任務に失敗したあの日、そのまま死んでいれば、ああどんなに楽だっただろう。


「朝から随分と派手にやられちゃったみたいだね」
「…っ!」

ふらつく足取りで執務室に向かえば早速視界に飛び込んで来た、今最も会いたくない人物に思わず息を呑む。居る筈の乱菊さんが居なくて、その代わりに居る筈の無い桃ちゃんが居た事に驚かずにはいられなかった。
何であんたがこんなところに、なんて疑心を抱くも束の間、直ぐに冬獅郎に会いにでも来たのだろうと確信する。

「シロちゃんは?」
「…非番」
「なあんだ、残念。折角会いに来たのにな」

ぐっと伸びをしながら、ソファーに座る事で脚を組む彼女を視界に認めるや否や、やはり冬獅郎目的か、とぐっと眉間に皺を刻ませた。
数時間止まる兆しを見せなかった傷口から溢れ出る紅が、ようやく止まった今、ギュッと強くその腕に爪を立てる事で複雑な感情を抑え込む。
痛みは感じなかった。理由は分からない。痛みに慣れてしまったからなのか、それとも渾沌と渦巻く胸の痛みが勝っていたからなのか。
冬獅郎が非番で居ないと分かった今でも、未だに五番隊に戻ろうとしない彼女に、目障りだからさっさと私の視界から消えろよ、と眼付きで訴える。
ああ、神様は枯れ果てた私の心に、一時の安らぎすら与えてはくれない。何処まで苦しめば私は楽になれるのだろう。何処まで悲しめば私は幸せになれるのだろう。それとも、もう私は幸せになどなれないのだろうか。
不意に、桃ちゃんはゆらり、とその漆黒の瞳を動かす事で私を捉え上げた。まるで悪魔に睨まれたかのような気分に陥り、ゾクリと背筋が粟立つ。彼女は私の躰を舐めるように見回した後、次いでにやり、と口の端を上げながら口を開いた。

「ねぇそれ、リストカットって言うんだっけ?」

私の腕を指で差し、軽く首を傾げながら訊ねて来た彼女に、不覚にも心臓が跳ね上がる。情けなく思えた。まさか、意図も簡単にこの女なんかに気付かれてしまうなんて。ギリッ、と奥歯を噛み締める。
うるさい。そう言い放とうとすれば、突如桃ちゃんがまるで誰かに取り憑かれたかのように「あは、あははははっ!!」と甲高く笑い出したものだから、お蔭様で何も言えなくなってしまった。
お腹を抱えながら、まるで私を愚かとでも言わんばかりのその彼女の笑い声が鼓膜と室内に反響する。ぐっと更に眉間に皺を刻ませると、桃ちゃんはゆらり、私に眼線を戻した。そして、一言。

「○○ちゃん、その傷のせいで頭いかれちゃったの?」

言って、桃ちゃんは己の側頭部をとんとん、と叩きながらひたすら私を笑い続けた。その傷、と言うのはきっと昨夜冬獅郎に突き飛ばされた際に生まれた頭の傷の事だろう。
怒りと憎悪が、躰の芯から込み上げて来る。けれど私は必死にその穢れた感情を我慢する事で堪えた。

「ねぇどうだった?隊員達にも裏切られた気分は」
「っ!何であんたがそれをっ…!」

ぐわっ、と目を見開きながら声を張り上げる私に対し、彼女は顔色一つ変える事無く私を見据え続ける。寧ろ浮かべるその笑みに、より一層皮肉が煽った気がしたのは、きっと気のせいではない。

「何でだと思う?」
「…っまさ、か」
「そう、そのまさか」

…あたしが、そうさせた。

平然たる表情で応えた目前の相手に、一瞬私の頭の中の色が消えるように真っ白になってしまった。どくどく、と脈打つ鼓動が強くなるに連れ速度を増して行く。
本当は心の何処かで勘付いていた。けれどそうでは無いと、そうであって欲しくないと心のどこかで細やかに祈っていた私は、もしかしたらこの上無い程滑稽で愚か者なのかもしれない。

「人っておバカさんだよね、ほんと」

簡単に人を信じちゃうんだから。
軽く鼻で笑いながら、桃ちゃんはそう吐き捨てた。瞬間、沸々と込み上げていた怒りと憎悪が、まるで爆発したかのように一気に私に押し寄せて来たのが分かった。
ソファーの軋む音が室内に鳴り響く。気が付けば私は、桃ちゃんの上に跨り、桃ちゃんのか細い棒のような首を両手でぐ、と絞め上げていた。
とくっとくっと手の平から彼女の咽が跳ねるのを感じる。けれど彼女の顔に浮かぶ冷酷な笑みは、相変わらず消えてはくれない。不思議だった。首を絞めているのは私の方なのに、なのに何故か私の呼吸が彼女よりも酷く乱れていたから。

「ふふ、あたしを殺すのも悪くないかもね」
「…全部…全部全部全部全部あんたのせいでっ」

手に力が篭る。括り殺したい訳ではないのに、何故か身体が言う事を利いてくれない。まるで全身の血が酷く暴走しているのではないのかと思えるくらいに、自棄に身体が熱かった。
もしこの光景を、この醜い私を今此処で目の当たりにしたら、冬獅郎は一体どんな反応を示すだろう。悲しむだろうか。それとも傷付くだろうか。それとも、即座に私をその愛おしい手で殺しにかかるのだろうか。
私の瞳に、殺意と言う名の炎が宿る。幾らか細い首を絞め上げる手に力を加えても、歪んだ表情を一切見せる事の無い彼女に、まるでその代わりとでも言わんばかりに私の顔に浮かぶ歪みが増した。

「…親友だと、思ってたのに」
「そう」
「っ何で…何でこんな事するの!」
「…何で?そんなの決まってるでしょ」

○○ちゃんが、大っ嫌いだからだよ。

悪意の滴るような言の葉が、そっと耳を撫でた。ぐらり、頭の中が眩暈に襲われる。嫌い、嫌い、嫌…い。彼女のこの言葉が、何度も私の脳裏に反響する。刹那に抜けていく力と、熱くなる眼頭。ああ、純粋に悲しいと思ってしまった。

「ちょっと○○あんた何してんのよ!!」

すると、突如開かれた扉に、聞き慣れた声音。振り向くか否かのところで、私は声の主、乱菊さんに腕を掴まれ、そのまま桃ちゃんから引き剥がされた。
まるで我に返ったかのようにハッと肩を震わす。恐る恐る見上げると、血相を変えた乱菊さんが其処にはいた。
解放された桃ちゃんがむくり、と起き上がり「けほ!けほっ…!」と、涙目になりながらも、苦しそうに呼吸を整える。今までうんともすんとも声を洩らさなかった彼女が、突然乱菊さんが現れた事で顔を苦しげに酷く歪ませたのだ。
それを演技だとも知らずに、乱菊さんは慌てて桃ちゃんの傍らまで駆け寄っては、彼女のその小さな背中を優しげに擦ってあげる事で宥めさせる。それを、私はガクガクと震える躰を叱咤させながら、まるで生を喪った生き物のような眼差しで視界に認めていた。

「あたしは大丈夫です…乱菊さん」
「大丈夫って、だってあんた今っ…」
「本当に大丈夫です…それに、

…こう言うのは、もう慣れましたから」

苦笑紛れの頬笑みを乱菊さんに向けた桃ちゃんに、私はえ、と目を見開く。慣れた…?まるで私が幾度も桃ちゃんに手を挙げているかのような物言いをする彼女の言葉を、無論今さっきの光景を目の当たりにした乱菊さんが信じない筈も無い訳で。
乱菊さんはぐっと眉根を寄せた後、次いで「…一体どう言う事なの、○○」と声を震わせた。澄んだ空のように美しいその水色の瞳は、怒りと怪訝と険悪で満ちている。

「っわ…たしは、ただっ…!」
「言い訳が聞きたい訳じゃないのよ、ちゃんと答えなさい」
「…っ」

刹那に頬を伝ったのは、一粒の涙だった。それが合図だったのか、一度流れ始めた涙は次々に溢れ出し、顎を伝って床に落ちて行く。何故涙がこんなにも溢れ出るのか己でも良く分からないまま、必死に何か言葉を紡ぎ出そうと心懸けるも、中々声が出てくれない為、結果、小さな嗚咽が洩れただけで終わってしまった。何らかの糸が切れたかのように、涙が止まらない。意識とは違う所で流れ続ける涙に、私は咄嗟に手で拭い始める。
すると、乱菊さんはそんな私を視界に認めるや否や、軽く眉根を綻ばせて小さな溜め息を零す。

「…ねぇ○○、一体何があったかは知らないけど、それでも今あんたが雛森にしようとした行為は決して赦されぬ、犯罪なのよ?」
「…はい」
「もしこの事が瀞霊廷中に知れ渡ったら、間違い無くあんたは処刑逝きと化すわ」

どくん。心臓が大袈裟と言っても過言では無い程、大きく脈を打った。今まであんなに震えていた躰も、止まる兆しを見せなかった涙も、どれも嘘みたいにぴたりと止まる。
まるで彫像の如く固まってしまった私の脳裏に響き渡るのは、乱菊さんが言い捨てた『処刑』と言う二文字の言の葉。ああ、もし乱菊さんが来ていなければ、今頃、私は。

「…取り敢えず、この事は隊長には黙っておくわ」
「っ!?」

すると、乱菊さんの発言に過剰なまでの反応を示したのは、私を此処まで無様に仕立て上げた桃ちゃんだった。眼球が飛び出るんではないかと思える程に目を大きく見開きながら乱菊さんを視界に認めるその瞳には、最早普段ある愛嬌なんてモノは施されていない。

「ちょっと待って下さい乱菊さん!あたし殺されかけたんですよ!?それを黙っておくなんて「雛森」
「…っ…」
「……隊舎まで送ってあげるから、あんたはもう五番隊に戻りなさい」

すると、望んでいた展開と大分異なった事に悔しさが隠し切れないのか、桃ちゃんは俯くと同時に拳を強く握り締めながら暫し黙りこくった後、次いで、驚く程静かに「…分かりました」と、声を洩らした。
そしてそのまま乱菊さんに支えながら私の前を横切る際に重なった彼女の瞳孔には、ただひたすら鋭く、ただひたすら冷たい殺気がチラついていたのを、きっと乱菊さんは知らないだろう。



揺れる世界の真ん中で

(私は私の筈だった、のに)