「××三席、朝食はちゃんと食べなきゃダメですよ」
「食欲無いんです」

翌朝、窓から差し込む光で私は目を覚ました。見慣れない天井と壁が視界に入り、今は四番隊の救護室で入院中だった事を思い出す。
ああ、昨日のアレは夢ではないのだろう。鮮明としていた為、夢として誤魔化すには無理があった。

堕ちる、堕ちる深く昏い思考の奈落の海。最初に浮かんで来た思いは、細かな疑問だった。その後に押し寄せて来たのは、大きな悲しみと苦しみと悔しさと苛立ちと嫉妬と辛さと、そしてまた悲しみと。
そんな負の無限回帰に囚われていた昨日の私は、ただ涙を流す事しか出来なかった。そして現在進行形でまだ僅かにそれに囚われている今の私は、大好きな食事さえも喉に一口も通せずにいて。
そんな私を心配した卯ノ花隊長が優しくそう言葉を紡ぐも、今はそれさえ鬱陶しく思えてしまい、どうしても冷たく罵ってしまう。八つ当たりだなんて、子供がする事だと言うのに。

「それよりいつになったら私は退院出来ますか?」
「早くて後四日で退院出来るでしょうね」
「ほんと「ただし、」

「…ちゃんと食事を取っていればの話ですが」なんて、ニコリと微笑む卯ノ花隊長に、私は僅かなる寒気を覚えた。穏やかな微笑みの筈なのに、何故か恐怖しか感じれない。
そんな私は微笑さえ浮かべれず、苦笑しながら渋々「食べ終わったら直ぐに呼びます」と告げる。すると卯ノ花隊長は「お願いしますね」と言いながら、私に四の字を見せ、そのまま病室を後にした。
卯ノ花隊長が去ったのを確認して、ホ、と安堵しながら起き上がる。お世辞にも豪華と言えない食事を前に、私は力無く箸を持った。
そんな私の脳裡に突如再び過るのは、昨日のあの絶望的な光景で。結局あの後此処に来る事は無かった冬獅郎に、怒りを覚える。やり場の無い怒りに、私は箸を真っ二つにへし折りたい衝動をグ、と堪えた。

「…いつからなんだろう」

いつからあの二人は、始まっていた?

私が目を覚まさなかった間に?それとも、初めから?幾ら頭を働かせても、本人に聞かぬ限り、真実なんて分かる筈も無くて。
もしかしたらアレは、何かの事故だったのかもしれないし、或いは私と喧嘩した事に冬獅郎がまだ怒っていて、それの仕返しなのかもしれない。
ああそうだ、まだ浮気だなんて決まっていないじゃない。
…あれ、もし浮気だとしたら、どっちが浮気相手?

「…私だったら笑い話にもならないわね」

眼球が痛くなった。きっと今涙を必死に堪えすぎているせいなのかもしれない。未だこの現実をどう受け止めていいのか、分からずにいるんだ。
スッと小さな引き出しの中から数枚の書類を取り出す。昨日冬獅郎が忘れて、そのまま渡せず置き去りにしてしまったあの書類だ。あの後、きっとこの書類が無ければ冬獅郎が困るだろうと言う理由だけで、結局取りに戻ってしまった私は、一体どこまでお人好しなのだろうか。無論、冬獅郎だからと言う理由もあるけれど。
じー、と皺くちゃになった書類を見つめる。綺麗に綴られた彼の名に、何故か胸が苦しんだ。

「○○、入るぞ」

すると、不意に扉越しから冬獅郎の声が聞こえ、私は飛び上がらんばかりに驚いてしまう。何故か反射的にそのまま書類を布団の中に隠しては寝込んでしまった己の謎めいた咄嗟の行動に嘲笑する暇も無く開かれた扉にゴクリ、と唾を飲み込んだ。

「具合はどうだ?」

部屋に足を一歩踏み入れるや否や私にそう問い掛けて来た冬獅郎に、私は戸惑いがちに「あ、うん全然平気だよ」と応える。すると冬獅郎は「そうか」と安堵した表情で言い、そのまま近くに置いてあった椅子にぎしり、と軋ませながら座った。

「それより冬獅郎、仕事は?」
「ん?あぁ今日は非番だから無えよ」
「…そっか」

…今私の目の前には、昨日他の女と、況してや私の親友と唇を交じり合わせていた本人が此処にいる。昨日の事を聞き出すのには絶好のチャンスだと言うのに、何故だろうか。中々聞き出せずにいるのだ。そう、真実を恐れている私が、此処にいるの。
気まずい空気が、全身の肌を突き刺す。もしかしたら気まずい空気だなんて錯覚に陥っているのは、私だけなのかもしれないけれど。

「つか昨日此処に書類見なかったか?」

辺りを見渡しながら紡ぐ彼に、私は暫時黙り込んだ後「…ううん、見なかった」と応える。
意味も無く吐いた嘘。やっぱり私は、お人好しなんかじゃなかった。だって本当のお人好しさんはきっと、そのまま困らせてしまえだなんて思わない筈だから。
だけど意外にも冬獅郎は「そうか」の一言だけで、そこまで困った素振りを見せなかった。あれ、と軽く首を傾ける。
なんだ、あの書類はそんなに需要のある書類じゃなかったのか。需要のある書類でも何でもない書類を私はわざわざ冬獅郎に届けようとして、それであんな場面を見てしまったと言うか。

この書類の、せいで。

「…ねぇ冬獅郎」
「なんだ?」
「今日は桃ちゃん来ないの?」

ずる賢い私は、冬獅郎を試してみる事にする。少しは動揺するんではないかと思い、態とらしく彼女の名を口に出してみる。が、やはり冬獅郎は、僅かな動揺さえも見せなくて。
どうだろうな。私の瞳を見据えながら紡ぐ冬獅郎に、何故か疑心を抱けない。まるで昨日の件は嘘みたいな目の前の冬獅郎の態度と言動に、私は本当に嘘だったのではないかと、本当に夢だったのではないかと思い始めてしまう。

「それよりお前、飯ぐらいちゃんと食えよ」

だけどそれは、冬獅郎が私に朝食を食べさせようと、半ば強制的に起こさせた刹那に漂った冬獅郎の死覇装に染み付いた香りに、アレは嘘でも夢でもないのだと、思い知らされてしまって。


「…冬獅郎、桃ちゃんの匂いがする」


すると、面白いくらいに私を見つめる冬獅郎の瞳がぐらり、と揺らめいた。それは彼を良く知らない者にも簡単に見抜けてしまうような、大きな揺らめき。
瞬間、まるで世界の終わりのような極度の絶望感に襲われた私と、この世の全ての時間が停止してしまったかのような冬獅郎との間に、重苦しい沈黙が流れた。
開け放たれた窓から流れ込む風が、そんな私達二人の髪をゆらり、と靡かせる。すると黙りこくっていた冬獅郎が、次いで今度は強かに此方を見据えてきた。

「…まぁ、昨日は雛森の自室にいたからな」

もっと別の言い訳でも言うのだろうと思っていた私は、冬獅郎のまさかの意外な発言に驚きが隠せなかった。え、と声を洩らす。
すると、冬獅郎はそんな私の頭を優しく撫でながら、軽く微笑気味に「だから昨日もあのまま此処に来れなかった。…だが安心しろ。疚しい事は何も無えから」と紡いだ。

嘘吐き。

疚しい事は何も無い人が、普通他の女と接吻なんてする訳がないじゃない。バカ言わないでよ。たったの一日だけで桃ちゃんの匂いが全身に染み付くだなんて、そんなの有り得る筈が無いでしょう。
なんて、眉根を寄せながら内心確かにそう確信を持てても、それとは真逆に、頭の中では確かに混乱し始めていて。

分からない。冬獅郎が何を考えているのか、分からない。どうしてもっと下手な言い訳を言わないの。どうしてもっと上手な嘘を吐かないの。どうしてそうやってまだ私に優しくするの。ねぇ何が嘘で、どれが真実なの。一体私は、何を信じたらいいの。

「冬獅郎…」
「ん?」
「…好き」

誰よりも好きなの。小さく告げると、冬獅郎は僅かに目を見開き、そして軽く微笑みながら「あぁ」と言って私をギュ、と抱き締めてくれた。だけどやっぱり彼は、そんな私に「俺も好きだ」だなんて言葉を囁いてくれる事は、無かった。



欺瞞に彩られた現実

(それでも愚かな私は己の目よりもまだ君を信じていたいと想ったの)