もう、どうしたらいいのか分からなかった。 「冬獅郎」 「…○○か」 「入ってもいい?」 「あぁ」 スッと冬獅郎の自室の扉を開ける。無人の夜中の廊下に響き渡るこの扉音は何だか新鮮で、冬獅郎の部屋に入る事は何度もあったと言うのに、何故だかいつにも緊張が増して自然と躰が強張った。 一歩一歩と部屋の中に足を踏み入れる。すると直ぐに冬獅郎が視界に飛び込んできた。風呂上がりなのか、少しだけ銀の髪が濡れているのが分かる。この部屋にはまだ桃ちゃんの匂いが染み付いていなくて、私はホッと胸を撫で下ろした。 「どうしたんだ?こんな時間に」 「何て言うか…中々寝付けなくて」 「…眠れないのか?」 「うん」 この言葉に嘘は無かった。何故なら荒らされた私の部屋には相変わらずの強烈な血臭等が充満していて、寝ようにも眠れないのだ。 挙げ句の果てにはいざ寝ようと心掛けても、不意に桃ちゃんが私に吐き捨てたあの沢山もの酷な言葉が何度も脳裡に甦り、眠れなくなると同時に更に頭の中が混乱し始めてしまって。 …そう。私は五番隊を後にしたあの後、極度の混乱に陥っていた。そして混乱する頭の中でこれからの事を必死に思考を巡らせていた。これからどうしたらいいのか、どうするべきなのか。どうしたら冬獅郎は私の側から離れずに済むのか、どうしたら私だけを見てくれるのか。そしてどうしたら私は、彼女に勝てるのかを。 …答えは案外簡単に見つける事が出来た。 それは、私が彼をもっと愛せば、彼もきっと私だけを愛してくれる筈。 と言う、今の私にとって唯一の光でもあり唯一のあの女への対抗でもある、答え。だから私は此処に来た。誰よりも彼に愛されたいが為に、誰よりも彼を愛そうと。 「手の怪我はもう平気なのか」 「うん、もう平気」 「そうか」 「さっきはごめんね、心配してくれたのにあんな事言っちゃって」 「いや、平気ならそれでいいんだ」 少しだけ口元を綻ばせて、緩んだ表情を私に見せた目の前の冬獅郎が座り込んでいる敷き布団にちらり、と目線を向ける。 「…ねぇ冬獅郎って明日非番なんでしょ?」 「あ?あぁ、そうだが…」 「なら私、今日此処に泊まってもいいよね?」 「…は?」 突然の突拍子も無い事を言い出した私の言葉に、冬獅郎は驚愕的な目をした。私のこの言葉の意味が理解出来ない程、冬獅郎は鈍感でも馬鹿でもない。 唖然たる表情をする冬獅郎の目の前で、私は着ていた寝間着をゆっくりと脱いでいった。そして数十秒も経たない内に下着だけの姿となった今の私にはもう破廉恥だとか羞恥心だとか、そう言った感情が全くと言ってもいい程無かった。 ただ一刻も早く私を愛してほしい。あの女よりも、私だけを。欲するモノも、望むモノも、ただ、それだけで。 「○○…お前」 「お願い、…私を抱いて」 桃ちゃんよりも。 心の片隅でそう付け足すや否や、冬獅郎の鎖骨を軽く指で滑らせる。そしてそのままゆるり、と冬獅郎が着ていた寝間着を脱がさせると、突然冬獅郎が「やめろ」なんて言って私の手首をがしり、と掴んだ。 それに無論驚いた私は思わず目を見開き、次いで「…え、?」なんて、強張った笑みが凍り付くのを感じながら声を洩らした。 「…駄目だ」 「何、で…?」 「何でも」 「でもっ…だって私達「○○」 「冬獅郎だって本当は私と「○○!」 「…っ」 「…悪い、今はそう言う気分じゃねえんだ」 刹那、胸に突き刺さった棘が躰を突き抜けた気がした。予想していなかった展開に、動揺が隠せない。込み上げてくる何かが鼻の奥を付き、一気に瞳の奥に熱く迫り上がってくるのが分かる。 …彼はいつも、私が望む言葉を紡いではくれない。 瞳に迫り上がろうとする何かを堪えて、視界がぐるぐると回る。躰から芯が抜けていく。冬獅郎の言葉が頭から離れなくて、震えそうになる躰を必至に抑え付けた。 「…何、で…?」 何であの女は良くて、私は駄目なの? 力が入らない拳に無理矢理力を込めて、必至に込み上げてくるモノを抑え付けながら勢い良く冬獅郎を押し倒した。 突如の私の行動に冬獅郎は少しだけ焦りを露にしながら「おいっ…」なんて眉を顰める。唇をギュッと噛み締めて、冬獅郎の上に跨った状態で冬獅郎を見下ろした。 彼の瞳には、酷く顔を歪めさせている私が映し出されている。私の瞳には、今は驚いたように魅力溢れる綺麗な目を見開く彼が映し出されている。 「何、で…」 喉が、熱い。だからだろうか。頑張って絞り出した声が自棄に震えていて、自棄に弱々しくて。胸の奥底から、まるで溶岩のように込み上げてくる複雑なこれは果たして焦りなのか、怒りなのか、悔しみなのか、それとも悲しみなのか、自分でももう良く分からない。 「○○…」 「何でよ冬獅郎…何でっ…」 「……退け」 「っ…何でよ!!!」 自分でも驚く程のヒステリックな声が響いた。そんな私に、冬獅郎は少しだけ目を眇める。耳鳴りがしそうなくらい張り詰めた空気が漂う中、次第に呼吸が荒くなっていくのが分かった。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、酸素が上手く肺に送れない。 「ねぇ早く私を抱いてよ」 「……」 「早く抱いてよ…!」 「…っやめろ○○!」 「早くっ…!!」 徐々に視界が滲んでゆくのに気付かないふりをして、私は喚きながら嫌がる冬獅郎の手を掴み、無理矢理胸を触らせた。それでも抵抗を示す冬獅郎に私の心は悲鳴を上げ始める。 ああ何で、何でよ冬獅郎。何でそんなに私を拒むの。桃ちゃんには嫌がる素振りすら見せなかった癖に、なのに何で私の時はそうやってどこまでも嫌がるのよ。 「…退けっつってんだろ!」 「…っ!」 不意に冬獅郎の怒声と共に部屋に響き渡ったのはガン、と言う鈍い音だった。次いで側頭部辺りから鋭い猛烈な痛みが駆け巡る。一瞬頭が真っ白になったものの、彼に邪魔だと言わんばかりの乱暴な力で突き飛ばされ、その衝撃で机の角に思いっきり頭を打ったのだと理解するのに時間は其処まで掛からなかった。 痛い、なんて言葉を口に出す余裕すら見つからないまま、打った箇所を手で押さえる。刹那にぬるり、と生温かい液体の感触が手の平から伝わった。ゆらりと睫毛を持ち上げると、重なり合う彼との視線。睨みにも似た彼の翡翠の瞳は、怒りと言うよりも動揺で揺蕩っていた。 「悪い、俺…」 「…謝らなくていい」 「…悪「謝らなくていいってば!」 又もやヒステリックに喚き上げて、頭と胸に疼く痛みを掻き消すようにぐっと拳を握り締めた。 もう、冬獅郎の方を見る事も出来ない。これ以上冬獅郎の瞳を見てしまえば、その瞬間耐えていたモノが忽ち砕けて終わってしまうから。 「…ごめん、ちょっと頭冷やしてくるね」 そそくさと寝間着を着直して、たった一言、感情の無い声を絞り出す。冬獅郎の返事を訊く余裕なんて無い。背後で小さく私の名を紡いだ冬獅郎の声に聴こえないふりをしながら機械人形のように歩き、後ろを振り返る事無く冬獅郎の自室の扉をス、と開けた。そしてそのままパタン、と後ろ手で扉を閉める。 …泣くな。 しゃがみ込んでしまいそうになる膝を何とか叱りつけ、溢れ出る寸前のモノを必至に堪えながら私は走り出した。正直自分が何処を走っているのかもう分からない。自分の脚で走っている感覚すらはっきりしない。ただ分っているのは、少しでもスピードを落としてしまえば二度と走れなくなると言う事だけ。 泣くな、泣くな。もう一人の私が何度も私にそう訴え掛ける。けれど、溢れ出すモノは止まる兆しも無く、次第に嗚咽を伴っていった。それでも私は走り続ける。例え視界が滲んで盲目と化してしまっても。例え両頬に何か冷たいモノが伝い堕ちるのを感じても。例え口内一杯に冷たく塩っぱい味が拡がっても。それでも私は、ひたすら走り続けた。 不意に何かに蹴躓いてしまった私は、そのまま派手な音を立てながら転んでしまう。全身に色んな痛みが駆け巡る。最早起き上がる気力すら湧かない。ただ無慈悲に痛みだけが、全身に駆け巡る。余りにも滑稽過ぎて、自身を嘲笑う気力さえ湧き起こる事は無かった。 「…、」 頭が痛い。凄く痛い。確かに痛いのに、なのに何故だろうか。その痛みのお蔭で胸奥の痛みが幾分和らいだ気がしたのは。フと虚ろな瞳で手の平を見ると、其処には紅の血がべっとりと染み付いていた。 刹那、悲鳴を上げていた心が少しだけ楽になれた気がしたのは、何故だろう。 (何を理由に生きればいいですか) |