたのだ。

「…酷、い」

一体、誰がこんな。
地獄絵図とでも言えよう室内を、まるでスローモーションかのように見渡す。神経を集中させて霊圧を探ってみるものの、残念ながら全く察知なんか出来なくて。
霊圧を完全に消せるだなんて、ただ者では無い筈だ。そう確信した時、足裏に小さな硝子を踏んでしまい「いっ」と声を上げながら足元を見た。刹那、足元に落ちていたある物を見て言葉を失ってしまった。
がくり、と力無くその場に座り込んでしまう。最早座り込んだ場所は汚いだとかそんな事、気にしていられなかった。小刻みに震える手を静かに伸ばし、ある物を、…一つの写真立てを、手に持つ。
その写真立ては無惨にも割れていて。そして割れた先に写っていたものは、幸せそうに笑う私と、照れ臭そうに顔を顰めている、冬獅郎で。

「…っ」

瞬間、私は極度の怒りに襲われた。赦せなかったのだ。私の大切な思い出にまで傷を付けた事が。それと同時に悲しみと恐怖が躰中に駆け巡る。何故、こんな酷い事をされなければならないのか、理解に苦しんだ。

気が付けば私は割れた写真立てを持ったまま、部屋から飛び出していた。がむしゃらに独りぼっちの廊下を走る。瞬歩を使う事すら忘れてしまうくらいに、ただがむしゃらに彼の居る執務室まで、走る。
冬獅郎を巻き添えにしてまで冬獅郎に助けを求めようとしている訳じゃ無くて、だからと言って私の代わりに犯人を捕まえてやっつけて欲しい訳でも無くて。
ただ、何故だか無性に冬獅郎に側にいて欲しいと想ったのだ。このやり場の無い怒りと不安と恐慌と悲しみを、彼が側にいる事で取り除いて欲しかったのだ。


…それなのに、



「あっ…シロ、ちゃ…」
「ひな、森…」



この執務室の扉の奥から聞こえる聞き慣れた二人の淫らな声に、私の中の何かが音を立てて崩れた気がした。それと同時に、まるで奈落の底に突き堕とされたかのような錯覚を覚える。
この一枚の扉の奥で、今二人がどんな事を繰り広げているのか、一々この目で確認せずとも理解出来てしまう自分を、自虐的に嘲笑った。あれ程までに込み上げていた様々な感情が、一瞬にして一つの『呆れ』へと変わる。


…本当は、あの時から分かっていたんだ。冬獅郎と、桃ちゃんの関係を。そして彼が私の側にいてくれたあの一週間、彼は毎日と言って良い程、桃ちゃんの匂いを連れて私の側にいてくれた事を。
ちゃんと気付いていた。でも、気付かないふりをしていた。心渦巻く確信に勝手に蓋をして、何処までも違うと否定をして、二人を信じるなんて言っておきながら、本当は現実から、そして真実から逃げていたんだ。

けれどその結果残ったのは、この無様に成り果てた、ワタシ。

片手で髪をくしゃりと掻き揚げながら壁へと凭れ掛かり、そのままグ、と写真立てを持つ手に力を込めた。元々割れていたこの写真立ては、更にぱきぱきと小さな音を立てながら罅割れ、私の手の平に食い込む。そして手の平に食い込んで出来たその傷口から、ポタポタと新鮮な血が垂れ、そのまま地面へと落下した。けれど不思議な事に、痛みは全く感じなくて。だけどそれが余計に、切なくて。

「…バッカみたい」

なんて、乾いた笑いと共に静かに吐き出したこの言葉は、虚しく廊下の中へと消えて逝くだけだった。



残酷過ぎる君を前に

(私は泣く事も出来ないなんて)