きみといきたい
好きな人と、偶然に会った。
いいや。好きな人、だなんて、甘酸っぱくて、顔を赤くし友と小さな声で教え合うような、そんな響きを持つことばを、使うべき人ではない。そう思い返し、小さく頭を振る。
偶然というには、あまりに思い出がある公園だった。海が綺麗に見える、大きい公園の、散歩道。昔よく一緒に語らいながら、歩いたところだ。

「ひさしぶりね」

何事もなく、そう、何もだ。出会ったあの昼過ぎも、距離を縮めた雨の日も、初めて体温を分け合ったあの夜も、これからを誓ったあの朝も、全部。それら全ての日々をいきなりに捨て去ったあの日も、全部。
全部、何事もなかったかのように、他人行儀な、大人みたいな口調で、彼女は笑いかける。
それは、むかつくくらい綺麗な笑顔だ。

「それ以外に、僕に言うことはないの」

動揺を出さないようにと意識したら、冷たく、硬い声になってしまって、少しだけ後悔した。こういう僕の声はコンクリートに似ている。
君は、少し困ったような顔をした。困った時に、下唇を軽く噛む癖が、変わっていないことを知る。なんだか泣き出したい気持ちになった。

「なにか、言ってほしい言葉でもあったの。私はてっきり、もう声も聞きたくないのかと思っていたから、意外だわ」
「僕は、説明をして欲しかったよ。あの日から、今まで、ずっと。去っていった君には、訳も分からず取り残された僕の気持ちなんか、分かったもんじゃないのかもしれないけどさ」
「説明。…説明、ね」

いつの間にか腰に届きそうなほど伸びた髪に、するりと手を通しながら、君は思案顔になった。
いきなり風が吹き付けて、顔をしかめる。海が近いこの公園は、風がなかなか強い。風につられて辺りに目を向けたけれど、もう日も沈んできたこともあって辺りに人は見えなかった。二人きりだ。
昔二人きりでこの公園を歩いていた時はとてもどきどきしたな、とか、思い出して、また頭を振る。

「私が話せることなんてないわ」
「何もない、なんてことないでしょ」
「話したってどうにもならないような事しか、私は持ってないの。話しても、あなたは納得も満足もしないわ」

なんだそれは。心の中で悪態をつく。
普段文句を言えない僕は、それでも口を噤むべきかとも思ったけれど、これを逃すと一生会えなくなるかもしれないので、真っ直ぐに思ったことを伝えようと、君の目を見据える。

「それは、僕のことを考えているつもりで言ってるの? それだったらとんだ自己満足だ。僕がこの数年間どんな思いで生きてきたか、君には想像することもできないのか。
どうしてこんなことになったのか、せめて知りたい、って思う気持ちを分かってくれないのか」

鼻の奥がツンと熱くなる。肝心な時にも涙もろいのは、僕の悪いところだ。格好悪い。
滲みかけた涙を、乱暴に袖口で拭う。

「ずっと私のことを考えてくれてたのね。さっさと忘れても、良かったのに」

なんだその言い草は、と、思ってから、君も泣きそうな顔をしていることに気が付く。
涙もろい僕とは逆で、あまり人前で泣かない君の、珍しい姿に、胸が締め付けられた。
少し考えてから、口を開く。

「……忘れさせてくれなかったんだ。
君の存在が、僕にとって、あまりに大きくて、強烈で…大事で、忘れたくても…、忘れたくたって……!」

ああ、格好悪い。格好悪いけれど、視界が滲んでしまう。言葉の端が震えてしまう。
いきなり消えた君を責めたくて、悲しくて、悔しくて、でも会えたことが嬉しくて、色んな気持ちがごちゃまぜになって、全然上手く喋れない。

「ごめんね」

君の長めの前髪が、ふわりと風に浮いた。涙で濡れた瞳が覗いて、思わずどきりとする。
ずるい。こんなにひどいことをして、ひどいことを言っておいて、まだこんなに僕の心を占めているのは君なんだ。
二人分の涙が、足元の芝に落ちた。海に落ちかけた夕陽に照らされて、落ちていく涙がきらきらして、とても綺麗だ。
考えるよりも早く、少しずつ、君に歩が進んでしまった。肩に、右手を置いて抱き寄せるように。やさしく、ゆっくり、いつか初めてキスをした時のように、距離をなくしていく。
柔らかい唇に、もう一度、触れるかと思った、時。

「だめだよ」

僕の口を塞いだのは、左手と、その薬指についた指輪の、ひんやりとした金属の感触だ。
それらを自覚して、頭が、真っ白になっていく。上手く、立っているかも分からない。

「結婚、したの」
「……ううん、させられるの」

君は、そう言って俯いた。
させられる、とそう言った。その言葉を頭の中で噛み砕く。
そうだ、彼女の家は結構な大企業であり、名家だった。政略結婚というやつだろうか。させられる、ということは、婚約指輪なんだろう、それは。
太めの銀のリングに、彼女には、もっと細身で繊細なデザインのものが似合う、と腹が立った。

「駆け落ちしよう」

なんの考えもなく、口をついた。その言葉が、耳に届いて脳で認識してから、再度、決心が固まる。

「そうだ、駆け落ちだよ、そうしよう。もし何か訳があったんならこれからゆっくり話してくれたらいい。僕たちはやり直せるよ、まだ、大丈夫だよ、きっと」
「…ありがとう。でも、無理だよ」

弱々しく、君は頭を振った。

「こんなに、私のことを、まだ好きでいてくれてるなんて思わなかった。自分勝手だけど、本当に、うれしい。ありがとう。
だけどね、私はもう自由に生きられないから」
「どういうこと?」
「お父さんの会社のための、駒にしか私は思われてないの。ずっと生きている心地がしないよ。
今にだって、申告してる帰宅時間を1秒でも守れなかったら、すぐに使いに私を捜しに行かせるわ。私のためじゃなくて、駒としての私のためにね。ぼろぼろなの、私」
「それなら、尚更駆け落ち…」
「ううん。逃げられっこないよ。命が擦り切れるまで、私のことを使うつもりなの。そういう人達なの。あなたまで巻き込むことになっちゃう」

彼女は現実味のないことは言わない人だ。だから、きっと本当にそうなんだろう。
僕も多額な資金がある訳じゃないから遠くに逃げ続けることもできないし、一般的な交通機関なんて使えば、直ぐに居場所も特定されてしまうんだろう。
それは、わかる。わかるけど、納得できる訳もなかった。

「だから、今日でお別れしなくちゃ」
「嫌だ」
「……私だって、嫌だよ。逃げ出したい、あなたに会いたい、って思いながら、生きてたの。あそこに戻るの、嫌だよ」

震える君の肩を抱き寄せた。小柄な君は、僕の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
僕だって、ずっと君と会いたい、と思いながら生きてきた。生きていた心地がしなかった。ずっとずっと愛していた。泣きたいくらいに、悔しいくらいに。好きだった。
多分、もう僕たちは昔の僕たちとは違う。けれど、この気持ちは形を変えても、同じ気持ちのままだった。きっと、その筈だ。

「逃げ出しちゃいたいね」

逃げられないことを知っている君が、いつの間にか昔みたいな口調に戻っている君が、そんなことを言って薄く笑う。何か返そうと思って、でも、言葉にならなかった。
また潮風が吹いて、二人の間を抜けていった。海の匂いが鼻をつく。
瞼を閉じて、もう少し強く君を抱く。そうすると、君も抱き締め返す力を強めた。
僕は、ゆっくりと切り出す。

「あのさ、…近くに海があるよね」
「うん、あるけど…、」
「逃げちゃおうか」

不思議そうにする君の言葉に被せるように、笑う。
一瞬だけ驚いた顔をして、でも、きっと全てを理解してくれた君もゆっくりと、幸せそうに笑った。






bkm
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